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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第二章 地図から消えた通り

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第二十三話 自分の名前が出てこない


「セイン、来てください」


 青鐘亭へ戻って、まだ三十分も経っていなかった。


 俺は店の隅で、さっきの調査結果をまとめていた。


 三つの出口は、別の入口へ戻る。


 ガロと手をつないで境界を越えようとした時、俺たちの腕には強い力がかかった。


 そして俺は、危険だと分かっていたのに、手を離すのが遅れた。


 そこまで書いたところで、リゼに呼ばれた。


「ガロさんが、少し変なんです」


 厨房の横を見る。


 ガロは椅子に座り、何も持たない両手を見つめていた。


「手首が痛むのかな」


「聞いても、大丈夫だって。でも……」


 リゼは少し迷った。


「自分の名前を、何度も確かめてるんです」


 俺は筆記具を置いた。



     ◇



「ガロさん」


 声をかけると、彼は顔を上げた。


「……セイン」


「具合はどうですか」


「腕は平気だ」


 右手首を軽く回してみせる。


 少し顔をしかめたが、動かせないほどではないらしい。


「ちょっと、聞いていいか」


「はい」


 ガロは口を開いた。


 しかし、何も言わないまま閉じる。


 俺は待った。


「……馬鹿みたいなことなんだけどさ」


「どうしました?」


「俺の名字って、何だったっけ」


 冗談だと思いたかった。


 けれど、顔を見れば分かった。


 ガロ自身が、誰よりその質問に驚いている。


「ローデンです」


 俺は答えた。


「ガロ・ローデン」


「……そうだ」


 彼は何度か繰り返した。


「ローデン。そう、ローデンだ」


 その言い方は、思い出したというより、聞き覚えのある名前を確かめているようだった。


「いつからですか」


 俺が尋ねる。


「朝から、何か変だった」


「朝?」


「ああ。ガロって呼ばれたら返事できる。自分が誰か分からなくなったわけじゃないんだ」


 ガロは胸元へ手を当てた。


「でも、名前を全部言おうとすると、途中で止まる」


 俺は少し考えた。


 ネイが話していた。


 外の人間が忘れたあと、内側の住民自身も、自分に関わる記憶を失い始めることがある。


 その話が、今は目の前で起きていた。


「ミレアさん」


 俺は厨房へ声をかけた。


 鍋をかき混ぜていたミレアが振り返る。


「聞こえてるわ」


「ガロさんの名字、覚えていますか」


「もちろんよ」


 即答だった。


 けれど、そのあとで動きが止まった。


「……あれ?」


 ミレアは眉を寄せる。


「ガロ、あなた……」


「ローデンです」


 リゼが静かに言った。


 ミレアはすぐに頷いた。


「そう。ローデン」


 でも、今の一瞬をなかったことにはできない。


「帳簿を確認させてもらえますか」


 俺が言うと、ミレアは頷いた。


「二階にあるわ。取ってくる」


 彼女が階段を上がる。


 ガロは椅子へ座ったままだった。


「……自分の名前って、普通忘れないよな」


 俺は答えを探した。


「普通は」


「そうだよな」


 ガロは乾いた笑い方をした。


「妹に忘れられたと思ったら、今度は俺が俺を忘れるのかよ」


 その声を聞いて、胸の奥が痛んだ。


 彼は怒っているのではない。


 どうすればいいのか分からず、必死に何かへ腹を立てようとしているのだと思った。



     ◇



 ミレアが持ってきたのは、給金の帳簿だった。


「ここよ」


 頁を開く。


 働いた日数と金額、その横に従業員の名前が並んでいる。


 俺はガロの行へ目を落とした。


『ガロ』


 それだけだった。


「……名字がない」


 俺が言うと、ミレアは首を振った。


「そんなはずないわ。最初に雇った時、全部書いてもらったもの」


 四年前の頁を開く。


 そこにも『ガロ』とだけ記されていた。


 去年も、一昨年も同じだ。


 ミレアは帳簿を見つめた。


「毎月、本人に確認してもらってたのよ」


 声が小さくなる。


「こんな書き方、するはずないのに」


 ガロは帳簿を引き寄せた。


「俺、ちゃんと名前書いたぞ」


 紙の上を指でなぞる。


「何度も見た。なのに、何で……」


 言葉が途切れた。


 リゼがその横へ来る。


「ここ、少し変です」


「何が?」


 ガロが尋ねる。


「『ガロ』の後ろです。何も書かれていない場所とは違う感じがします」


「名字が見えるのか」


「いいえ」


 リゼは首を振った。


「消えた文字は読めません。ただ、何かが抜け落ちた跡があります」


 ガロはしばらく紙を見ていた。


「……そうか」


 ミレアが椅子を引く。


「ガロ」


 彼女は静かに言った。


「あなたがここで働いたことは、私が覚えてるわ」


 ガロが顔を上げた。


「四年前、最初に来た時は料理なんてほとんどできなかったでしょう。野菜を切るのも遅かったし、初めて鍋を任せた日は塩を入れすぎた」


