第十九話 青鐘通りへ
あれから一時間と少し経って、俺たちは再び地下の石壁の前に立っていた。
最初にここを訪れた時より、荷物はずっと多くなっている。灯りや水、保存食に加え、予備の縄と応急手当ての道具も用意した。ティセラの鞄には記録用の紙が詰め込まれ、二十八年前の調査手帳の写しも入っている。
ただ、リゼの荷物だけは、どう見ても調査道具の量に見合わない膨らみ方をしていた。
「何をそんなに持ってきたんだ?」
「必要なものです」
「一応、見せてくれ」
リゼは少しだけ迷ったあと、素直に鞄を開いた。
中から出てきたのは、布に包まれた焼き菓子が二袋だった。
「……これ、全部お前の?」
「違いますよ。ニコにもあげようと思って」
「だったら、一袋は俺が持つよ」
「ありがとうございます」
リゼは嬉しそうに差し出したが、俺が鞄へしまおうとすると、なぜか少し名残惜しそうに見ていた。
「途中で何かあったら、皆で分けるからな」
「もちろんです。最後の一個以外は」
「そこは全部分けよう」
「……厳しいですね」
リゼは不服そうに言いながらも笑った。
こんな場所で菓子の取り分を相談することになるとは、少し前まで思いもしなかった。けれど、いつも通りのやり取りができたおかげで、肩に入っていた力が少し抜けた気がする。
目の前には、何の変哲もない古い石壁がある。
一時間ほど前、二枚の境界調査札を合わせた時、その向こうに青鐘通りが見えた。
窓に明かりが灯り、石畳が続き、人々の暮らす気配がした。俺たちはそれを確かに見たのに、今こうして壁を眺めていると、すべて見間違いだったような気さえしてくる。
だが、今度は眺めるだけではない。
俺たちは、あの通りへ入るために戻ってきたのだ。
「最後に確認するぞ」
リオルが全員を見渡した。
「向こうへ入ったあとは、勝手に別行動をしない。住民への聞き取りより先に帰り道を確認する。何か危険があれば、調査を中断して戻る」
いつもの落ち着いた声だった。
リオルは俺の幼なじみだが、こういう時に見ると、やはり警備隊員なのだと思う。
「札の管理はどうする?」
ティセラが尋ねると、リオルは腰の革袋を持ち上げた。
「俺が二枚とも預かる。開ける時だけ取り出して、移動中は必ずここへ戻す。誰かが外へ出る時は二枚とも携行する」
「別々に持つのは避けた方がいいわね。片方を持った人がはぐれたら、入口を開けられなくなる」
「そういうことだ」
リオルが頷く。
二十八年前の第七係が残した、七・二八五と七・二八六の札。
この二枚をそろえて初めて、石壁の向こうに入口が現れることは確認できている。しかし、何が起きるか分からない場所で、貴重な札を別々に持ち歩く理由はなかった。
「入口はどれくらい開いているのかしら」
ティセラが石壁へ目を向けた。
「先ほど二枚の札を合わせた時、石壁の向こうに青鐘通りが現れた。ただ、札を離してからどれくらい入口が保たれるのかまでは、確かめていなかった」
「入る前に測っておきましょう」
「ああ」
リオルと俺が答えた。
少し離れた場所では、係長が灯りを持って待っていた。
「俺はここに残る」
彼は壁を一度見上げ、それから俺たちへ向き直った。
「水道局と警備隊への連絡は任せろ。最初の通行確認では安全縄を使う。二度引いたら無事、三度なら異常発生だ」
「分かりました」
「それから、二十八年前の調査では一人が戻らなかった。今夜も同じことが起きないとは限らん」
普段と変わらない、少し眠たそうな声だった。
それでも、その言葉を軽く受け取れる者はいなかった。
俺は頷き、リオルから七・二八六の札を受け取った。
彼の手には七・二八五がある。
二枚を壁の印へ近づけると、乾いた金属音が石の奥へ響いた。
◇
最初に現れたのは、縦に伸びる二本の細い光だった。
線は石壁の表面を上へ走り、人の背丈より少し高いところでつながった。長方形の内側が水面のように揺れ始め、灰色の石がゆっくり薄くなっていく。
その向こうには、夜空があった。
石畳を挟んで家が並び、窓からは柔らかな明かりが漏れている。軒先の洗濯物が風に揺れ、遠くから誰かの話し声も聞こえてきた。
ほんの少し、料理の匂いまで流れてきた。
「……本当にあるんだな」
俺は思わず呟いた。
「ええ」
リゼが隣で頷く。
彼女はしばらく石壁の向こうを見つめていたが、やがて小さく笑った。
