第31話:スーパーソルジャーと不条理なる筋肉の蹂躙
どこにでもある少し田舎の県立高校。そして、旧校舎の片隅にある歴史研究部。
ここは引退した先輩たちが残してくれた、学内で唯一の静寂なるシャングリラ……。
僕は絶品の紅茶と、後輩・勝浦 岬の素直で雑味のない優しさにすっかり癒やされ、束の間の平穏を実感していた。
手元にはヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』。
悟りを求める青年の物語に浸りながら、ティーカップを傾ける。
ああ、それは完璧な放課後のはずだった。
ズン……ズン……。
しかし、その安寧は長くは続かなかった。
廊下の奥から、まるで大型重機が近づいてくるかのような、地鳴りのような足音が部室に迫ってくる。
ティーカップの紅茶の波紋が、巨大怪獣の接近でも告げるかのように揺れた。
コンコン。
やがて、部室の扉から丁寧だが力強いノックの音が響く。
「ん……どうぞ」
僕が声をかけて扉を開き入れた瞬間――部室の空気が、物理的に圧縮された。
そこに立っていたのは、天井スレスレにそびえ立つ、身長190センチの巨漢。
彼の名はうちのクラスの勝浦 優。ラグビー部エースで、そびえ立つ見事なフラットトップ(角刈り)は、うちのクラスのランドマークタワー的存在だ。
基本的にはいい奴なのだが、相手の皮肉や嫌味を理解する知能がないため、すべてを「自分への熱い応援」としてポジティブに変換する無敵の超合金メンタルを持ち、どんな問題も「筋肉」と「気合い」と「プロテイン」で解決できると信じている。
「ひぃぃっ! 出たぁぁっ! CIAのスーパーソルジャーですぅぅっ!!」
その圧倒的な質量と威圧感に、校内で『セーラー服の悪魔』と恐れられる里見さんが、悲鳴を上げて僕の背後に隠れてガタガタと震え出した。
そんな怯える里見さんを尻目に、純真無垢な癒し系ヒロインの岬が、ポカンとした顔で立ち上がる。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
その言葉を聞いた瞬間、若葉が「お……お兄ちゃん!?」と、巨漢の勝浦兄(優)と清楚な岬の顔を交互に見比べながら驚愕して固まった。
僕も驚きのあまり立ち上がり、その暴力的な事実に唖然とする。
「……まさかうちのクラスの勝浦 優の妹だったのか」
「おお、お邪魔するぜ千葉!」
白い歯をキラリと輝かせて部室に入ってくるなり、勝浦兄(優)は僕の背後に隠れて怯える里見さんに向かって、右手に持っていたハンカチをスッと差し出した。
「廊下で里見がハンカチを落としてな。拾って渡そうとしたら、凄い勢いで走って行ったから追いかけて来たんだ」
「え……ハンカチ?」
スーパーソルジャーのまさかの紳士的な対応に、思わず素に戻る里見さん。
そして優は、先ほどの里見さんの叫びを脳筋全開でポジティブに変換し、暑苦しい笑顔で応えた。
「スーパーソルジャー……つまり『最高にタフな戦士』ってことだな! サンキューな、里見!」
「は……はい、あ……ありがとうございます」
普段の暴れ馬っぷりはどこに行ったのか、怯える子猫のように差し出されたハンカチを受け取る里見さん。
そして、身長差のせいで、僕の視線の先には巨大な胸板が立ちはだかっている。
「頼むから、その岩壁みたいな大胸筋で話しかけてくるのはやめてくれないか……」
「ああ! 千葉、いつも俺の筋肉を褒めてくれてありがとな!」
「……褒めてない」
僕の冷ややかな言葉など、超合金製メンタルには1ミリも刺さらない。
優は部室にいる妹の岬に気づき、豪快に笑った。
「そういえば岬! お前も千葉の『熱い漢のソウル』を学びにきたのか!」
「お兄ちゃん! うん、千葉先輩の淹れてくれた紅茶、すっごく美味しいの!」
全く会話が噛み合っていないのに、なぜか和やかに笑い合う勝浦兄妹。
僕は一人、心の奥底で絶望的な独白をこぼした。
(違う。僕のソウルは今、圧倒的質量の前に圧殺されかけている。このどこに出しても恥ずかしくない清楚系ヒロインが、THE・アメリカン脳筋ゴリラと兄妹とか、一体どうなってるんだ? 遺伝子仕事しろ!)
