第36話:知性の化け物と不合理な乙女心
どこにでもある少し田舎の県立高校。そして、旧校舎の片隅にある歴史研究部。
……ではなく、夏休みが始まったばかりのある日の午前。照りつける太陽がアスファルトをじりじりと焼く中、僕は駅前のバス停で所在なく立っていた。
発端は里見さん経由で僕の連絡先を聞いた、里見家次女・智菜からの、とあるメッセージだった。
――「千葉先輩、いつになったら歴館へ連れて行ってくれるのでしょうか?」
いつぞや、学校近くのファミレスで、社交辞令のつもりでしてしまった約束を、僕はすっかり忘れていたのだ。
そんなわけで、高校受験に向けた中学生の付き添いで、僕は夏休みという貴重な時間を割いて、わざわざ国立歴史民俗史料館――通称『歴館』へ足を運ぼうとしていた。
一応、高校生として保護者のような気分で彼女を待っていると、定刻の数分前に見慣れた理知的な青いリボンのポニーテールが揺れながら近づいてきた。
その姿を見た瞬間、僕は内心「こいつ、分かってるな」と感心した。
高名なテニスプレイヤーの名を冠した、上品でスポーティーなポロシャツ。それをハイウエストの長めなスカートに美しくタックインしている。
そして足元は、館内の硬い床を何キロ歩いても疲れないであろう、ユーロ系のトレイルランニングシューズ。
手荷物は両手が自由になる、無駄な装飾のないシンプルなデイバッグ。
智菜の装いは、極めて洗練され、かつ合理的なものだった。
広い館内を徹底的に歩き回るという実利を重んじつつ、史料館という公共の場に相応しい上品さを完璧に両立させている。
(……素晴らしいな。ゴム長靴の発掘業者の姉や、実用性皆無のハイヒールに歩幅の狭いワンピースを着て来たどこかのアーバンガールとは、文字通り知性の次元が違う……!)
あまりの完璧なTPOに深い感動を覚えていると、智菜は僕の前で足を止め、その冷徹な三白眼でじっとこちらを見つめてきた。
「おはようございます、千葉先輩」
「ああ、おはよう、智菜ちゃん。ひさしぶりだな。それで……肝心の受験勉強の方はどうなんだ? 受験生」
一応、先輩らしく進捗を尋ねてみる。すると、智菜は表情ひとつ変えずに淡々と言い放った。
「はい、もちろんA判定です」
「…………」
僕は思わず絶句し、怪訝に首を傾げた。
(こいつ、一体何の参考にするつもりで今日ここに来たんだ……?)
模試で最高評価を叩き出している人間が、これ以上何の資料を求めるというのか。
そんな僕の困惑を置き去りにしたまま、智菜は「バスが来ましたよ」と促し、僕たちは並んで歴館行きの路線バスに乗り込んだ。
二人掛けの席に並んで座った僕は、彼女の髪から漂ってくる香りにハッとさせられる。
(そうか、これは里見さんと同じ匂いだ。そりゃ、家族だもんな……)
いつもの何気ない匂いが、性格は全く違えど、彼女とあの破天荒な姉が姉妹であるということを、僕に再認識させた。
車窓の外では、夏の日差しに照らされた青々とした木々の風景が流れていく。
何を考えているか分からない、ポーカーフェイスの智菜と何気ない会話をしながら、僕は少しだけ心を弾ませていた。
***
バスに揺られること数十分、歴館に一歩足を踏み入れた瞬間から、僕たちの間に奇妙な『知性の共鳴』が始まりを告げた。
とにかく、智菜との移動は快適だった。
彼女の履いているシューズは、軽快で静粛性に優れているのか、硬い床の上でも不快な足音を一切立てない。
そして、彼女は常に僕の歩調にピタリと寄り添い、解説パネルを見つめる僕の真横で、静かにその鋭い視線を展示物に注いでいた。
やがて、僕たちは縄文時代の「人口分布」と「集落跡」を示す、巨大なジオラマパネルの前へと差し掛かった。
パネルが示す日本地図を見上げながら、僕は思考を巡らせる。
縄文中期の人口分布は、明らかに西日本が過疎化しており、逆に東日本には主だった集落の遺跡が集中している。
「……極端な東高西低だな。狩猟採集がメインの時代なら、比較的温暖な西日本の方が木の実も豊富で人が集まりそうだが、君はどう思う?」
僕は少し意地悪な気持ちになり、中学生に歴史の裏側を教えるつもりで、クイズ形式の問いかけをしてみることにした。
僕の問いかけに対し、智菜はポーカーフェイスのまま、一秒の淀みもなくレスポンスを返してくる。
「約7300年前の、鹿児島沖での『鬼界カルデラ』の巨大噴火の影響ですね。当時としては規格外のアカホヤ火山灰によって西日本の生態系は壊滅し、数百年単位で人間が立ち入ることのできない死の土地になりましたから」
(……っ! 早い!)
