第二十四話 さっきまで誰かいた
「妹の顔まで思い出せなくなったの?」
ティセラは筆記具を置いた。
青鐘通りの北側にある、白い壁と緑色の窓枠の家の近くで、俺たちはようやく彼女を見つけた。調査のために住民の話を聞き歩いていたらしく、手帳には細かな書き込みが並んでいる。
俺は今朝から起きたことを説明した。
ガロが自分の名字を口にできなくなり、青鐘亭の給金帳簿からも「ローデン」という部分が消えたこと。そのあと、王都の外で暮らす妹エマの名前は覚えているのに、顔を思い浮かべられなくなったこと。
「でも、ガロさんの手袋へ〈返却〉を使ったら、本人のところへちゃんと戻ったんです」
俺が付け加えると、ティセラは慎重に頷いた。
「名前や記憶が失われても、物とのつながりは残っている場合があるのね。帰属が全部同時に切り離されるわけではないのかもしれない」
「その可能性はあります」
彼女は確かめられた事実と自分の推測を分けて書き込み、顔を上げた。
「聞き取りを増やしましょう。最近、何かがおかしいと感じた人だけじゃなく、家族に変化があったという人の話も聞きたいわ」
「手伝います」
リゼが答えた。
その時、ティセラは白い壁の家へ目を向けた。
「それと、あの家のことも終わっていないの」
そこは、今朝俺が子供用の靴を二足見た家だった。玄関には茶色い革靴と赤い留め具の靴が並んでいたのに、あとで確かめた時には赤い方だけが残っていた。
「ご主人にも話を聞けたわ。子供は娘一人だって。近所の人たちも、もう一人いた覚えはないらしいの」
「じゃあ、本当に一人だった?」
俺が尋ねると、ティセラは首を振った。
「決めつけられない。あなたが茶色い靴を見たという記録は残っているし、最初の聞き取りとも食い違っているから」
俺は玄関を見た。左の踵が少し潰れた茶色い革靴を見たことは、まだ覚えている。
靴一足を見たというだけで、そこにいたはずの人間を証明できるとは思わない。それでも、何もなかったことにはしたくなかった。
「今ある記録を残しながら、調べましょう」
リゼが言う。
「ええ」
ティセラも頷いた。
俺たちは役割を分け、聞き取りを続けることにした。
◇
一時間ほど歩き回ると、さすがに疲れてきた。
名前と住所を聞くだけなら簡単だが、家族のことや昨日までの出来事を尋ねると、相手の表情が変わる。丁寧に答えてくれる人もいれば、不安になって質問を止めてほしいと頼む人もいた。
俺たちは調査のつもりでも、相手にとっては自分の暮らしを一つずつ疑われる時間なのだろう。
「……ごめんなさいね」
聞き取りに応じてくれた仕立屋の女性が言った。
「今は何か忘れた気がするわけじゃないんだけど、何度も確かめられると、自分で自分の記憶が怖くなってしまって」
「こちらこそ、すみません。無理に続けなくて大丈夫です」
俺は礼を言い、店を出た。
記録を集めるために人を傷つけたのでは意味がない。必要な質問と、今は聞かなくてよい質問を分けなければならなかった。
「セイン、一度休みません?」
リゼが俺の顔を覗き込んだ。
「あと何人だっけ」
「十四人です」
「結構いるな」
「だから休むんです」
彼女は中央広場を指した。
「ベンチもありますし」
「お前も疲れた?」
「私は可愛いので大丈夫です」
「疲れと関係ないだろ」
「否定しないんですね」
「今さらな」
リゼは笑い、俺もつられて口元を緩めた。息を整えるために、二人で広場へ向かった。
◇
中央広場の木陰では、三人の老人が盤遊びをしていた。
二人が向かい合って駒を動かし、横の一人が盤を覗き込んでいる。どうやら助言のつもりで口を出しているらしいが、そのたびに対戦している二人から文句を言われていた。
「そこじゃないだろう!」
「横から言うな、ヨルン」
「見てられんから言っとるんだ」
「お前が打ったって負けるだろ」
「わしなら三手で勝つ」
「昨日も同じこと言ってたぞ」
三人が笑った。
俺たちに気づいた横の老人が顔を上げる。
「おお、返却屋」
「返却士です」
反射的に訂正すると、老人は楽しそうに肩を揺らした。
「細かいなあ、若いのに。物を返すんだから同じだろう」
「役所では結構大事なんですよ」
その老人はヨルンと名乗った。七十二歳で、長い間、桶や樽を作ってきた職人だという。固有術は〈接着〉で、木と木を丈夫につなげるのが得意らしい。今は仕事を息子に任せ、広場で盤遊びをするのを日課にしているそうだった。
