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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第二章 地図から消えた通り

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第二十六話 青鐘通りの地下


 翌朝、青鐘亭で最初に聞こえたのは、ニコが階段を駆け下りる足音ではなく、ミレアが食器を並べる音だった。


「まだ寝てるんですか」


 厨房を覗くと、彼女は朝食の皿を一枚脇へ寄せた。


「さっき起きて、少し食べたわ。でも、昨日のことを聞くと覚えていないところがあるみたいだから、今日は無理をさせたくなくて」


「俺のことも、忘れたままですか」


「名前は言えたの。ただ、私が話したから思い出したのかもしれないし、あの子の中で何が起きてるのか、母親の私にも分からないのよ」


 その口調には、眠れない夜を過ごした人の疲れが滲んでいた。俺は返す言葉を探しながら、二階へ続く階段を見た。昨夜、あの子は俺の背中で、自分が消えるのかと尋ねた。助け出せたことと、失われたものが戻ったことは同じではないのだ。


「戻ったら、靴を見せてもらいます」


「お願い。脱いで寝た方がいいって言っても、嫌がるのよ。セインが直してくれたからって」


 ミレアは困ったように笑ったが、すぐに表情を戻した。


「それと、昨日のことは隠さず教えてくれてありがとう。怖かったけど、何が起きたか知らない方がもっと怖いもの」


 昨夜、俺たちはニコが一時的に俺の顔を認識できなくなったことも、石畳へ沈みかけたことも伝えている。ミレアは何度も質問したあと、息子の部屋へ上がっていった。


「何かあれば、倉庫の管理人へ知らせてください。戻る時刻も伝えておきます」


「ええ。無事に帰ってきなさいね」


 階段を下りる音がして、ニコが顔を出した。以前俺が修理した右足の靴を履き、手すりをつかんで俺を見上げている。


「セイン、今日も靴を見る?」


「帰ったらな。縫い目がほどけてないか、ちゃんと見せてくれ」


「分かった。じゃあ、なくさないように履いて待ってる」


「休む時は脱いでもいいんだぞ」


 そう言うと、ニコは少し考え、それから首を振った。ミレアが苦笑して少年の肩へ手を添える。


「まず朝の薬を飲みましょう。セインたちには仕事があるの」


 俺たちが出発する時、ニコは階段の途中から手を振った。ミレアに支えられている姿を確かめてから、俺は青鐘亭の外へ出た。


     ◇


 調査へ向かうのは、俺とリゼ、リオル、ティセラの四人だった。ネイは右腕の傷を診てもらっており、地下には同行しない。


「僕は残るよ。今日飛び込んだら、今度こそミレアに怒られそうだから」


 包帯を見せながら言うネイに、俺は念を押した。


「冗談じゃなく、休んでてくれ」


「分かってる。何かあったら店から知らせるよ」


 以前なら言葉の端にいつもの軽さがあったはずだが、今日はニコのいる二階へときどき視線を向けていた。それ以上のことを聞くのは、今ではない気がした。


 リオルは腰の小さな革袋を確かめた。境界の入口を開く七・二八五と七・二八六の札は、今も二枚とも彼が管理している。地下倉庫の調査に使う道具とは違うので、取り出す必要がある時まで封をしたままにしておく。


「水路側の係長にも予定を知らせてある。異常があれば倉庫の管理人から青鐘亭へ知らせてもらうし、帰還予定時刻を過ぎたら外側からも確認してもらう」


 リオルが言うと、ティセラは手帳へ時刻を書き込んだ。


「それなら、入口を見つけても勝手に奥へ進まないことね。古い施設があるとしても、図面が正しいとは限らない」


「分かってる。縄も持った」


 俺が答えると、リゼが肩の鞄をたたいた。


「私は焼き菓子を二つ持ちました」


「そこは予備の灯りを先に報告してくれ」


「灯りも入っています。お菓子はその次です」


「優先順位が相変わらずだな」


 そんな話をしている間に、青鐘通りの南端へ着いた。共同の旧倉庫は商店の軒が途切れるあたりに建ち、壁には荷車がぶつかったらしい傷がいくつも残っている。管理している老人に事情を説明すると、彼は奥の棚を指した。


