第二十五話 ネイが笑わなかった
青鐘亭へ戻った時、厨房ではミレアが大鍋の火加減を見ていた。俺たちが広場で起きたことを話し始めると、彼女は火を弱め、最後まで口を挟まずに聞いてくれた。
誰かと話し、今夜また会う約束までしたはずなのに、その人物の名前も顔も思い出せない。盤遊びの机には三脚の椅子が残り、空席の前の湯飲みはまだ温かかった。〈返却〉を試した木の駒には、帰る先が存在しないという結果が出ている。
「……つまり、ここにいる人まで消えるかもしれないってこと?」
ミレアは布巾を折り畳み、カウンターへ置いた。平静に聞こえる声とは裏腹に、指先はしばらく布から離れなかった。
「そうと決まったわけではありません。ただ、誰かがいた痕跡だけを残して、本人に関する記憶が失われた可能性があります」
俺が答えると、彼女は二階へ続く階段を見上げた。
「ニコには今夜、外へ出ないように言ってあるの。あの子、私が忙しいとすぐに店を抜け出すでしょう」
「今は二階で宿題をしているはずです。あとで私が見る約束なので」
リゼの返事に、ミレアは少しだけ表情を緩めた。
「母親の私が言っても聞かないことを、リゼが言うと聞くのよ。少し悔しいわね」
「たぶん、宿題が終わったらお菓子を食べようって約束したからです」
「それなら納得したわ」
短い笑い声が店内へ広がったものの、誰も長くは笑えなかった。住民への聞き取りはリオルとティセラが引き継ぎ、夜間の単独行動を避けるよう呼びかけることになっている。異変を察知した人が相談できるよう、ミレアも青鐘亭を連絡場所として使ってよいと言ってくれた。
俺は持ち帰った木の駒を布ごしに確かめた。指先に伝わる滑らかな輪郭だけは確かで、それを作った人のことは思い出せない。
「リゼ、例の真鍮札は持ってるか」
「はい。ここに」
彼女が鞄から出したのは、ミレアにもらった二枚の荷札のうち、手元に残している一枚だった。もう一枚は、名字を失ったガロへ渡してある。残った札には、広場にいた人物について確かめられたことが三行だけ書かれていた。
『広場にいた人』
『盤遊びが好きだった』
『今夜、誰かと約束していた』
「……まだ読めるな」
俺が言うと、リゼは少し安心したようだった。しかしティセラが以前から警告しているとおり、文字が残っていることだけで、そこに書かれた人物が戻れるとは限らない。俺たちは札の状態と確認した時刻を手帳へ記し、リゼが引き続き保管することにした。
「今夜、広場へ戻る約束も忘れてませんよね」
「ああ。相手を思い出せないからって、約束までなかったことにはしたくない」
リゼが頷いたところで、階段の上から床を踏む音がした。ニコが下りてくるのだと思って顔を上げたが、誰も姿を見せない。
「……ニコ?」
ミレアが呼びかけた。返事がなかったので、リゼが宿題の様子を見に上がり、俺もそのあとを追った。
◇
二階の小部屋では椅子が引かれたままになっていた。ニコが昨夜広げていた宿題の紙も、机の端に置かれていた鉛筆も見当たらない。
「私、ここで一緒に問題を解きましたよね」
リゼは机へ手を近づけたが、すぐに引っ込めた。
「覚えてます。でも、どの問題を解いたのか、今は思い出せないんです。机の周りに、何かがあった跡だけ残っていて……」
リゼは、自分だけが感じ取っている空白の様子を、懸命に言葉にしようとしていた。俺には整頓された部屋にしか見えない。もし誰かが紙を片づけたのなら、それだけで済む話だが、ニコ本人が見つからない以上、偶然だと思い込むのは危険だった。
ミレアもすぐに上がってきた。息子の名前を呼びながら自分たちの居間や物置を確かめ、廊下の窓から裏庭を見下ろしたが、姿は見つからなかった。
「さっきまでいたのよ。宿題を終えたら一緒に夕食を食べようって、約束したのに」
彼女は窓の枠を握ったまま、俺たちへ振り返った。
「セイン、あの子を探して。私も行くわ」
「まず俺たちが通りを探します。もし自分で帰ってきたら、ミレアさんが迎えてやってください。情報が入った時も、ここにいてもらえると助かります」
俺がそう伝えると、ミレアはすぐには頷かなかった。母親としては、息子がいない場所にじっと留まる方がつらいのだろう。それでも一度目を閉じ、深く息を吐いてから俺へ向き直った。
「……お願い。見つけたら、すぐに知らせて」
「必ず探します」
階下ではガロが店の連絡役を引き受け、リオルとティセラは南側の路地を確認することになった。俺とリゼは広場から東へ向かう。境界の近くへ不用意に踏み込まず、発見しても単独で動かないことを約束して別れた。
◇