暑苦しい空間に耐えかねたのか、若葉がたまらず絡んでいく。
「ちょっと、暑苦しいんですけど! もっとサステナブルな空間を……!」
「サス……テナブル? ああ、スタミナのことか? 日々のトレーニングが大事ってことだな!」
「ま……まったくアーバンじゃない!」
会話のドッジボールにドン引きして後ずさる若葉。
続いて、怯えから回復した里見さんが被弾しにいく。
「そ、その異常に発達した筋肉……やはり、ディープステートの改造人間ですね! 何らかの薬剤による筋力の増強が疑われ――」
「おおっ! 里見も俺の筋肉を褒めてくれるのか! そうそう、プロテインはいつも接種してるぜ! 歴史研はいい奴ばかりだな!」
興奮した優は、部室のど真ん中で力強いマッスルポーズをとった。
――パァンッ!!
その瞬間、パンプアップした胸肉の異常な圧力によって、優のワイシャツのボタンが物理的に弾け飛んだ。
むさいタンクトップ姿があらわになり、銃弾と化したボタンが里見さんのデコにクリーンヒットする。
「ぎゃああーーっ! 装甲をパージしました! 第二形態です!」
「いやぁぁぁっ! むさいタンクトップとかマジハラスメント! 歴史研のコンプライアンスの危機ぃぃっ!!」
視覚的セクハラに対し、意識高い系アーバンガールとしてコンプライアンス違反を糾弾する若葉。
カオスと化す部室の中で、岬だけが可愛く兄を窘めた。
「もう、お兄ちゃんたら! またワイシャツダメにしちゃって!」
「ああ、俺としたことがつい興奮しちまったぜ。スマンな……」
妹の言葉には、素直に反省してシュンと肩を落とす勝浦兄。
この異常なテンションの高低差で、僕の頭痛はピークに達しようとしていた。
「……勝浦」
これ以上のカオスを防ぐため、僕は勝浦兄(優)を追い返そうと試みる。
「お前のその筋肉はラグビー部で活かすべきであって、歴史研という小さなモラトリアムでは凶器でしかない。早く部活に行くんだ」
だが、忘れていた。
僕の武器である言葉の刃は、脳みそまで筋肉でできているこの男には全く通じないということを。
「千葉! お前のその『熱いエール』、しっかり受け取ったぜ! お前も一緒にスクラム組もうぜ!」
「……は?」
ガシッ!!
「ぐぇっ!?」
優は丸太のような腕で僕の肩をガシッと組み、暑苦しい抱擁を交わしてきた。
ミシミシと音を立てる僕の肩関節。
僕のシニカルな理屈が、圧倒的な物理とポジティブ思考の前に完全に無力化された瞬間だった。
その惨状を見て、妹の岬は嬉しそうに微笑んでいる。
「やっぱり千葉先輩とお兄ちゃん、仲良しなんですね! ふふっ」
――先ほどまで部室を満たしていた癒やしの紅茶の香りは、いつの間にか、むさいプロテインと汗の匂いに完全に上書きされていた。
僕は、手元で無惨にひしゃげそうになっている『シッダールタ』の表紙を見つめながら、心の奥底で絶望的な独白をこぼす。
(……青年シッダールタがどれほどの苦行を重ねて悟りを開こうとも、理屈が一切通じないこの『筋肉の不条理』の前では、永遠に安寧には到達できないだろう)
ああ、今日の僕の放課後は、悟りを開くどころか、圧倒的質量によって完全に蹂躙され、むさ苦しく幕を閉じたのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
【第31話】は、歴史研に訪れた束の間の平穏が、圧倒的な筋肉とプロテインの匂いによって無惨にも蹂躙されるお話でした!
まさかの癒やし系ヒロイン・岬ちゃんの兄が、身長190センチの超絶ポジティブなアメリカン脳筋ゴリラだったという衝撃の事実。
次回【第32話】は、来週火曜日に更新予定です!
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