「……それ、今言うか?」


「今だから言うのよ」


 ミレアは少し笑った。


「あなたがここで過ごした時間は、ちゃんとあったの。帳簿に何が書いてあっても」


 ガロは何も言わなかった。


 ただ、しばらくして小さく頷いた。


「……ああ」


 その返事を聞いて、リゼが鞄の中へ手を入れた。



     ◇



「ガロさん」


 彼女が取り出したのは、小さな真鍮の札だった。


 昨夜、ミレアから二枚もらったものだ。


 リゼはそのうち一枚を机へ置く。


「名前を、ここへ書きませんか」


「何だ、それ」


「ミレアさんのお店で使っていた荷札です。紙と違って、簡単には破れません」


 ガロは札を覗き込んだ。


「これに書いたら、忘れなくなるのか?」


「それは分かりません」


 リゼは正直に答えた。


「でも、自分で思い出せなくなった時に見られます」


「……文字も消えるかもしれないだろ」


「はい」


「じゃあ意味ないんじゃないか」


 リゼは少し考えた。


「消えたら、また書きます」


 ガロが顔を上げる。


「何回も?」


「必要なら」


「百回消えたら?」


「百一回書きます」


 その返事に、ガロは思わず笑った。


「……面倒なこと言うな」


「私、結構面倒なことをしてもらったことがあるので」


 リゼは筆記具を取り出した。


 札の裏へ、ゆっくり文字を書く。


『ガロ・ローデン』


 書き終えると、少し待った。


 文字は消えない。


 少なくとも、今のところは。


「はい」


 リゼが差し出す。


 ガロはしばらく見つめ、それから受け取った。


「……ありがとな」


「どういたしまして」


 彼は名前を声に出して読んだ。


「ガロ・ローデン」


 もう一度。


「……俺の名前だ」


 その声が、少しだけ明るくなった。


 リゼは満足そうに頷いた。


「忘れたら見てください」


「分かった」


「それでも不安だったら、聞いてください」


「毎回お前に?」


「私じゃなくてもいいですよ。ミレアさんも、セインもいます」


 ミレアが頷いた。


「もちろん」


 ガロは照れくさそうに笑い、札を上着の内側へしまった。


 俺はその様子を見ていた。


 リゼ自身、名前を持たずに暮らしていた時期がある。


 今は自分で選んだ名前を持っている。


 だからこそ、札一枚に込められる願いを、俺よりよく知っているのかもしれない。



     ◇



「一つ、確かめていいですか」


 俺はガロへ尋ねた。


「また何か実験するのか」


「今度は手を引っ張りません」


「そこは最初に言ってくれ」


 ガロが苦笑した。


 俺は少しだけ笑い、続ける。


「持ち物を一つ、借りたいんです」


 ガロは厨房へ行き、厚手の革手袋を持ってきた。


 長年使われてきた物らしく、指先の革が硬くなっている。


「これでいいか」


「ご自分で買ったものですか」


「ああ。ここへ来た頃に」


「今も使ってます?」


「毎日な」


 俺は頷いた。


 名字が消えても、その人が持っていた物とのつながりは残っているのか。


 確かめたいのは、それだった。


 店の裏へ出て、周囲に人がいないことを確認する。


 ガロには数歩離れて立ってもらった。


 俺は右手の上へ革手袋を載せる。


「〈返却〉」


 力が動いた。


 革手袋がふわりと浮き、ガロへ向かって飛んでいく。


「うわっ」


 彼が両手を出す。


 手袋は、その中へ収まった。


「……戻った」


 ガロが呟く。


 俺は頷いた。


「持ち主とのつながりは、まだ残っています」


「どういう意味だ」


「少なくとも、あなたの名前が帳簿から消えても、この手袋はあなたの物だと分かる」


 ガロは手袋を見つめた。


「……じゃあ、俺はまだ俺なんだな」


 その言葉に、少し胸が詰まった。


 俺は頷いた。


「ああ」


 ただし、何でも元通りになったわけではない。


 名字を思い出せないままだし、帳簿の文字も戻っていない。


 俺の〈返却〉が確かめたのは、物と持ち主のつながりだけだ。


 それでも、ガロには大きな意味があったらしい。


 彼は手袋を握り、少し笑った。


「……ありがとな、二人とも」


 リゼが首を振った。


「まだ何も解決してませんよ」


「それでもだ」


 ガロは真鍮札を上着の内側から取り出した。


「これと、手袋。どっちもまだ俺のものだろ」


「はい」


 リゼが答えた。


 ガロは頷いた。


「だったら、まだ大丈夫な気がする」


 俺はそれを聞いて、少しだけ安心した。



     ◇



 ティセラへ知らせようと、俺とリゼは店を出た。


 北側の家を調べているはずだ。


 歩きながら、リゼは残った一枚の真鍮札を取り出していた。


 まだ何も書かれていない。


「それも使うのか?」


 俺が尋ねる。


「必要になったら」


「同じように?」


「はい。でも、名前を書かなくてもいいかもしれません」


 少し考えてから、彼女は続けた。


「誰かのことを覚えておきたい時に、何を書くかはその人によるでしょう?」


 俺は頷いた。


