第二十一話 青鐘亭の朝
扉を叩く音で目が覚めた。
「セイン! 起きてる?」
「……今起きた」
「じゃあ早く!」
まだ何も言っていないのに、足音が遠ざかっていく。
寝台から起き上がると、見慣れない天井があった。
梁には古い傷があり、窓の向こうから朝日が差し込んでいる。
青鐘亭の二階だ。
昨夜、俺たちはこの通りへ初めて入り、ミレアの店で夕食を食べた。
今朝は、その店で目を覚ましている。
窓を開くと、パンの焼ける匂いがした。
向かいの家では女性が洗濯物を干している。道端では老人が犬に引っ張られながら歩き、どこかの店からは木箱を運ぶ音が聞こえた。
地図から消えた通りにも、いつも通りの朝が来ている。
左腕を動かしてみる。
傷の痛みは、昨日より少しだけ軽くなっていた。
代わりに、地下や通りを歩き回った疲れが足に残っている。
「……今日はゆっくり歩こう」
誰にともなく呟き、階段を下りた。
◇
一階ではミレアが卵を焼いていた。
リゼはすでにテーブルについている。
「おはようございます」
「早いな」
「普通ですよ」
「何時に起きた?」
「お腹が空いた頃です」
「時計じゃなくて?」
「その方が正確な時もあります」
俺は少し笑って席へ座った。
ティセラは朝食の皿を脇へ寄せ、昨日の見取り図を眺めている。
「仕事は食べてからにしろって、昨日言われなかったか?」
「今は見てるだけよ」
「同じことを言ってた気がする」
「学習したから、紙は一枚に減らしたわ」
ミレアが厨房から言った。
「それでも皿を置く場所は空けてね」
「はい」
ティセラは素直に地図を畳んだ。
「リオルは?」
俺が尋ねると、リゼが答えた。
「朝早く地下へ行きました。係長たちに連絡するって」
「札は持っていった?」
「二枚とも。出かける前に見せてくれました」
予定通りだった。
外へ出る時は二枚そろえて持ち、帰る時も同じ札で入口を開く。
リオルが戻るまで、中にいる俺たちは自力で入口を開けられない。
だからこそ、戻る予定の時刻も決めてあった。
「ネイは?」
「散歩」
ミレアが答えた。
「朝食までには戻るって」
「随分気に入ってるんだな、ここを」
「昔からよく歩いてたみたいよ」
ミレアは卵を皿へ盛った。
「ただ、何年くらい前から知ってる人なのか、私もよく分からないのよね」
それは俺も気になっていた。
でも、今は食事を優先することにした。
「ニコ、パンを先に全部食べるなよ」
俺が言うと、向かいの席の少年が顔を上げた。
「何で?」
「おかずもあるから」
「あとで食べる」
「その言い方、豆を残す時と同じだな」
ニコは何も言わなかった。
ミレアが笑っている。
その時、テーブルの下で何かが擦れる音がした。
俺はニコの足元へ目を向けた。
「……その靴」
「何?」
「右のつま先、見せてくれないか」
ニコは自分の靴を見ると、少しだけ顔をしかめた。
「何で?」
「縫い目が開いてる」
「まだ履けるよ」
「見れば分かる。でも、そのままだと歩きにくくなるぞ」
ニコは少し迷った。
それから右足を差し出す。
「……臭いかもしれない」
「靴屋だったから気にしないよ」
「靴屋なの?」
少年の顔が変わった。
「実家がな。俺も昔、手伝ってた」
靴を受け取り、つま先を押さえる。
表の革が少し浮き、糸が二か所切れていた。
右足だけが大きく擦り減っている。
「走る時、つま先で強く地面を蹴るだろ」
「……何で分かるの?」
「減り方で」
ニコは自分の左足を見た。
「それも分かるの?」
「両方見れば、もっと分かる」
「靴ってすげえ」
「靴がすごいというより、使い方が残るんだよ」
リゼが身を乗り出した。
「セイン、直せるんですか?」
「道具があれば、応急処置くらいなら」
ミレアが奥から裁縫箱を持ってきてくれた。
革用の道具ではない。
けれど、元の縫い穴が使えそうだった。
「ちょっと借ります」
俺はそう言って、テーブルを一つ空けてもらった。
◇
糸を二重にし、蝋を軽く擦り込む。
古い糸を少しずつ抜き、まだ生きている縫い目を残して、新しい糸を通した。
「何してるの?」
ニコが隣へ来た。
「縫ってる」
「それは見れば分かるよ」
「じゃあ、何を聞きたいんだ」