「今日は勝ってますか?」
リゼが尋ねる。
「今から勝つところだ」
「まだ一手も指してないじゃないか」
口髭の老人が笑う。
「指してないんじゃない。様子を見てるんだ」
「昨日も様子を見て負けてたぞ」
「昨日の話はするな」
賑やかな人たちだった。広場にいる間は、家族を忘れることも、自分の名前をなくすことも、まるで別の世界の話のように思える。
ヨルンは盤の横から、小さな木製の駒を取り上げた。
ほかの駒より少し変わった形で、片側には丸い窪みがあり、頭の部分には細い線が三本刻まれている。
「これは若い頃に自分で作ったんだ。見てみろ」
差し出された駒を受け取ると、指が引っかかる場所のない滑らかな手触りだった。底面だけは長く使われたためか、少し濃い色をしている。
「……綺麗ですね」
「そうだろう。わしの〈接着〉は便利だが、木を削る腕までは上手くしてくれん。手を動かさないと良い物は作れないからな」
「分かります。実家が靴屋で、木型を作る時にも最後は手で調整していました」
「ほう。お前さん、話が合うな」
ヨルンは嬉しそうに駒を受け取り、掌で転がした。
「盤遊びはできるか?」
「少しなら」
「なら、今夜ここへ来い。一勝負しよう」
「今日は調査があるので……」
「負けるのが怖いか?」
安い挑発だと思った。分かっていたのに、つい返事をしてしまう。
「……一回だけなら」
「セイン、乗るんですね」
リゼが呆れた声を出した。
「一回だけだって」
「三回勝負にしよう」
ヨルンが言った。
「今、一回って言いましたよね」
「三回で一勝負だ。老人の計算に文句をつけるな」
盤を囲む三人もリゼも笑った。俺も苦笑しながら手帳を開き、約束を忘れないよう書き込む。
『今夜、広場でヨルンと勝負』
「これで決まりだな!」
ヨルンが満足そうに頷いた。
その時、広場の向こうから女性の悲鳴が聞こえた。
◇
「誰か! お願い、来て!」
声の方へ走ると、家の前で女性が座り込んでいた。そのそばには十三歳くらいの少年が立ち、何が起きたのか分からない様子で辺りを見回している。
「どうしました!」
俺が声をかける。
「息子が……息子が、私を知らないって……」
女性は震える声で訴えた。
俺は少年の前へしゃがんだ。
「君の名前は?」
「……フィン」
「俺は第七係のセイン。今、何があったか教えてくれるか」
フィンは女性を見た。
「この人が家にいたんだ。知ってる人みたいに話しかけてくるけど、俺、分からなくて……」
「お母さんじゃないの?」
「……そう言うんだ」
少年は困ったように視線を落とした。
女性は自分が母親だと証明しようとした。幼い頃の話も、家の中でしか知らないはずの出来事も語ったが、フィンの表情は変わらない。彼にはそれが、知らない女性から突然身の上話を聞かされているように感じられるらしい。
名前を知らないわけではない。言葉も通じるし、家のことも覚えている。ただ、目の前の人が母親だという実感だけが失われている。
「……待ってください」
リゼが静かに言った。
彼女は母親へ目配せしてから、フィンの前へ座る。
「この人が本当にお母さんかどうか、今すぐ決めなくてもいいですよ」
「……いいの?」
「はい。ただ、あなたのことを心配しているのは分かりますか」
フィンは女性の顔を見た。
「……うん」
「では、そばにいてほしいですか。それとも、少し離れていてほしいですか」
少年はしばらく迷った。
「……そばにいてほしい。でも、知らない人みたいで怖い」
母親が涙を拭った。
「分かったわ。無理に母さんと呼ばなくてもいい。あなたが望むなら、ここにいるから」
フィンはようやく、小さく頷いた。
近所の人に父親を呼びに行ってもらい、俺たちは二人を家の中へ案内した。無理やり思い出させようとするより、今は不安な少年と母親を引き離さないことを優先する。
リゼが母親の肩へ手を置いているのを見ながら、俺は胸の奥が重くなった。名前や記録が消えるだけではなく、同じ屋根の下で暮らしてきた人まで、突然他人のように感じられてしまう。
これが次に誰へ起きるのか、俺たちには分からなかった。
◇
広場へ戻ろうとした時、妙な違和感があった。
「……リゼ。俺たち、休みに行くところだったよな」
「はい。盤遊びをしている人たちがいました」
「そこで何を話したんだっけ」
リゼは足を止めた。