 名前が大事な時もある。


 住所や仕事が大事な時もある。


 誰かとの約束が、一番大事な時もあるのかもしれない。


「……さっき、ガロさんの前では平気そうだったな」


 俺が言うと、リゼは少しだけ笑った。


「怖かったですよ」


「そうなのか」


「当たり前です。自分の名前を忘れるなんて」


 彼女は足を止めた。


「私、自分の名前を選んだから今ここにいるんです。でも、ガロさんは違う」


「違う?」


「ガロさんは、失いたくない名前があるんです」


 俺は黙った。


「昔の名前を取り戻さないと決めた私が、それを誰かにも勧めるのは違うと思います」


 リゼは真鍮札を袋へ戻した。


「だから、思い出せるようにしたかったんです」


 その言葉に、俺は少し嬉しくなった。


「いいと思う」


「本当に?」


「ああ。ガロさん、自分の名前を見た時、嬉しそうだった」


 リゼは頷いた。


「……よかった」


 また歩き始める。


 少ししてから、俺は尋ねた。


「リゼは、今の名前が好きか?」


「はい」


 返事はすぐだった。


「セインが呼んでくれますから」


「それは、呼んでほしいって言ったからだろ」


「そうですよ」


 リゼは笑った。


「だから嬉しいんです」


 俺は返す言葉を探したが、見つからなかった。


 少し照れくさくなり、前を向く。


 その時、後ろから足音が聞こえた。


「セイン!」


 ガロだった。


 さっきより顔色が悪い。


 俺たちは立ち止まった。


「どうしたんです?」


 ガロは答えず、息を整えようとしている。


 右手には革手袋。


 左手には、リゼから渡された真鍮札を握っていた。


「……妹」


 ようやく、それだけ言った。


「エマさん?」


「ああ。エマ」


 ガロは何度も頷いた。


「名前は分かる。妹がいることも覚えてる」


 嫌な予感がした。


「でも……」


 ガロは額へ手を当てた。


「顔が、思い出せねえんだ」


 俺は動けなかった。


「さっきまで覚えてたんだぞ」


 ガロの声が震える。


「子供の頃からずっと一緒にいた。怒った顔も、泣いた顔も、何度だって見た」


 彼は俺たちを見た。


「なのに、今は出てこない」


 リゼが一歩近づいた。


「ガロさん」


「妹がいるのは分かるんだ。名前もエマだって分かる」


 ガロは苦しそうに首を振った。


「でも、顔が分からないんだよ」


 俺は何も言えなかった。


 ほんの少し前、手袋を返せたことで安心していた。


 まだ物とのつながりは残っている。


 だから大丈夫だと思いたかった。


 けれど、消失は止まっていなかった。



     ◇



 リゼはガロの前へ立った。


「エマさんの顔、取り戻しましょう」


 ガロが顔を上げる。


「……どうやって」


「まだ分かりません」


 リゼは正直に答えた。


「でも、外にはエマさんがいます。セインたちは会ったこともあります」


 ガロは黙って聞いていた。


「顔を思い出せなくなったからって、エマさんがいなくなったわけじゃありません」


 ガロは真鍮札を見た。


『ガロ・ローデン』


 さっき書いたばかりの文字だ。


「……これも、いつか消えるのかな」


「分かりません」


「俺が、妹に会いたかったことまで忘れたら?」


 リゼは少し考えた。


 それから、静かに答えた。


「その時は、私たちが話します」


 ガロが彼女を見る。


「今、ガロさんがエマさんに会いたいと思ってることを、私たちは知ってます」


 俺も頷いた。


「ああ」


「だから、必要なら何度でも伝えます」


 ガロはしばらく黙っていた。


 そして、小さく息を吐いた。


「……頼む」


 その声は、とても弱かった。


「俺、あいつに会いたいんだ」


 リゼが頷く。


「はい」


 ガロは真鍮札を上着の内側へしまった。


「ミレアのところへ戻るよ」


「一緒に行きましょうか」


 俺が尋ねると、彼は首を振った。


「大丈夫。道は分かる」


 少し笑う。


「……まだ、帰れる」


 俺はその言葉を聞いて、胸が痛くなった。


 青鐘亭は今も、ガロの帰る場所だ。


 その道を、彼は覚えている。


 けれど、妹の顔はもう思い出せない。


 俺たちはガロが青鐘亭へ戻るまで見送った。


 それから、急いでティセラのところへ向かった。



     ◇



 道を歩きながら、俺は右手を握った。


 さっき、革手袋を返した手だ。


 物とのつながりは、まだ残っていた。


 でも、人間の記憶が失われるのを止めることはできない。


 似た術が関係しているのかもしれない。


 ただ、今はまだ何も証明できていない。


「セイン」


 リゼが隣で言った。


「急ぎましょう」


「ああ」


 俺たちは歩く速度を上げた。


 青鐘通りでは、今日も人が暮らしている。


 でも、明日になったら誰が何を忘れているのか分からない。


 ガロがエマの名前を覚えているうちに。


 そして、まだ会いたいと願っているうちに。


 できることを増やさなければならなかった。

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