青鐘通りには、夕方の支度をする人々の声がまだ残っていた。店先で片づけをする人、子供を呼びに出てきた人にもニコの特徴を伝えたが、誰も見ていないという。
「……こっちです」
広場を通り過ぎた時、リゼが俺の袖を引いた。彼女が見つめていたのは東側へ延びる細い路地で、石畳の継ぎ目はごく普通に見える。
「ニコのものかどうかは分かりません。でも、何かが抜け落ちた跡が続いています。しかも、道の先だけじゃなく地面の下へも延びているんです」
「足元のどこが危ないか、見えるか?」
「輪郭だけなら。近づく前に止めます」
俺は頷き、灯りを少し下げた。狭い路地を抜けたところに少年の姿があった。境界の石壁から少し離れた石畳の真ん中で、足元を不思議そうに眺めている。
「ニコ!」
振り返った少年は、俺を見ても表情を変えなかった。
「……誰?」
俺は息を呑んだ。
「セインだよ。この前、靴を直しただろ」
ニコは右足を持ち上げ、縫い直された靴の先を確かめた。しかし俺の顔へ戻ってきた視線には、懐かしさも親しみもなかった。
「覚えてない?」
少年が首を横へ振る。リゼが名前を呼ぶと、ようやく何か引っ掛かったらしく、戸惑いながら「……壁の人?」と尋ねた。
「はい、リゼです。私の名前は覚えてますか」
「……リゼ」
「そうです。今から一緒に、お母さんのところへ帰りましょう」
その言葉を聞いたニコは、初めて泣きそうな顔になった。
「母さんのところへ帰りたい。でも、足が動かないんだ」
俺たちが視線を落とした時、少年の右足が石畳へ沈んだ。地面にはひび割れ一つなく、石は硬いままなのに、ニコの膝が少しずつ下へ引き込まれていく。
「ニコ、じっとしてろ!」
俺は駆け寄ろうとして、危うく足を止めた。以前ガロを境界の外へ引き出そうとした時、助けたい一心で強く腕を引いたせいで、かえって彼を危険にさらした。あの失敗を繰り返すわけにはいかない。
「リゼ、安全な足場を教えてくれ。俺が近づいて、手を伸ばせる場所を探す」
彼女が頷き、空白の輪郭を確かめ始めた時、路地の角から誰かが走ってきた。
ネイだった。
「ニコ、こっちを見て!」
普段の気楽な調子とは違う強い声に、少年が顔を上げた。ネイは止まらずに駆け寄り、その小さな手をつかむと、自分も石畳の下へ身を沈めた。
「ネイ!」
そこには穴がない。二人の体が深く沈むたび、俺の目には石が元通りの平面として残るだけだった。何が起こっているのか理解できず、歯を食いしばる。
「まだ二人ともいます!」
リゼが示す足場まで進んだ俺は、用意していた縄の輪を足元に置き、いつでも体を支えられるよう構えた。ネイを呼んでも返事がない時間が続き、遠くに聞こえる人の声ばかりが妙にはっきりした。
やがて地面の下から、掠れた声が届いた。
「セイン、そこから動かないで。今、ニコを上げる」
石畳の上に少年の腕が現れ、続いて肩が押し出された。俺とリゼは二人がかりで受け止め、安全な場所まで引き寄せる。
ニコは激しく咳き込んだが、呼吸は次第に落ち着いていった。自分の名前を答え、リゼのことも何とか思い出せた。俺の顔にはまだ少し戸惑っていたが、修理した靴を確かめると、かすかな笑みが浮かんだ。
「靴……直してくれたの、セイン?」
「そうだよ。まだ壊れてないだろ」
「……うん」
俺がようやく息を吐いた時、ネイが石畳の上へ這い出してきた。左手をついて立ち上がろうとした彼の右袖は大きく裂け、腕には深い傷が走っていた。
「動くな。今、手当てする」
「……ニコは?」
ネイは傷より先に少年を見た。俺が無事を伝えると、ようやく壁に背を預けた。
「よかった」
それまでのネイから聞いたことのない、疲れ切った声だった。
◇
近くの家から清潔な布を借り、リゼがネイの右腕を応急手当てした。薬屋へ連れていく必要がある傷だったが、本人はニコが歩けるかばかり気にしている。
「どうしてあんなことができたんだ?」
俺が尋ねると、ネイはしばらく黙っていた。
「……前にも、似たことがあったんだ。あの時は間に合わなかった」
「誰を助けようとした?」
答えはなかった。彼は包帯を巻かれる腕へ目を落とし、声を落とした。
「今日は、間に合ったんだよね」
「ああ。お前のおかげだ」
ネイはそれ以上何も聞かず、少しだけ目を閉じた。いつもなら笑いながら話を逸らす男が、今は冗談を考える余裕さえないようだった。
ニコは俺が背負って帰ることにした。途中で何度も自分で歩くと言ったが、肩へ額を預ける頃には、声にも疲れが滲んでいた。
「セイン、俺、あそこで何してたんだろう」
「それを確かめたいんだ。学校へ行こうとしていたのか?」
「分かんない。誰かに呼ばれた気がして、そっちへ行かなきゃって思った」
それ以上尋ねても、少年が苦しくなるだけだろう。