「昔、床下へ降りる口があったという話は聞いたことがある。わし自身は使ったことがないが、あの棚を動かせば調べられるだろう」


 俺たちは許可を得て荷物を移した。床板の角に付いた鉄具は古びていたものの、金具の周囲だけ埃が薄く、近頃動かされたようにも見える。


「誰か先に入ったのかもしれないな」


 リオルが記録を取り、床板を慎重に持ち上げた。下には十数段の石階段が続き、湿った冷気が倉庫へ上がってきた。


「入口は開けたままにしてください。危険だと思ったら、ご自分で確かめに下りず、青鐘亭へ知らせてほしいんです」


 管理人が頷くのを見てから、リオルは階段脇へ縄を固定した。俺たちは灯りを持ち、一段ずつ降りていった。


     ◇


 地下の壁は、現在の水道局が使っている石積みとは造りが違っていた。石と石の継ぎ目が驚くほど細く、ところどころに王家の古い紋章が刻まれている。長年放置されたような埃の下にも、最近誰かが通った靴跡が見つかった。


「水路の補助通路だと思ってたけど、そう簡単な話じゃなさそうね」


 ティセラは壁の紋様を写し取りながら言った。彼女の〈転写〉で紙に浮かぶのは、今そこに残っている線だけだ。摩耗した部分は白く抜けたままで、失われた文字を復元できるわけではない。


「王家が作った施設なのかな」


「技術の系統は近いわ。でも、いつ誰が造ったかまでは分からない」


 リゼは壁の一か所へ近づき、じっと見つめていた。


「どうした?」


「私の首の封蝋と、少し似た感じがします。形じゃなくて……失われたものを別の場所へ預けるような、そんな気配です」


 リゼが感じ取れるのは、あくまで何かが失われた痕跡だけだった。封印の仕組みを読み解けるわけでも、空白の中身を見られるわけでもない。


「無理するなよ」


「分かっています。でも、昨日ニコが沈みかけた時、私には空白が見えていたのに、助け方は分かりませんでした。今度は、見えていることを役立てたいんです」


 真剣な顔をしたリゼへ、俺は頷いた。


「じゃあ、一人で進まないこと。それだけは守ってくれ」


「セインもですよ」


「……お互いにな」


 少し進むと通路は左右へ分かれ、右側からは水が流れる音が聞こえてきた。左の床には新しい靴跡が続いているが、図面はちょうどその先で途切れている。


「人が通った跡を優先しよう。ただし、足跡だけを追って罠へ入るのは避けたい」


 リオルは分岐に目印を残し、俺たちが付いてきているのを確かめながら左へ進んだ。


 ほどなく壁の向こうで金属が擦れる音がして、灯りの端を黒い外套が横切った。


「王都警備隊だ。そこで止まれ!」


 リオルが声をかけた瞬間、人影は奥へ走り出した。俺たちも追ったが、リオルが先頭で速度を調整したおかげで、誰かだけが通路の先へ取り残されることはなかった。


「前に地下水路で追った人影と、関係があるのかな」


 俺が言うと、リオルは足元を確認したまま答えた。


「分からない。同じ外套でも、同じ人間とは限らないぞ」


 人影が姿を消した先には、石造りの大きな扉があった。わずかに開いた隙間から冷たい空気が流れ、足跡はそこへ続いている。リオルが周囲を確かめたあと扉を押すと、俺たちの灯りが広い空間へ伸びていった。


     ◇


 内部は、古い王家の紋章に囲まれた封印施設だった。


 石床には巨大な円と細かな線が何重にも刻まれ、正面の壁には赤黒い石が埋め込まれている。その色がリゼの首元にある封蝋に似ていることに気づいたが、同じものだと断定できる材料はなかった。