期待以上の、いや、期待を遥かに凌駕する完璧な答えだった。
中学生の教科書はおろか、一般的な高校の日本史Bにすら載っているはずのない、地質学を絡めた専門知識だ。
僕は微かに高鳴る胸を抑えながら、彼女の知識を補完するように言葉を紡いだ。
「……その通りだ。火山灰から逃れた人々は、安全な東日本や大陸へと移動せざるを得なかった。それに加えて、当時は今よりも平均気温が約2度高かった『縄文海進』、つまり温暖期の真っ最中だ。温暖化によって、どんぐりや栗などの落葉広葉樹林が急速に北上したんだ」
「ええ。だからこそ、現在では寒冷地であるはずの青森の地に、『三内丸山遺跡』のような大規模で、極めて持続可能な巨大集落が形成されたわけです……。どこかの自称アーバンなお嬢様が口にする薄っぺらい『サステナブル』とは違い、こちらは地質学的なファクトに基づく本物の持続可能性ですね」
クスリと冷ややかな笑みを漏らす智菜を見て、僕は静かな感動に打ち震えていた。
超古代の核戦争も、歴史の裏で糸を引く闇の組織もここには出てこない。
飛び交うのは、純粋な地質学と考古学のファクトだけだ。
言葉のキャッチボールが、まるで緻密なパズルピースがカチッ、カチッとはまっていくように心地いい。
「……素晴らしいな。ここまで真っ当で知的な歴史の会話が成立したのは初めてだ」
「……っ。ふふ、光栄です」
僕からの純粋な賞賛に、智菜はポーカーフェイスを装いながらも、いつになく口角を緩めていた。
まるで、単なる『変な姉の妹』ではなく、対等な知性のパートナーとして認められたのを喜ぶかのように。
日頃、里見さんの突飛な陰謀論や、若葉の薄っぺらいマウントに辟易している僕にとって、ファクトチェックもツッコミも不要なこの時間は、かつてないほど平穏で、脳の奥深くまで染み渡るような心地よさだった。
***
しかし、そんな至高の時間は、展示の終盤に差し掛かったところで突如として崩壊した。
「凄いもんだな。まだ中学生なのに、ここまで歴史の裏側を考察できるなんて本当に偉いよ。高校に入ってからも、君の成長が本当に楽しみだな」
「ええ……ありがとうございます」
少し気乗りしないような返事だった。
僕は腑に落ちず、ふと智菜の足元に目をやった。
広い館内をあらかた回り終え、いくら機能的なシューズを履いているとしても、彼女はまだ中学生だ。
「そうか、大人にも広すぎる施設だもんな。そろそろ歩き疲れたんじゃないか?」
僕は純粋に彼女の知性を称賛し、年長者として、あるいは保護者のような目線から気遣いの言葉をかけた。
その瞬間だった。
「……別に、これくらい平気です。私は子供ではありませんので」
何故か智菜の眉間が、ピキッと静かに凍りついた。
「え? ああ、そうか。案外タフなんだな」
それきり、智菜は完全に口を閉ざしてしまった。
さっきまでの滑らかな知的シンクロが嘘のように、彼女の周囲には絶対零度の冷気が漂い、明らかに不機嫌オーラを放っている。
(……やれやれ、やっぱりあいつの妹か。さっきまで完璧に話が通じていたはずなのに、なぜ急に理不尽に拗ねるんだ。女の感情のバイアスだけは、僕の論理ではどうしても解を導き出せないな……)
僕はさっぱり理由が理解できず、こめかみを押さえ、深いため息をついた。
***
重苦しい空気のまま、僕たちは帰り際のミュージアムショップへと辿り着く。
なんとか彼女の不機嫌をなだめるため、あるいは今日の有意義な時間へのお礼として、何かプレゼントでも贈ろうと、僕は棚の前に立った。
「智菜ちゃん、今日のお礼に何か記念になる物を買おう。これなんかいいんじゃないか?」
僕が指差したのは、小学生が喜びそうな、ハニワが描かれたチープなプラスチック製のシャープペンシルや、歴史上の人物がデフォルメされたキーホルダーだった。