「どうしてそんなに速いの?」
俺は少し考えた。
「何度もやったからかな」
「固有術?」
「普通の手仕事だよ」
針を返し、糸を締める。
つま先の革が元の位置へ収まっていく。
「魔法じゃないのに?」
「魔法じゃなくても直せるものはある」
ニコは黙って手元を見ていた。
いつもならあれこれ質問してくる少年が、今日はほとんど喋らない。
俺はその様子を横目で見ながら、少し昔を思い出していた。
父さんが仕事をする時、俺もよく隣に座っていた。
手を出すと怒られる。
でも、見るだけなら許された。
最初は何をしているのか分からなかった。
そのうち、革の端が重なる位置や、針を入れる角度が気になり始めた。
自分でやってみると、当然のように失敗した。
父さんは、曲がった縫い目を見ると必ず言った。
『もう一回だ』
褒める前に、やり直しだった。
兄貴は俺よりずっと器用で、同じ年頃にはもう綺麗に縫っていた。
「……セイン?」
ニコの声で我に返る。
「ん?」
「何で笑ってるの?」
「父さんを思い出した」
「優しい?」
「厳しかったな」
「ミレアより?」
「……ちょっとだけ」
「聞こえてるわよ」
厨房から声が飛んできた。
ニコが背筋を伸ばす。
俺は笑いながら最後の糸を結んだ。
「よし」
靴を返す。
「履いてみろ」
ニコは急いで足を入れ、立ち上がった。
つま先を曲げる。
足踏みする。
最後に、恐る恐る一歩歩いた。
「……直った!」
「応急処置だよ。あとでちゃんとした道具でもう一度直す」
「でも直った!」
ニコはもう一度足元を見た。
それから、俺へ向き直る。
「ありがとう!」
大きな声だった。
何だか、少し照れくさい。
「壊れる前に持ってこいよ」
「うん!」
「走りすぎるなよ」
「それは無理!」
即答だった。
俺は諦めて笑った。
「セイン、靴屋になればいいのに」
「昔はそうしようと思ってたよ」
「何でやめたの?」
「兄貴が店を継いだから。俺は別の道を選んだ」
「お兄ちゃんの方が上手い?」
「ずっと上手い」
ニコは少し考えた。
「じゃあ、セインはいらなくなったの?」
「……お前、遠慮がないな」
ミレアが吹き出した。
リゼは笑いをこらえている。
俺も少し考えてから答えた。
「そうじゃないよ。兄貴は靴屋が向いてる。俺は今の仕事が好きなんだ」
「靴は?」
「今も好きだよ」
ニコは満足そうに頷いた。
「じゃあ、また直して」
「ああ。今度は工具も持ってくる」
少年は嬉しそうに、新しく縫い直した右足を見た。
俺はその姿を見ながら思った。
〈返却〉を使ったわけじゃない。
ただ、自分の手で縫っただけだ。
でも、それで誰かが喜んでくれる。
そういう仕事が好きだったことを、久しぶりに思い出した。
◇
昼前にリオルが戻った。
腰の革袋には、二枚の境界調査札がそろっている。
「お帰り」
俺が声をかけると、彼は水を一口飲んだ。
「ただいま。外の警備隊と話がついた」
「物資は?」
「少量ずつ運べる。入口で一度に大人数を通すのは避けて、俺たちが荷物を持って出入りする」
ティセラが顔を上げる。
「それなら、継続して搬入できる可能性はあるわね」
「ああ。ただし札を持つ人間の安全を確認しながらだ」
リオルはミレアへ向き直った。
「薬と保存食を優先します。必要な種類と数量を確認させてください」
「ありがとう。通りの薬屋にも、あとで聞いておくわ」
「お願いします」
中で数日分を確保できた薬も、無限ではない。
ただ、最悪の状況を少しずつ改善する道筋は見え始めていた。
「それと、セイン」
リオルが俺の手元を見る。
「お前、靴を直してたのか?」
「ああ。ニコの」
ニコが自慢げに右足を上げた。
「ほら!」
リオルは縫い目を覗き込み、笑った。
「昔、俺の靴も直してくれたよな」
「お前はよく踵を踏み潰してたから」
「子供の頃の話だろ」
「今でもたまにやるよな」
「……見てるな」
ニコが目を輝かせる。
「リオルも怒られてたの?」
「セインの父親にな」
「自分の父さんじゃなくて?」
「そう」
リオルは俺を見る。
「今でもあの人、厳しいのか?」
「兄貴が店を継いだから、俺に言うことは減ったよ」
「それはよかった」