「ずっと声だけだった人たちに、ようやく会えるんですね」
「まずは帰ってこられるか確かめてからな」
「分かってますよ」
そう答えながらも、リゼの目は通りの明かりを追っていた。
「札を離してみて」
ティセラに促され、俺とリオルは同時に手を下げた。
入口はすぐには消えなかった。向こうの家々も石畳も、まだはっきり見えている。
ティセラが時計へ目を落とし、秒針を追い始めた。
やがて輪郭が少しずつ薄くなり、通りの景色へ灰色の膜が重なっていく。最後には人が通れるほどの隙間もなくなり、壁は元の姿へ戻った。
「……一分ほどね」
ティセラが手帳へ記録する。
「開口してから札を離しても、短時間は通れる状態が続く。ただし、毎回同じ時間とは限らないから、余裕を見て行動した方がいいわ」
「了解」
リオルは腰の縄を引き寄せ、自分の胴へしっかり結んだ。
もう一方の端は、係長たちが地下側で保持する。
「最初は俺が行く」
リオルは剣の柄へ手を添え、こちらを振り返った。
「向こうへ着いたら縄を二度引く。合図がなければ、勝手に追ってくるなよ」
「分かってる」
俺は頷いた。
リオルはもう一度石壁を見つめ、それから俺へ札を差し出すよう合図した。
二枚の金属が、再び壁の印へ重なる。
青鐘通りへの入口が開いた。
リオルは一歩踏み出し、揺れる石の表面へ肩から入っていった。
体がゆっくり壁の向こうへ沈み、最後に片足が消えると、そこには縄だけが残された。
俺は思わず息を止めた。
数秒後、縄が二度引かれる。
「セイン!」
向こうから声が聞こえた。
「聞こえるか!」
「聞こえる!」
「道がある! ちゃんと立てるぞ!」
リオルの声は、いつもと変わらなかった。
そのことが、妙に嬉しかった。
「じゃあ、俺も行く!」
係長へ視線を向けると、彼は短く頷いた。
「気をつけろよ」
「はい」
俺は入口へ近づき、まず右手を伸ばした。
本来なら冷たい石に触れるはずの指先へ、湿った夜風が当たる。
一歩踏み出すと、耳の奥が詰まるような感覚があった。足元の硬さも、漂う空気の匂いも変わり、地下水路の冷たさが一瞬で遠のいていく。
次の一歩で、俺は完全に壁の向こうへ出ていた。
頭上には夜空が広がり、家々の窓から暖かな光が漏れている。少し先では食器を片づける音がし、建物の奥から犬の鳴き声も聞こえた。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……入れた」
口から出たのは、それだけだった。
リオルが隣で笑う。
「ようこそ、青鐘通りへ」
「お前が案内するのか?」
「一応、先に入ったからな」
「数秒だけだろ」
「先輩には変わりない」
いつもの調子だった。
俺も笑ったが、すぐには次の言葉が出てこなかった。
石壁の向こうで声を聞いていた時から、この通りへ入りたいと思っていた。
でも、実際に立ってみると、想像していた感動とは少し違った。
もっと特別な場所なのかと思っていたのだ。
不思議な光に包まれているとか、見たことのない建物が並んでいるとか。
ところが、ここにあるのは王都のどこにでもありそうな家と道だった。
夕食を作る匂いも、遠くの犬の鳴き声も、何一つ珍しくない。
それなのに、胸が熱くなった。
この普通の暮らしを、王都の人々は忘れ始めているのだ。
◇
入口を通って、ティセラとリゼが続いた。
「……わっ」
石畳へ足を着いたリゼが、慌てて自分の腕を確かめる。
「何だか途中で、半分なくなったみたいでした」
「俺も耳が変になったよ」
俺が答えると、リゼは少し真面目な顔になった。
「全部戻ってますよね?」
「見たところ、ちゃんとある」
「よかった」
彼女が本気で安心したように笑ったので、俺も少し可笑しくなった。
最後にネイが壁を抜けてきた。
ほかの誰よりも落ち着いているように見えたが、足を止めたあとはしばらく通りの奥を眺めていた。
「ネイ?」
呼びかけると、彼はゆっくり振り返った。
「何?」
「どうしたんだ」
「……懐かしいなと思って」
それだけ言って、少し笑った。
俺たちにとって青鐘通りは初めて入る場所だが、ネイは以前からこの通りを知っている。
壁越しにミレアへ何度も話しかけていたことも、偶然ではないのだろう。
ただ、今は詳しく尋ねなかった。
俺たちの背後では、入口がゆっくり薄れ始めている。