それを見た智菜は、はぁ……と深い深い溜息を吐き出した。
「また、子供扱いの子供騙しですか?」
「え……?」
冷たく毒づくようなその言葉を聞いた瞬間、僕の脳内で、バラバラだったピースが急激に結びつき、ひとつの推論を弾き出した。
完璧なTPO、中学生離れしたアカデミックな知識、そして「子供ではない」という言葉、子供っぽい文房具への拒絶。
「……あ。そうか、確かにあの圧倒的な知識量を持つ君を、ただの中学生として子供扱いしてしまえば、気分を悪くして当然だな。僕の配慮が足りなかった。悪かったよ」
僕が自分の非を認めると、智菜は少しだけ目元を和らげ、小さく息を漏らした。
「ふぅ……。まあ、私も少し大人気なかったです。今回のところは、その謝罪で及第点としておきましょう」
子供扱い(=知性の過小評価)していたことが原因だと気付き、胸をなでおろす僕。
しかし、彼女の真理の核心にまでは、僕の乙女心に疎いロジックは到達していないようだ。
智菜は僕に対して若干の不満を覚えつつも、すぐに諦めたように視線を移し、棚に下げられていたとある商品を指差した。
「そうですね。今回はあれで手を打ちます」
彼女が指差した先を見て、僕は少し意外な心地がした。
それは、この前僕が若葉に買ってあげた、あの「星のネックレス」……ではなく、月をあしらった、同じく1,500円程度の、お世辞にも高級とは言えない安いメッキのネックレスだった。
「ああ……まあ、構わないけど。本当にこれでいいのか? 君の趣味にしては、少し実利から遠いというか、俗っぽい気もするけど……」
実用性を重んじる彼女が、なぜこんなメッキのアクセサリーを欲しがるのか。
不思議に思って問いかけると、智菜は少しシニカルに微笑み、僕の胸元を人差し指でツン、と小さく突いた。
「ええ……私も女の子なんです」
「……へ?」
首を傾げる僕を他所に、智菜はどこか満足げな表情を浮かべていた。
(そりゃそうだけど、一体何のことやら……?)
僕が会計を済ませて小さな紙袋を手渡すと、智菜はそれを壊れ物でも扱うかのように、デイバッグの奥へと大切にしまい込んだ。
そして、僕に背を向け、誰もいない方向を向いた瞬間――その端正な顔立ちに、隠しきれないツンデレな笑顔を咲かせ、小さく舌を出した。
「ふふ……あのサステナブルなお嬢様の、安っぽい星のメッキなんかより。こっちの月の方が、確実に神秘的で綺麗だと思いませんか?」
「ああ……そう……なのか?」
とりあえず、機嫌を直していつもより饒舌となった彼女と歴館を後にし、僕らはまだ昼間みたいに明るい夏空の下、ガタガタとバスに揺られながら帰路に就いた。
理不尽で面倒な事もあったが、それなりに楽しめたし、まあ良しとするか。
隣に座って、デイバッグを大事そうに抱えながらうたた寝をする彼女を見つめ、僕は少し口角を緩ませる。
ああ、今日の歴館再訪問は、これまでにない知性と『乙女心の不思議』のインプットになったようだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
いよいよスタートした【夏休み編】!
そのトップバッターを飾る【第36話】は、里見家の次女であり、圧倒的な知性と合理性を持つ中学生・智菜ちゃんとの歴館デート(?)のお話でした。
歴史のロジックは完璧に読み解けるのに、乙女心にはとことん疎い千葉くんの鈍感っぷりも健在です。
ラブコメ成分マシマシ(?)でお届けしていく夏休み編、次回【第37話】の更新もぜひお楽しみに!
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