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王都の返却士 ~その落とし物、世界のものです~  作者: 紙森 灯
第二章 地図から消えた通り

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第二十話 ようこそ、存在しない通りへ


 青鐘亭は、思っていたより小さな店だった。


 六つのテーブルと長いカウンター。奥には厨房があり、大鍋から白い湯気が上がっている。


 窓辺には野の花が一輪。


 床板を踏むと、少しだけ軋んだ。


「好きなところへ座って」


 ミレアは前掛けを締め直し、厨房へ向かった。


「でも俺たち、調査で来たので」


 そう言いかけると、彼女が振り返った。


「調査員はご飯を食べないの?」


「……食べます」


「だったら座りなさい」


 リオルがもう椅子を引いていた。


「セイン、従った方がいいぞ」


「お前は早いな」


「命令を聞くのは得意だから」


「相手を選べよ」


 リオルは笑い、俺の分の椅子まで引いた。


 リゼはとっくにニコの隣へ座っている。


「今日の煮込み、肉多い?」


 ニコが厨房へ尋ねた。


「いつも通りよ」


「セインたちの方が多い?」


「まだ盛ってもいないでしょう」


「先に聞いただけ!」


 ミレアは相手にせず、皿を並べ始めた。


 リゼが小声でニコに尋ねる。


「そんなに肉が好きなんですか」


「うん。豆はいらない」


「煮込みなのに?」


「肉の煮込みでいいじゃん」


「豆がある方が美味しいと思いますけど」


「じゃあ俺のも食べる?」


「それとこれとは別です」


 その返事に、俺は笑ってしまった。


 ニコが首を傾げる。


「何?」


「リゼにも断るものがあるんだなって」


「セイン、失礼ですよ」


「お前、いつも食べるじゃないか」


「好きだから食べるんです」


「つまり何でも好きなんだろ」


「……今のところは」


 ニコが大笑いした。


 その横でティセラが書類を広げ始めている。


 俺は思わず声をかけた。


「今から仕事?」


「入口を通った時の感覚、忘れる前に書いておきたいの」


「食べる場所、なくなるぞ」


「端だけ借りるわ」


 ちょうどそこへミレアが皿を運んできた。


 ティセラは反射的に紙を片づける。


「……食事のあとにする」


「そうしてちょうだい」


 ミレアは満足そうだった。



     ◇



 煮込みは、驚くほど美味かった。


 羊肉は柔らかく、芋には香草の香りが染み込んでいる。黒パンを汁へ浸すと、つい次の一口が欲しくなった。


「……美味いです」


 俺が言うと、ミレアは嬉しそうに笑った。


「でしょう?」


「店が外にあったら、普通に通いたいくらいです」


「元々、外にあるつもりだったんだけどね」


 何気ない返事だった。


 ミレアがそう言うまで、俺も忘れかけていた。


 ここは本来、ほかの王都と普通につながっていた通りなのだ。


 けれど、彼女はすぐにニコの皿を見た。


「豆が残ってる」


「今から食べる!」


「さっきからそればっかり」


 そのやり取りを聞きながら、俺はパンをちぎった。


 ミレアは、必要以上に暗い顔をしない。


 自分が不安ではないからではなく、今ここにいる人間の食事を止めたくないのだろう。


「ガロ、そこの鍋をお願い」


「はいよ」


 ガロが大鍋を持ち上げ、カウンターの奥へ運ぶ。


 手際がいい。


 壁越しに話していた頃は、怒鳴る声ばかり印象に残っていた。


 でも、店にいるガロはよく働く男だった。


 ニコが椅子を傾ければ、振り返りもせずに背もたれを押さえる。ミレアが次の皿を取り出す前に、必要な匙を並べている。


「ガロさん、ここで長いんですか」


 俺が尋ねる。


「四年だよ」


「じゃあ、ミレアさんの料理は全部覚えてる?」


「仕込みは大体な」


「味付けは私よ」


 ミレアが横から言った。


「分かってるって」


「前に塩を入れすぎたこともあったでしょう」


「あれは一回だけ!」


「客が水を三杯も飲んだのよ」


「俺も覚えてる!」


 ニコが手を上げた。


「お前は忘れろ!」


 ガロが言った瞬間、少しだけ空気が止まった。


 本人も気づいたらしい。


 ミレアは鍋をかき混ぜながら、平然と言う。


「じゃあ私も、あの失敗を忘れていいのね」


「それは困る。今後また同じことをしたら止めてもらわないと」


「あら、ちゃんと反省してるじゃない」


 ガロが苦笑した。


 会話が戻った。


 俺は、その小さな気遣いに気づかないふりをして、煮込みを口へ運んだ。



     ◇



「……これ、冷めませんね」