ネイが最後に抜けた直後、通りの景色は地下側から見えなくなり、石壁が元の姿へ戻った。
「まず、帰還の確認ね」
ティセラが言った。
俺たちは壁の前へ集まった。
◇
「今度は、一人で二枚を合わせてみよう」
リオルが提案した。
俺は持っていた七・二八六を彼へ渡した。
リオルは左右の手に一枚ずつ札を持ち、壁の印へ重ねていく。
姿勢は少し窮屈そうだったが、二枚の金属が正しい位置へ収まると、すぐに入口が現れた。
「……開いた」
ティセラが記録する。
「少なくともリオルなら、一人で二枚を使って開けられるのね」
「最初から二人必要だったわけじゃないんだな」
俺が言うと、彼女は頷いた。
「ええ。ただし、誰にでもできるかは別の問題よ」
「じゃあ、次は俺が外へ戻る」
俺はリオルから二枚を受け取った。
開いた入口へ一歩踏み出すと、地下水路の空気が肌へ触れる。
向こうでは係長が待っていた。
「戻れたな」
「はい」
「どうだった?」
「家も店もあります。石畳が続いていて、窓には明かりが灯っています。本当に、普通の通りです」
話しながら、俺は自分でも少し興奮しているのが分かった。
係長は黙って聞いていたが、最後に小さく頷いた。
「……そうか」
その表情は変わらなかった。
でも、少しだけ安心したように見えた。
「今度は内側から入口を開きました。外へ戻れることも確認できています」
「なら、少なくともお前たちの帰り道はあるわけだな」
「はい。ただ、住民も通れるかはまだ分かりません」
「焦って試すなよ」
「分かってます」
俺は頷いた。
次に石壁の印へ二枚の札を合わせ、再び通り側へ戻る。
リゼが入口のすぐ向こうで待っていた。
「お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
「ちゃんと戻ってきましたね」
「戻れなかったら困るだろ」
「そのための確認ですから」
リゼはそう言って笑った。
俺は少しだけ肩をすくめ、札をリオルへ返した。
「今のところ、二枚そろっていれば内外どちら側からでも入口を開けられる。ただし、俺たちについて確認できただけだ」
リオルが言う。
ティセラは頷き、手帳へ書き込んだ。
続いて、安全縄の扱いと外側との連絡方法を確認した。
リオルが腰から縄を解き、再び入口を開いて係長へ手渡す。係長が地下側へ引き戻すと、俺たちは定めた時刻に入口で連絡を取り合うことにした。
二枚の札はリオルがまとめて管理し、誰かが外へ出る場合も必ず両方を携行する。
これで、少なくとも出入りの手順は決まった。
もっとも、入口がいつまで使えるのか、札を失ったらどうなるのかといった問題は残っている。
今後も無条件に安全だとは言えなかった。
「……よし」
リオルが革袋を閉じた。
「これで、ひとまず調査を進められるな」
その時だった。
「……誰?」
背後から、小さな声がした。
◇
振り返ると、少年が一人立っていた。
寝間着の上から厚い上着を羽織り、片手には小さなランプを持っている。髪の片側が跳ねていて、膝には泥が付いていた。
少年は俺たちを順番に見たあと、リゼのところで視線を止めた。
「……リゼ?」
「ニコ?」
リゼが呼ぶと、少年の顔がぱっと明るくなった。
「本当に来た!」
勢いよく走り寄ってきたので、リゼは慌ててランプを受け取った。
「危ないですよ!」
「大丈夫だって!」
「今、少し傾いてました!」
「でも落としてない!」
少年はまったく気にしていない。
それよりも、目の前に立つリゼが珍しくて仕方がないらしい。
「リゼって、こんな顔だったんだ!」
「どんな顔だと思ってたんです?」
「もっと怖そう」
「何でですか!」
「だって、壁から声が聞こえるんだもん」
俺は思わず笑った。
確かに、初めて壁越しに声を聞いた時は、俺たちだって驚いたのだ。
ニコからすれば、顔も見えない相手と何度も話をしていたことになる。
「じゃあ、こっちがセイン?」
今度は俺の方を指した。
「ああ。そうだよ」
ニコは俺を頭から足先まで眺め、それから不思議そうに言った。
「……若い」
「二十一だからな」
「もっとおじさんだと思ってた」
「声だけで勝手に年を取らせるなよ」
ニコが大笑いした。
俺もつられて笑う。
その顔を見ているうちに、胸の奥が妙に温かくなった。
今までニコは、壁の向こうから聞こえてくる声だった。