何がよかったのか分からないが、リオルは本当に安心したようだった。
◇
午後、俺たちは通りの見取り図を作り直した。
ニコが案内し、ティセラが道を描く。
リゼは家の位置を確かめ、リオルは外の王都との境目を調べた。
ネイは古い鐘のある広場で、しばらく立ち止まっていた。
「ここ、昔からあったのか?」
俺が尋ねると、彼は頷いた。
「うん。僕が最初に来た時にも」
「いつ頃?」
「……随分前かな」
曖昧な返事だった。
けれど、無理に聞き出す気にはなれなかった。
今の俺たちには、確かめられることがほかにもある。
広場の井戸の脇には、古い境界標が残っていた。
ティセラが紋章と数字を書き写す。
「これ、今の道路登録より古い形式ね」
「ということは?」
俺が尋ねる。
「役所に道路として登録される前から、人が通っていた道なのかもしれない」
ニコが首を傾げた。
「道って、誰かが作るんじゃないの?」
「作る道もある。でも、人が何度も同じ場所を歩いて、道になることもあるのよ」
その話を聞いて、俺は石畳を見た。
誰かが通った跡。
そこへ別の誰かが通り、家ができ、店が並んだ。
この通りにも、そういう始まりがあったのかもしれない。
◇
通りの北側を歩いていた時、一軒の家が目に留まった。
白い壁。
緑色の窓枠。
玄関には花鉢が二つ並んでいる。
その脇に、子供用の靴が二足置かれていた。
一つは赤い留め具のついた靴。
もう一つは茶色い革靴だ。
茶色の方は、左の踵が潰れている。つま先にも細かな傷があった。
「セイン?」
リゼが振り返る。
「何かありました?」
「いや。ちょっと靴が気になった」
「今日は靴ばっかりですね」
「職業病かな」
俺は笑って、皆のあとを追った。
その時は、何もおかしいと思わなかった。
子供の靴が二足ある。
それだけの、ありふれた光景だったからだ。
◇
帰り道、ティセラが急に立ち止まった。
「……セイン」
「どうした?」
「あの家、朝も通ったわよね」
白い壁に緑色の窓枠。
花鉢が二つ。
見覚えのある玄関だった。
「通ったよ」
「靴、何足あった?」
「二足」
考える必要もなかった。
俺は玄関を見る。
そこにあるのは、赤い留め具の靴だけだった。
「……あれ?」
ティセラが手帳を開く。
「朝、この家の人数を近所の人から聞いたの。夫婦と子供二人って」
「そうなの?」
「ええ。でも、さっき表札を見たら三人しか書かれていなかった」
リゼが家へ目を向けた。
「確認しましょう」
ティセラが扉を叩いた。
出てきたのは三十代くらいの女性だった。
「すみません。こちらのご家族について少し伺いたいんですが」
身分札を見せると、女性は頷いた。
「何人でお住まいですか」
「三人です。私と夫、それから娘が一人」
「お子さんは一人ですか」
「はい」
迷いのない返事だった。
ティセラは礼を言い、それ以上は問い詰めなかった。
扉が閉まる。
「……朝は二人って聞いたのよ」
彼女が呟く。
「聞き間違いだった可能性もあるけど」
「靴は二足あった」
俺が言った。
リゼがこちらを見る。
「はっきり覚えてますか?」
「ああ。茶色の革靴で、左の踵が潰れてた。つま先にも傷がある。よく履かれた靴だった」
ティセラは俺の言葉を記録した。
「子供が履いて出かけただけかもしれない」
俺は言った。
「でも、母親は子供が一人だって答えたんだよな」
「ええ」
リゼが玄関を見つめる。
「今は、空白は感じません」
「何も?」
「少なくとも、ここには」
俺は白い壁の家を見る。
朝は靴が二足あった。
今は一足しかない。
ほかのことなら、見間違いだったと思ったかもしれない。
でも、靴なら覚えている。
俺は、傷んだ革の状態まで見ていた。
「近所の人にも、もう一度確認しよう」
俺が言うと、ティセラが頷いた。
「ええ。それから、この家の記録も調べたいわ」
俺たちは一度、通りの端へ移動した。
歩きながら、俺は自分の右手を見た。
今朝、ニコの靴を縫い直した手だ。
その同じ目で、もう一足の傷んだ靴も見ていた。
だから、覚えている。
問題は、その靴がどこへ行ったかではなかった。
もし本当にもう一人子供がいたのなら。
今、その子のことを覚えている人が、どこかにいるのだろうか。