俺たちは確かに誰かと話し、笑っていた。それだけは覚えているのに、誰に何を言われたのか、思い出そうとするほど曖昧になる。
「……何か、約束しませんでした?」
リゼが尋ねた。
「した気がする。今夜、どこかで……」
俺は広場へ向かって歩く速度を上げた。
木陰の机では、二人の老人が盤を挟んで座っていた。その横には椅子がもう一脚あり、誰も座っていない席の前に湯飲みが置かれている。
まだ湯気が立っていた。
「どうした、返却屋」
口髭の老人が顔を上げた。
「返却士です」
反射的に訂正してから、胸がざわついた。
ついさっきも同じことを言った気がする。しかし、それを誰へ言ったのかが分からない。
「ここに、もう一人いませんでしたか」
「何が?」
「盤遊びをしていた人です」
「わしら二人だけだぞ」
背の高い老人が答えた。
「ずっと?」
「そうだが」
俺は空いた椅子を見た。座面に誰かがいた跡を探しても、目に見えるものは残っていない。けれど、目の前の湯飲みは誰かが使っていたように見える。
「その湯飲みは誰のですか」
「知らんよ。誰かが置いていったんじゃないか」
老人たちは本気でそう思っているらしい。
「……セイン」
リゼが座面の辺りを見つめた。
「あります。ここに、誰かがいたはずです」
「誰か分かるか?」
「分かりません。名前も顔も、どんな人だったのかも」
俺は記憶を探った。何かを作る話をしたような気がするのに、相手の姿が出てこない。さっきまでは声を聞き、笑っていたはずだった。
そこで手帳を思い出した。
何かの約束を書いたはずだ。
急いで頁を開くと、そこには一行分の空白があった。紙へ筆圧だけが薄く残り、インクは綺麗に消えている。
「……嘘だろ」
自分で書いたことは覚えている。しかし、何を書いたのか読めない。空いているのは文字の形ではなく、その人との約束そのもののようだった。
「セイン、何を書いたんですか」
「……分からない。約束したことは覚えてるのに」
そう答えるのが、ひどく嫌だった。
◇
リゼがティセラを呼びに行く間、俺は広場に残った。
二人の老人へ椅子と湯飲みのことを尋ね直したが、答えは変わらなかった。嘘をついている様子はなく、問い詰めるほど相手を困らせてしまう。
質問をやめた時、椅子の下に小さな木の駒が落ちていることに気づいた。
片側には丸い窪みがあり、頭には細い線が三本刻まれている。拾い上げると滑らかな木肌が指先に触れ、使い込まれた底面だけが少し濃い色をしていた。
見覚えがある。
ついさっき、誰かが誇らしげに見せてくれたような気がした。俺も一度、この駒を手に取ったはずだ。
それなのに、相手の顔が出てこない。
「これ、どなたの駒ですか」
口髭の老人も、もう一人も首を振った。
机には一人分余った椅子と、持ち主の分からない湯飲みがある。俺の手帳には書いたはずの文字が失われ、掌には誰のものか分からない駒が残っている。
どれも小さな証拠だったが、そこに誰かがいたと考えるには十分だった。
その人だけが見つからない。
やがてティセラがリゼと戻ってきた。俺が説明すると、彼女は自分の聞き取り手帳を開いた。
「今日、広場の住民からも話を聞いたわ」
そこには、日付と「広場」「住民三名」という記録があった。ところが、名前が書かれているのは二人だけで、三人目の欄が空白になっている。
「……三人と書いてあるのに」
俺が言う。
「ええ。確かに三人から聞いたと思う。でも、もう一人が誰だったのか、どうしても思い出せないの」
ティセラは空欄の下に残った小さな印を指した。
「これは、あとで詳しく調べようと思った相手につける印なの。だから、気になる話を聞いたはずなのに、その内容も分からなくなっている」
古い帳簿ではない。数時間前に書いたものからも、人ひとり分の情報が抜け落ちていた。
ティセラは椅子と湯飲み、木の駒の位置を丁寧に図へ写し取った。リゼも、自分に感じられる空白の輪郭を説明する。ただし、見えなくなったものが何であるかまでは、誰にも分からなかった。
「〈返却〉を試してもいいですか」
俺が尋ねると、ティセラはすぐには答えなかった。
「何を確かめたいの?」
「この駒が本当にさっきまで誰かの持ち物だったなら、元へ戻ろうとするかもしれません」
彼女は周囲の人を見回し、離れてもらってから試すよう言った。俺は頷き、空いた場所で木の駒を掌へ載せた。
〈返却〉が働けば、持ち主の場所へ向かうか、何らかの反応があるはずだった。