「無理に思い出さなくていい。まずお母さんに会おう」
「……母さん、怒るかな」
「かなり心配してたからな。でも、顔を見せてやれば少し安心するよ」
ニコは頷き、しばらく歩いてから小さな声で尋ねた。
「俺、消えるの?」
何も起こらないと約束することはできなかった。それでも、今こうして少年の重みを背中に感じていることだけは確かだった。
「俺一人じゃ何もかも解決できない。でも、リゼもリオルもティセラもいる。帰り道を探すために、みんなで調べてるんだ」
「……明日も、俺のこと覚えてる?」
「覚えていたい。だから、お前の名前も今日のことも、ちゃんと記録しておく」
ニコは俺の肩を少しだけ握った。
◇
青鐘亭へ着くと、ミレアが店から飛び出してきた。俺が少年を下ろすより早く駆け寄り、膝をついてその肩を抱きしめる。
「ニコ! どこへ行ってたの。あれほど一人で出歩かないように言ったでしょう!」
「……ごめんなさい」
「怪我は? 苦しいところはない? ちゃんと立てる?」
ニコが頷くたび、ミレアは頬や額に触れ、確かめずにはいられない様子だった。叱るつもりでいたのだろうが、最後には言葉を失い、息子を抱き寄せたまま動かなかった。
「母さん」
「……何?」
「ただいま」
ミレアは少年の髪に顔を寄せてから、ゆっくり答えた。
「お帰りなさい」
俺はその様子を黙って見守った。ニコが一時的に俺を認識できなくなったことも、足元の異変についても、あとで母親にきちんと伝えなければならない。だが今は、二人が顔を見られること自体を大切にしたかった。
ミレアはネイの包帯に気づくと、すぐに表情を引き締めた。
「あなたが助けてくれたのね。ありがとう。でも、その腕は薬屋に診てもらわないと」
「ちょっと擦っただけだよ」
「擦り傷なら、そんなに顔色は悪くならないわ。ガロ、付き添ってあげて」
ガロが頷き、ネイの左側へ回った。ネイは珍しく素直に従っていたが、店へ入る直前にニコが振り返ると、その場で足を止めた。
「ネイ、ありがとう。また明日ね」
「……うん。また明日」
ネイは手を上げたものの、笑わなかった。少年が母親に連れられて階段を上がるまで見届け、ようやく視線を外した。
◇
その日の聞き取りがひととおり終わる頃には、通りは夜の静けさに包まれていた。ティセラが調査図を広げる前に、俺はリゼへ声をかけた。
「広場へ行こう。約束しただろ」
リゼは鞄へ手を入れた。
「忘れてません。札も持っています」
彼女が取り出した真鍮の荷札には、夕方に確認した三行の文字がまだ残っていた。俺たちは青鐘亭の人々に行き先を告げ、遠くへ離れないことを約束して広場へ向かった。
盤遊びの机には椅子が三脚並んでいた。二人の老人は既に帰ったあとで、使われなかった一脚が街灯の下に残っている。木の駒を包みから出して机の端へ置くと、なぜかその場所へ置くべきものだったような気がしたが、名前も顔も浮かばなかった。
「俺たち、ここで勝負する約束だったんだと思う」
「相手が誰か、やっぱり分かりませんね」
「ああ。でも、約束したことまで忘れたくない」
しばらく二人で待ってみた。誰も現れず、灯りに照らされた盤の線だけが薄く見えている。リゼは札の文字をもう一度確かめ、俺は木の駒を持ち帰るため布へ包み直した。
「いつか、ちゃんと相手が分かったら勝負したいな」
「その時は私も見ています。セインが負けるところを」
「最初から負ける前提かよ」
リゼは少し笑ったが、その視線は空席から離れなかった。
青鐘亭へ戻ると、リオルとティセラがテーブルに古い地下水路の図面を並べていた。リゼがニコの足元に見えた空白を地図へ書き込むと、その線は東側の路地から南へ延び、旧倉庫の近くを指していた。
「この倉庫、昔は地下へ降りる通路があったかもしれないわ」
ティセラは二十八年前の調査図へ灯りを寄せた。
「今の水道局の図面にはないけれど、ここだけ古い通路を示す線が残っている。明日、管理人に確認してみましょう」
リオルも頷いた。
「明日は朝から調べる。ただし、ニコとネイは休養だ。入口の確保と外への連絡方法も整えてから入る」
俺は図面の端へ調査場所を書き込み、鞄を閉じた。木の駒と空欄のある手帳が、まだ中に入っている。
二階から、ミレアの声が聞こえた。
「ニコ、明日はもう少し休みなさい」
「……母さん、セインたち来る?」
「来るわよ。今日はもう寝ましょう」
そのやり取りを聞きながら、俺は明日の調査図へ目を戻した。母親が息子の名前を呼び、息子がそれに答える。今夜、青鐘亭ではそれが当たり前のように繰り返されている。
その当たり前を守るために、俺たちは地下へ行かなければならなかった。