 リゼが匙を止めた。


 確かに、食べ始めてかなり経つのに、皿からはまだ湯気が上がっている。


「〈保温〉してるからね」


 ミレアが答えた。


「固有術ですか?」


「そうよ。温かいものを、しばらく温かいままにできるの。冷めたものを熱くすることはできないけど」


「便利ですね!」


 リゼの目が輝く。


「何に使いたいの?」


「焼き菓子です」


「……食堂じゃなくて?」


「焼きたてをいつまでも食べたいので」


 ミレアが笑った。


「その気持ちは分かるわ」


 ニコが横から口を挟む。


「じゃあ、リオルは?」


「俺?」


「何ができるの?」


「〈均衡〉。重心を整えるのが得意なんだ」


「地味」


 リオルが匙を止めた。


「お前な」


「何かやって!」


「……店の中で暴れるのはまずいだろ」


 ミレアが手を上げた。


「食器を壊さなければいいわよ」


 そこでリオルは椅子から立ち、空いた場所で片足立ちになった。


「押してみろ」


 ニコが両手を伸ばした。


 ぐっと押す。


 リオルはほとんど動かない。


「もっと強くてもいいぞ」


「本当に?」


 ニコがもう一度押す。


 リオルはわずかに体を傾け、すぐに姿勢を戻した。


「ずるい!」


「固有術だからな」


「俺もそれがいい!」


「さっき地味って言っただろ」


「今は格好いい!」


 俺は笑った。


 リオルも満更ではなさそうだった。


 昔から自分の腕を自慢するような男ではない。


 だからこそ、誰かに素直に褒められると少し照れるらしい。


 ニコの興味は、すぐにティセラへ移った。


「ティセラは?」


「私は〈転写〉よ」


 彼女はミレアの手書きの献立を見て、紙へ指を置いた。


 数秒後、同じ文字と飾り線が現れる。


「おおっ!」


 ニコが身を乗り出した。


「じゃあ、宿題もできる?」


「写すことはできるわよ」


「やった!」


「ただし、答えが合ってるかどうかは別」


 ニコが黙った。


 リゼは笑いをこらえている。


「そういうところまで便利なら、私も欲しいわ」


 ティセラが続けた。


 ミレアは写された献立を受け取り、嬉しそうに眺めた。


「綺麗にできるのね」


「字が綺麗なのは元の書き手のおかげですよ」


 ティセラが答える。


「まあ。今夜は褒め上手なお客さんばかりね」


 その言葉を聞いて、リゼが手を上げた。


「煮込みもすごく美味しいです!」


「あなたはもう三回言ってくれたわ」


「四回目も言えますよ」


「ありがとう」


 ミレアが笑った。



     ◇



「セインは〈返却〉だよね」


 ニコが俺を指した。


「ああ」


「何でも戻せるの?」


「何でもじゃない。帰る先がある物だけだよ」


「じゃあ、俺が迷子になったら?」


「お前を荷物みたいには返せない」


「役に立たないじゃん!」


 俺は匙を置いた。


「ついさっき格好いいって言われたのに」


「それはリオル!」


「切り替えが早いな」


 リオルが笑った。


 ニコは今度はリゼを見た。


「リゼは?」


 彼女は少し考えた。


「私は、まだよく分からないんです」


「何もできないの?」


「なくなった場所が分かることがあります」


「例えば?」


「昨日まで何かがあったのに、それが失われた時。その跡が普通とは違って感じられるんです」


 ニコは少し首を傾げた。


「じゃあ、俺の宿題なくなったら?」


「普通に落としただけなら、分からないと思います」


「役に立たないじゃん!」


「セインと同じ評価ですね」


「そこを喜ぶなよ」


 リゼが笑った。


「でも、一緒に探すことはできます」


「じゃあ明日なくそうかな」


「なくさないでください」


 今度は全員が笑った。


 ただ、ニコがネイへ向き直った時、少し空気が変わった。


「ネイは?」


「僕?」


「何ができるの?」


 ネイは煮込みを食べる手を止めた。


「秘密」


「ずるい!」


「そうだね」


「何で教えないの?」


 ネイは少し考えた。


「誰だって、言いたくないことの一つくらいあるでしょう」


 ニコは不満そうだったが、今度は無理に聞かなかった。


 ネイはその様子を見て、静かに笑った。


「代わりに、僕の得意なことを一つ教えてあげる」


「何?」


「食べること」


「それ、固有術じゃないよ!」


「残念だな」


 空になった皿を見せる。


 二杯目まで食べ終えていた。


 ミレアが鍋へ手を伸ばす。


「まだあるわよ」


「……いいの?」


「食べに来るって約束したでしょう」


 ネイは顔を上げた。


「覚えてたんだ」


「当たり前よ。変な時間に煮込みは残ってるかって聞いてきた人なんて、そうそういないもの」


