第7話:卵の殻を破った鳥はフライドチキンが大好き
どこにでもある少し田舎の県立高校。そして、旧校舎の片隅にある歴史研究部。
ここは引退した先輩たちが残してくれた、学内で唯一の静寂なるシャングリラだ。
放課後。定位置のパイプ椅子に深く腰掛けた僕は、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』のページをゆっくりとめくっていた。
僕が海外文学にハマるきっかけとなった、思い入れのある一冊だ。
『光と闇』、二つの世界の間で葛藤し、自らの殻を破って真の自己を探求する少年の物語は、いつ読み返しても新しい発見がある。
ギイイ……と、控えめだが自己主張の強い音を立てて、部室のドアが開いた。
「……失礼します」
そこに立っていたのは、少しアッシュがかったボブマッシュの少女。
先日、鯉を持ったウエットスーツの狂人(里見さん)によって、図らずも不良ギャルたちから救い出された意識高い系アーバンガール、花見川 若葉だった。
彼女は少し気まずそうに視線を泳がせながら、特注のオーガニックコットンで作られたカーディガンの袖をいじっている。
「別に、この前、里見先輩に助けてもらったから来たとか、そういうわけじゃないんですけど……」
「ああ、そう」
「ただ、この学校の生徒はあまりにもサステナブルでオーガニックな精神が足りなすぎるから、私が人類の愚かな歴史を通じて啓蒙してあげるために……それに、ここって部員が少なくて困ってるみたいだし、別に他に入りたいところもないし……」
(……なるほど。要するに『入部したいです、よろしくお願いします』というわけか。面倒で翻訳に手間の掛かるツンデレだな)
僕が手元の『デミアン』を閉じ、そのわけの分からぬ供述にどう答えるべきか思案していた、その時だった。
「本当ですか!? やったぁぁーっ!!」
部室の入り口の前で歓喜の声を上げたのは、我が歴史研のカオス、里見 結菜だった。
彼女は初の新入部員という事実に有頂天になり、ポニーテールと真っ赤なハザードリボンを千切れんばかりに振り回している。
「歴史研へようこそ! 私が部長の里見 結菜です!」
「は……花見川 若葉です。よろしく――」
「花見川 若葉……若ちゃんですね!」
「わ……若ちゃん!?」
「さっそく新入部員の歓迎会ですね! ちょっと待っててください、私、買い出しに行ってきますから!」
嵐のように叫ぶと、里見さんは若葉が口を開く間もなく、弾丸のようなスピードで部室を飛び出していった。
――数十分後。
「お待たせしました! さあ、若ちゃん、千葉くん! 宴の始まりです!」
里見さんが机の上にドンッとぶちまけたのは、コンビニのレジ袋から溢れんばかりの『欲望(闇)という名のカロリーの暴力』だった。
黄色と白のストライプの袋に入った大人気の揚げ物『マミチキ』の山。ファミリーサイズの特大ポテトチップス(コンソメ味)。どす黒い炭酸水。そして、パッケージに真っ赤な唐辛子が描かれた謎の激辛スナック。
「……おい、里見さん。なんだよこの茶色いジャンクフードの山は?」
「歓迎会のオードブルです! 全財産はたきました!」
IQ3の純真無垢なドヤ顔をキメる里見さん。
どうやら彼女の中では、揚げ物とスナック菓子が高級リストランテのオードブルということらしい。
若葉は完全にドン引きし、顔を引き攣らせて数歩後ずさった。
「信じられない……! こんなトランス脂肪酸と添加物の塊なんて、私のオーガニックなアイデンティティが崩壊します! 地球が悲鳴を上げているのが聞こえないんですか!?」
「へ? そうなんですか? こんなに美味しいのに!」
若葉のSDGsな悲鳴を完全にBGMとして処理し、里見さんはさっそくマミチキの袋を破り、無邪気に油まみれのチキンを頬張り始めた。
仕方がない。茶色いものばかりだと文句を言いつつ、僕もコーラのペットボトルを開け、ポテトチップスに手を伸ばす。
バリッ、ボリッ。炭酸の弾ける音と、ジャンクフード特有の暴力的な魅惑の香りが部室に充満していく。
「……」
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所に立つ若葉の様子がおかしかった。
「こんな体に悪そうなもの……絶対に……!」
口では頑なに拒絶の言葉を紡いでいるが、その視線は机の上のマミチキに釘付けだ。
よく見ると、喉がゴクリと鳴り、涎でも垂らしそうだ。瞳は羨ましさのあまり半泣きになっている。
いじらしいというか、不憫というか。
僕は小さくため息をつき、悪魔の囁きを投げてやることにした。
「花見川さん。やっぱり、食べる?」
「た、食べません! こんな地球が悲鳴をあげそうな非オーガニックなジャンクフードなんて……! 親にも止められてますし……」