豆を残して怒られ、学校の宿題について話し、先生に忘れられたと知って落ち込んだ少年。
今、その子が目の前にいる。
上着の留め具を掛け違えていることも、片側だけ髪が跳ねていることも、初めて知った。
俺たちは声しか知らなかった相手と、ようやく顔を合わせられたのだ。
「セイン」
ニコが俺を見上げる。
「学校へ、また行けるかな」
突然の質問だった。
さっきまで笑っていた顔が、少しだけ真剣になる。
俺はしゃがみ、少年と目線を合わせた。
「今日はまだ難しいと思う」
「……そっか」
「でも、ここへ入る方法は見つかった。次は、ニコたちが外へ戻る方法を探すよ」
ニコは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、しばらくここにいる?」
「ああ。調べたいこともたくさんあるからな」
「だったら、案内してあげる!」
少年の顔が再び明るくなった。
「この通り、俺すごく詳しいから!」
「頼もしいな。ただし、勝手に走っていくのはなしだぞ」
「分かってる!」
返事だけは立派だった。
今にも走り出しそうな足元を見ていると、あまり信用できない。
ニコは突然何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、ミレア呼んでくる!」
「ちょっと、ランプ!」
リゼが差し出すと、ニコは受け取った。
そして、今度こそ通りの奥へ駆けていった。
「待ってて!」
その声が夜の石畳へ響く。
俺たちはしばらく、少年の後ろ姿を見送っていた。
◇
ニコが戻ってきた時、その後ろにはミレアとガロがいた。
ミレアは仕事用の前掛けをつけたままで、片手には布巾まで持っている。ガロは急いで来たのか、片方の袖をまくったままだった。
「……本当に、入れたのね」
ミレアが言った。
「はい。ようやくお会いできました」
俺が答えると、彼女は顔をほころばせた。
「こちらこそ。でも、思ってたより若いのね」
「それ、ニコにも言われました」
「声だけだと分からないものね」
ミレアはそう言って笑った。
次にリゼへ顔を向ける。
「あなたがリゼね」
「はい。初めまして」
「初めましてって感じもしないわね。何度も話してるから」
「私もです」
二人は顔を見合わせて笑った。
俺も、同じ気持ちだった。
壁を挟んで話すことが、いつの間にか当たり前になっていた。けれど、同じ場所に立ち、相手の表情を見ながら話すのは初めてだ。
それだけで、随分違って感じられた。
ガロは俺たちへ挨拶するより先に、石壁へ目を向けた。
「……そこから来たのか」
「ああ」
リオルが答える。
「二枚の札を使った。俺たちは通れるし、同じ札で外へ戻ることもできた」
「俺も行けるか?」
返事は速かった。
俺は一度、リオルと顔を見合わせた。
ガロが何を望んでいるかは、壁越しに話していた頃から知っている。
妹のエマに会いたいのだ。
外の王都へ出て、今もそこで暮らしている妹の顔を見たい。その願いのために、ガロは何度も境界へ向かっていた。
「試す前に、少し確認させてください」
俺が言うと、ガロの眉が寄った。
「何を?」
「これまで地上の出口から出ようとすると、別の入口へ戻されていたんですよね」
「ああ。何度やっても同じだった」
「地下の入口でも、同じことが起きるかもしれません」
「……分かってる」
ガロは石壁を見つめたまま答えた。
「でも、やらせてくれ」
その声には、いつもの荒っぽさがなかった。
「妹がいるんだよ。外に」
俺は黙った。
「エマが俺のことを覚えてないって聞いたけど、まだ信じられないんだ。顔を見れば、何か分かるかもしれないだろ」
ガロは俺を見た。
「一回だけでいい」
リオルが前へ出た。
「俺が隣で見ています。走らず、ゆっくり一歩ずつ進んでください。異常があればすぐに中止します」
ガロは頷いた。
「分かった」
俺はリオルから二枚の札を受け取り、壁の印へ合わせた。
入口が現れ、向こうの地下水路が見える。
係長はまだ、そこに待機していた。
「ガロさん、ゆっくりでいいです」
俺が声をかけると、彼は小さく頷いた。
右足が動く。
石壁の表面へ触れる。
その瞬間、ガロの姿が消えた。
しかし、向こうの地下水路には現れない。
「……ガロさん?」
俺が呼んでも、返事がなかった。
係長も周囲を見回している。