「〈返却〉」
駒が一度だけ小さく震える。しかし、それ以上は動かず、帰るべき先へ引かれる感覚も伝わってこなかった。
もう一度意識を集中させたが、結果は変わらない。
代わりに、手の中へ白い紙が現れた。
『返却対象:遊戯駒』
『返却先:存在しない』
俺はしばらく、その二行を見つめた。
エドランの万年筆を返そうとした時にも、同じような結果を見たことがある。持ち主がいたはずなのに、術は帰る先を見つけられなかった。
「……前にも、これが出ましたよね」
リゼの声が震えた。
「ああ。エドランの万年筆と同じだ」
ティセラが慎重に口を開く。
「同じ仕組みが働いたとは、まだ断定できないわ。帰る先がないからといって、その人が死んだとか、完全に消えてしまったとか、今は決められない」
「分かっています」
俺は答えた。
けれど、少なくとも今の俺の〈返却〉には、その駒を返せない。その事実だけは、どう説明しても変わらなかった。
◇
「……私、空白が見えるのに」
リゼが呟いた。
彼女は誰も座っていない椅子を見つめていた。
「誰かがいたことしか分からないんです。名前も顔も、何を話したかも、さっきまでここにいたのに」
ティセラが何か言おうとしたが、リゼは小さく首を振った。
「こんなの、何のために見えるんでしょう」
俺にも答えはなかった。
リゼのおかげで、俺たちは見過ごしていた欠落をいくつも見つけてきた。しかし、今目の前にある空席へ誰が座っていたかという、たった一つの問いには答えられない。
どれだけ悔しいか、俺にも分かった。
「……悔しいな」
口にすると、リゼが顔を上げた。
「はい。悔しいです」
俺は手の中の木の駒を見た。誰かが自分の手で削り、長く使ってきたものだ。名前も分からない相手なのに、大切なものだったということだけが伝わってくる。
「でも、何もなかったわけじゃない。ここに誰かがいたことは確かめられた」
俺が言うと、リゼは頷いた。
「はい」
「足りないなら、もっと探そう」
ティセラも同意し、古い住民名簿や仕事の記録を調べる必要があると話した。今すぐには分からなくても、まだ確かめられるものがある。
俺が係長へ報告するための方法を考えていると、リゼが鞄から小さな真鍮の荷札を出した。
昨夜ミレアから受け取った二枚のうち、手元に残していた一枚だった。もう一枚にはガロの名字を書いて渡してある。
「何を書くんだ?」
俺が尋ねる。
「今、分かっていることです」
リゼは札の裏へ、ゆっくり文字を書いた。
『広場にいた人』
『盤遊びが好きだった』
『今夜、誰かと約束していた』
名前も顔も分からず、正確な年齢さえ思い出せない。それでも、その人が何かを好み、誰かと約束をしたことは残しておける。
「……いいと思う」
俺が言うと、リゼは札を握った。
「これ、私が持っていていいですか」
「ああ。ただ、文字が薄くなったらすぐ教えてくれ」
「はい」
彼女は大切そうに鞄へしまった。
◇
広場を離れる前に、俺は空いた椅子へもう一度目を向けた。
湯飲みからはもう湯気が上がっていない。盤の駒は途中まで進められたままで、二人の老人は事情が分からないまま困った顔をしている。
この机の横には、確かに誰かが座っていたはずだった。俺たちは話をし、何かの約束までした。その記憶が抜け落ちた今でも、なぜか約束だけを破りたくないという気持ちが残っている。
木の駒を布へ包み、鞄の奥へしまった。今は持ち主へ返せないが、だからといって置き去りにはできなかった。
「セイン。今夜、もう一度ここへ来ませんか」
リゼが隣で言った。
「何で?」
「誰かと約束したなら、守りたいので」
俺は椅子を見た。相手も、何をする約束だったのかも思い出せない。それでも、今夜ここへ来ると話したような気がした。
「……そうだな。来よう」
リゼは少しだけ笑った。
俺たちは青鐘亭へ向かって歩き始めた。人々が店を閉め、子供を呼ぶ声が通りに響き、軒先では洗濯物が取り込まれている。夕方の暮らしは普段と変わらないように見えたが、その中から一人が失われたかもしれない。
誰もその人を思い出せないことが、何より恐ろしかった。
ミレアとニコに知らせなければならない。ガロにも、外にいる係長たちにも、通りの中で起きたことを伝える必要がある。
それでも今夜は、もう一度広場へ戻ろうと思った。
誰と交わしたか分からない約束を、まだ破りたくなかったからだ。