「そうか、困ったな……」
僕はわざとらしく肩をすくめ、手元のマミチキを見つめた。
「こんなにいっぱい、僕ら二人じゃ食べきれないんだ。……だけど、フードロスって良くないだろ?」
ピタッ、と。若葉の肩が震えた。
「……た、確かに! フードロスは地球規模の深刻な問題です! これ以上の環境破壊を防ぐためにも、私がサステナブルに処理してあげるしか……っ!」
「はむはむ……そんな難しいこと言ってないで、若ちゃんも一緒に食べましょうよ!」
若葉は意識高い系の崇高な大義名分を唱え、口の周りが脂と衣まみれの里見さんが、純真無垢な笑顔を向ける。
完璧な言い訳を得た彼女は、もはや躊躇わなかった。
スッと机に近づき、震える手でマミチキを掴むと、意を決したように小さな口を開けて一口かじりつく。
サクッ。ジュワァァ……。
静かな部室に、衣が弾け、閉じ込められていた肉汁が溢れ出す音が響いた。
「――――っ!!」
若葉の目が、見開かれた。
化学調味料と脂の暴力的な旨味が、彼女の未発達な味覚細胞を容赦なく蹂躙し、アーバンでオーガニックな脳髄を瞬時に焼き切ったのだ。
「お……美味しいれしゅ……」
幼児退行したような恍惚の表情が漏れる。しかし、ハッとして無理やり表情を引き締め直した。
「い、いや! 中々イノベイティブで興味深い味付けです! あくまでクリエイティブな研究対象として――ふはっ、アムッ、はむはむはむっ!」
もはや理性のストッパーは粉々に吹き飛んでいた。
若様はチキンを平らげると、そのままコンソメ味のポテトチップスに手を伸ばし、指に付いた魔法の粉までペロペロと舐め回す勢いでジャンクフードの虜になってしまった。
――『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ』
僕は手元の『デミアン』の一節を脳裏に浮かべた。
(……どうやら、オーガニックという卵の殻を破った若鳥は、フライドチキンの虜になってしまったようだ)
身も蓋もないシュールな文学的皮肉だ。僕は一人静かに感慨にふける。
「はむはむ……らいらい、ひはふん。べふに私、ひほりれも全部食べられまふよ(大体、千葉くん。別に私、一人でも全部食べられますよ)? ……いつも本ばかり読んでるから、本当に軟弱ですね……ポリポリ」
僕の意図など1ミリも理解していない里見さんが、IQ3のアホ全開の顔で首を傾げた。
本当に、この空間には情緒というものがない。
「ふぅ……サステナブルな活動でした」
数分後。すっかり欲望に忠実になり、口の周りにフライドチキンの衣とコンソメパウダーをつけたまま、若葉は満足げに一枚の紙を差し出してきた。
「はい……これ、入部届です。こんなに歓迎してもらっては、仕方がないですね。特別に入ってあげます」
「ああ、歓迎するよ。部員がいなかったのは事実だからね」
僕は入部届を受け取ろうとして、ふと動きを止めた。
視線が止まったのは、用紙の右下。『顧問印』の欄だ。
「……そういえば、うちの部活、前の顧問が胃に穴開けて四月から休職中だ。今って、顧問の先生いなくないか?」
「あっ! そういえばそうですね!」
ポンッと手を打つ里見さん。さも他人事のようだが、言うまでもなく戦犯は彼女だ。
「え? じゃあ、この入部届……」
口の周りを粉だらけにした若葉が、嫌な予感に顔を引き攣らせる。
「ああ。顧問の印鑑がないと受理できないから、君、まだ正式な部員になれないや」
「なっ……!?」
オーガニックの尊厳を捨て、化学調味料に屈したというのに。
僕が冷酷な事実を告げると、若葉の持っていた入部届が、パラリと床に落ちた。
「私のっ……決死の覚悟(カロリー摂取)を返してよぉぉっ!!」
旧校舎の静寂なるシャングリラに、ポンコツヒロインの不憫な叫び声が虚しく響き渡った。
ああ、今日自身の殻を破った意識高い系アーバンガールだが、今回は救われなかったようだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
意識高い系アーバンガールなニューヒロイン、若葉ちゃんの今後の不憫でサステナブルな活躍にご期待ください!
次回(第8話)は、来週火曜日の【11:40】に更新予定です!
顧問不在という最大のピンチ(里見さんのせい)に直面した歴史研。果たして若葉ちゃんは無事に入部できるのか!?
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皆様の温かい応援が、若葉ちゃんを今後も不憫系ヒロインとして輝かせます。
それでは皆様、良い週末をお過ごしください! 次回、火曜日のお昼にお会いしましょう!