俺たちは息を詰めて待った。
すると数秒後、通りの別の横道から怒鳴り声が聞こえた。
「くそっ!」
振り返る。
ガロが少し離れた入口に立ち、石壁を睨んでいた。
「また戻った!」
その姿を見て、俺は大きく息を吐いた。
体は無事らしい。
けれど、地下の入口からも外へ出られなかったのだ。
ミレアがガロを見つめた。
「……やっぱり、駄目なのね」
「はい」
俺は答えた。
言葉を濁しても、目の前の事実は変わらない。
俺たちは二枚の札で青鐘通りへ入り、外へ戻ることもできる。
しかし、同じ入口をガロは通れなかった。
単純に扉が開いているかどうかの問題ではないらしい。
「……何が違うんだろうな」
俺が呟くと、ティセラが壁を見つめた。
「調べる必要があるわね。外から来た私たちと、ここに暮らしていた人たち。その違いを、何かが認識しているのかもしれない」
ガロがゆっくり戻ってくる。
悔しそうな顔をしていたが、もう一度試したいとは言わなかった。
俺は声をかけようとして、言葉を探した。
その時、ミレアが先に口を開いた。
「じゃあ、別の方法を探しましょう」
俺は顔を上げた。
彼女はガロへ一度頷いてから、俺たちへ向き直った。
「とりあえず、店へ来て」
「でも、まだ調査が」
「お腹が空いてるでしょう?」
「……まあ」
「なら、ご飯を食べながら話せるわよ」
ミレアは少し笑った。
「青鐘亭まで来たんだから、まずは一杯食べていきなさい」
リゼが顔を上げる。
「本当にいいんですか?」
「もちろん。ずっと食べに来てって言ってたでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、リゼの表情が明るくなった。
「セイン、行きましょう!」
「切り替えが早いな」
「調査は食べながらでもできますから」
リオルが横で笑っていた。
ティセラも手帳を閉じ、少し肩の力を抜いたようだった。
ガロはまだ納得できない顔をしていたが、ミレアから「鍋を見ていてちょうだい」と頼まれると、結局何も言わずに歩き始めた。
その後ろ姿を眺めながら、俺は少しだけ安心した。
妹に会えなかったことは、きっと悔しいだろう。
それでも今、ガロには帰って仕事をする場所がある。
ミレアもニコも、それを当たり前のように受け入れている。
青鐘通りの人々は、閉じ込められたままでも、毎日を止めずに暮らしていたのだ。
◇
リオルが二枚の札を革袋へしまい、全員の人数を確認した。
俺たちはミレアたちの後を追って、通りの奥へ歩き始めた。
道の両側には古い家が並び、窓から漏れる明かりが石畳を柔らかく照らしている。どこかの家では夕食の支度をしているらしく、香草と焼いた肉の匂いが漂ってきた。
途中の角には、青い標識が掛かっていた。
『青鐘通り』
俺が以前、〈返却〉で戻した標識だ。
壁の外から見ていた時は、あの標識を本来の場所へ返せば、何かが変わるかもしれないと思っていた。
道の名前が戻れば、人々の記憶も戻るのではないか。
そんな期待を抱いたこともある。
でも、今はその標識の下を、実際に歩いている。
その先には家があり、店があり、帰れない人たちがいる。
標識一つを返すだけでは、どうにもならない問題が、ここには残っていた。
「セイン!」
ニコが前の方から振り返った。
「早く! 煮込みが冷めちゃうよ!」
「今行く!」
俺が答えると、リゼが隣で小さく笑った。
「壁の向こうから聞いてた時と、全然変わりませんね」
「ああ」
「でも、顔が見えるっていいですね」
その言葉に、俺も頷いた。
ニコが笑っている。
ミレアが店の鍵を取り出し、ガロが厨房のことを気にしている。
今まで声でしか知らなかった人たちの、歩き方や仕草が見える。
俺たちはようやく、青鐘通りの人々と同じ場所に立てたのだ。
青鐘亭の前へ着くと、ミレアが扉を開けた。
中から暖かな空気と、煮込みのいい匂いが流れ出す。
「いらっしゃい」
彼女が振り返り、俺たちを迎えた。
壁の向こうで何度も聞いてきた言葉だった。
それなのに、目の前で言われると少し照れくさい。
「……お邪魔します」
俺はそう答え、店の中へ足を踏み入れた。
ここから先は、もう壁越しの会話ではない。
同じ食卓を囲み、顔を合わせながら、俺たちは青鐘通りのことを話せる。
まずは、その一歩を踏み出せたことが嬉しかった。