 中央には低い石台があり、人影の靴跡はそこで途切れていた。石台の裏側に人が隠れていないことをリオルが確かめ、ティセラは壁面に残った文字を読み始める。


「これ、消去のためだけの術式じゃないかもしれない」


「どういうこと?」


「何かを預かり、状態を保つための構造が含まれているの。切り離す仕組みは見えるけど、消し去ったあとの行き先については、まだ読めない」


 ティセラは〈転写〉で残存する紋様を紙へ写し、一部が欠けたままであることを手帳へ記した。


「預けてあるなら、取り戻せるのかな」


 リゼの問いに、彼女は首を振る。


「そう考えたいけれど、どんな条件で預けられたのか分からないまま返そうとすれば、かえって壊してしまうかもしれないわ」


 俺も頷いた。〈返却〉は物の本来の持ち主や場所をたどる術で、人間そのものを取り戻したり、消された関係を勝手に書き換えたりする能力ではない。ここで術を試しても、何が起きるか分からなかった。


 リオルは石台の裏で小さな金属片を見つけた。埃を払う前に位置を記録し、灯りを近づけると、第七係の刻印が読み取れた。


「俺たちの部署の名前だ」


 金属片は境界調査札の二枚とは形も厚さも違う。削れた番号らしき部分も判読できなかった。


「二十八年前の調査員が落とした可能性はあるけど、同じ札だと決めつけるわけにはいかないわね」


 ティセラの言葉に、リオルは腰の革袋を軽く押さえた。七・二八五と七・二八六は、今もそこへ一緒に入っている。


「係長に見せよう。これも持ち帰る」


 俺は金属片のあった場所と向きを控え、布で包んで鞄へしまった。以前の調査とつながる品なら、紛失した職員の記録を探る手がかりになるかもしれない。


 別の位置には、長い間に擦り減った文字が残っていた。ティセラが読める部分だけを指で示す。


『預託対象』

『帰属切離』


「帰属……」


 俺はその語を口にして、これまで見てきた出来事を思い返した。人が青鐘通りから出ようとしても別の入口へ戻される。外の人々は、通りもそこに暮らす家族も思い出せない。物を所有していることと、ある場所に属していることは、確かに同じではない。


「青鐘通り全体のつながりを、王都から外しているのか」


「そういう可能性はあるわ。でも、誰のどんな関係を対象にしているのか、削れた部分までは読めない」


 リゼが壁を見上げた。


「私には、ここへ向かって空白がいくつも集まってくるように見えます。通りの方から延びていて、この施設の奥で途切れている感じです」


「その先は?」


「分かりません。空白の向こうまで見えるわけじゃないですから」


 リオルが帰還予定時刻を確かめた。これ以上深く調べるなら、人手と専門的な記録を持って出直す必要がある。俺たちは床の紋様へ目印を残さず、写し取った記録をまとめ始めた。


 その時、奥の金属棚の裏で小さな音がした。


     ◇


 リオルが先に動き、棚から距離を取って灯りを向けた。壁には小さな扉がはめ込まれ、蝶番の古さに似合わず半分ほど開いている。


「誰か、そこにいるのか」


 返事はなかったが、扉の向こうで金属が細かく触れ合う音が続いていた。


 俺は一歩近づきかけた。すると、闇の中から子供の声が聞こえた。


「……セイン?」


 耳を疑った。今朝、青鐘亭の階段から俺を呼んだニコと同じ声だった。


「ニコ?」


 名前を呼ぶと、リゼが俺の腕をつかんだ。


「セイン、ニコはお母さんと青鐘亭にいます。出発する時、ちゃんと会いましたよね」


「分かってる」


 頭ではそう理解しているのに、足が動こうとする。昨夜、あの子は俺の背中で、自分が消えるのかと尋ねた。その時の頼りない声が、扉の向こうから聞こえてくるのだ。


「……誰か、いるの?」


 もう一度声がした。俺は灯りを握り直したが、扉へ飛び込むことはしなかった。


「リオル、先に足元と扉の周りを調べよう。本人がここにいるとは限らない」


「ああ。俺が確認する。全員、少し下がっていてくれ」


 ティセラは石台から離れ、リゼも俺の隣へ下がった。扉の奥で何が声を出しているのか、まだ分からない。昨日助けた少年が無事に店で休んでいることも、確かめたばかりだ。


 それでも、ここまで追ってきた空白の行き先が、この先にあるのだとしたら。


「……行くぞ」


 俺はリオルへ声をかけた。彼が頷いたのを確かめ、俺たちは慎重に半開きの扉へ近づいた。


 その向こうから、またニコによく似た声が聞こえていた。


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