 ネイは少し黙った。


 それから皿を差し出した。


「じゃあ、もう少し」


「はいはい」


 ミレアは楽しそうに盛りつけた。


 俺はネイの横顔を見た。


 さっきまでと変わらない顔だった。


 でも、彼がこの店で食事をすることをどれだけ望んでいたのか、少し分かった気がした。



     ◇



 食事のあと、ミレアは戸棚から小さな金属札を取り出した。


 丸い穴の開いた真鍮の札だった。


 何枚かには番号が刻まれている。


「これ、何ですか?」


 リゼが尋ねる。


「うちで使ってる荷札よ。仕入れの品を分けたり、取り置きのお客さんを間違えないようにしたり」


 ミレアは一枚を持ち上げた。


「紙だと濡れて駄目になることがあるからね」


 リゼは興味深そうに見つめた。


「字も書けるんですか」


「ええ。裏へ油性の筆記具で書けるわよ。消したい時は磨けば落とせるし」


 ティセラが横から覗いた。


「記録用に使えるかもしれないわね」


「金属でも、書いた名前が消えないとは限らないけど」


 俺が言うと、リゼは頷いた。


「だから試してみたいです」


 ミレアはまだ使っていない札を二枚差し出した。


「よかったら持っていって。今は余ってるから」


「いいんですか?」


「大した物じゃないわよ」


 リゼは嬉しそうに受け取った。


「ありがとうございます」


 小さな布袋へ入れ、鞄の内側へしまう。


 何に使うのか、まだ決めていないらしい。


 ただ、青鐘通りでは新しく書いた紙の記録まで薄くなっていた。


 金属ならどうなるか。


 試す理由は十分にあった。


 俺はその様子を見届けてから、リオルへ声をかけた。


「地下の入口、明日も使えるかな」


「さっき、もう一度確かめてきた」


 リオルは腰の革袋を示した。


「二枚ともここにある。開閉も問題なかった。明日は俺が朝のうちに外へ出て、警備隊と物資の搬入を調整する」


「戻ってくる時も二枚必要なんだよな」


「ああ。だから俺が両方持っていく。向こうで開けて、またこっちへ戻る」


「その間、中にいる俺たちは入口を開けられない」


 ティセラが確認する。


「そうなる。だから短時間で戻るつもりだ。係長にも予定を伝える」


 外側には係長と警備隊がいる。


 中の声も、入口付近なら届く。


 それでも、二枚の札がなければ俺たちは出られない。


 札の持ち主が誰であっても同じなのかはまだ分からないが、少なくとも今は二枚を一緒に管理する方が安全だった。


「任せた」


 俺が言うと、リオルは頷いた。


「お前は明日、通りの中を調べてくれ」


「ああ」


 その時、ニコが階段から顔を出した。


「リゼ!」


「はい?」


「宿題、見せる約束!」


「忘れてませんよ」


 リゼは鞄を持ち上げた。


「行ってきます」


「俺もあとで行くよ」


 そう答えると、ニコは満足そうに笑い、階段を駆け上がっていった。


 ミレアの叱る声が追いかける。


「走らない!」


「走ってない!」


 誰も信じていなかった。



     ◇



 夜、俺は青鐘亭の外へ出た。


 石畳は昼間より冷たく、窓から漏れる灯りも少なくなっている。


 ここへ来るまで、俺は青鐘通りを「失われた道」として調べていた。


 でも今、窓の向こうには人がいる。


 家族と話し、明日の仕事を考え、眠ろうとしている人たちだ。


「セイン」


 背後からリゼの声がした。


「ニコの宿題、見てきました」


「どうだった?」


「最後の計算だけ、直し忘れてました」


「先生に怒られるな」


「だから一緒に直しました」


 リゼは少し笑った。


「今度は、先生に見せられるといいんですけど」


「ああ」


 俺は頷いた。


 リゼが隣へ並ぶ。


「ここ、なくしたくないですね」


「そうだな」


「名前が残っていても、暮らしていたことを忘れられるのは嫌です」


 俺は少し考えた。


「ミレアさんたち、まだ普通に明日の話をしてたな」


「はい」


「だから、明日もその話ができるようにしたい」


 リゼは俺を見た。


「セインらしいですね」


「そうかな」


「大きなことを言うより、その方が」


 少しだけ笑っている。


「褒めてる?」


「はい」


 俺も笑った。


 青鐘亭の二階から、ニコの声がする。


「リゼ! 明日も宿題見るからね!」


「はい!」


 リゼが元気に答えた。


 俺はその声を聞きながら、店の扉を開けた。


 明日は、青鐘通りを自分の足で歩く。


 そして、あの子が帰りたがっている場所へ続く道を探す。

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