第30話:ヒロインってのは、こういうのでいいんだよ
どこにでもある少し田舎の県立高校。そして、旧校舎の片隅にある歴史研究部。
ここは引退した先輩たちが残してくれた、学内で唯一の静寂なるシャングリラだ。
定位置となっているパイプ椅子に深く腰掛け、僕はヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』のページを静かにめくっていた。
僕がひたすらに安寧を求め、悟りを開く青年の思索にふけっていたその時、ギギギィと部室の扉が開いた。
視線を上げると、後輩の花見川 若葉が、見慣れない一年生の女子生徒を連れて入ってくるところだった。
清涼感溢れる爽やかな夏用の白いセーラー服と、肩口で切り揃えられた清楚なミディアムボブがよく似合っている。
一切の雑味がない、まさに正統派美少女と呼ぶべき佇まいだ。
「……もう、岬ちゃんったら。歴史研なんてただのヤバい動物園なんだから、見ても面白くないよ?」
「えー、でも若葉ちゃん、いつもすっごく楽しそうに歴史研の話してるじゃない! 私も一回、袴の武石くんとか、陰謀論の里見先輩とか見てみたかったんだ!」
(イヤに可愛い女の子を連れてきたな。しかも、この猛獣ばかりのカオスな動物園に、純粋な興味で来るとは……)
若葉はチラリと僕を一瞥すると、アーバンな余裕を装って口を開いた。
「あ、先輩いたんですね。今日はどうしても友達が歴史研に遊びに来たいっていうから、仕方なく連れてきてあげ――」
「うわぁぁ! あなたが千葉先輩ですね! いつも若葉ちゃんからお話聞いてます!」
若葉のマウントを悪気なく遮り、興奮気味に僕に絡んでくる一年生。
「ああ……そう、君は?」
「ああ! すみません。私ったら、挨拶が遅れちゃいました! 若葉ちゃんと同じクラスの、勝浦 岬です! バドミントン部に入ってます。よろしくお願いします!」
屈託のない、純度一〇〇%の元気で爽やかな挨拶だった。
しかも、どこぞの委員長などと違って、作られた気持ち悪さもない。滅多にお目にかかれない天然物だ。
僕の荒んだ心は、そのマイナスイオンに少し洗われ、聞き覚えのある苗字に気づく思考すら完全に停止してしまっていた。
「これはどうも。僕は二年の千葉 総亮です」
「知ってます知ってます! いつも難しそうな本を読んでて、凄く頭のいい先輩だって、若葉ちゃんから聞いてるんですよ! ふふ……本当に読んでる」
「ちょっと岬ちゃん! 恥ずかしいから、余計な事は言わなくていいの!」
顔を真っ赤にして制止する若葉に、岬は「ごめんごめん! つい嬉しくなっちゃって」と無邪気に笑った。
「でも私、本当に一度お会いしてみたかったんですよ!」
そこまで無垢で真っ直ぐな好意を向けられて、無下にするほど僕も人間ができていないわけではない。
僕は静かに本を閉じ、パイプ椅子から立ち上がった。
「まあ、何もない部室だが、紅茶くらいなら淹れるから飲んでいくといい」
「本当ですか!? 千葉先輩の淹れる紅茶、美味しいって聞いてたから凄く嬉しいです!」
「ちょっと先輩!? 私と扱い違くないですか!」
普段は自分から急かさないと動かない僕が、自ら進んで紅茶の準備を始めたことに焦る若葉をスルーし、僕はケトルでお湯を沸かし始めた。
「そうだ! 私、おみやげにクッキー焼いて来たんです。よければ一緒に」
そう言って、岬はカバンの中からカワイイ包みを取り出すと、恥ずかしそうにそっとテーブルに置いた。
一切の演技のない、一〇〇点満点のヒロインムーブに、若葉が堪らず焦って反応する。
「え、嘘? 岬ちゃん女子力高くない!?」
「お口に合えばいいんですけど……」
僕は思わず、「ああ、これはご丁寧に」と、畏まってお礼をしてしまった。
まさか、手土産まで持参してくるとは。歴史研の来訪者史上、過去一に常識的ないい子じゃないか。これもきっと、親御さんの育て方なのだろう。
ティーカップを並べ、クッキーの包みを開く。
……しかもこのクッキーが、またいいんだ。
(……このいびつな星型や、少し間抜けなクマの顔。そして、プレーンとココアという一切の冒険をしないコンサバな構成。安心する……僕の荒んだ胃壁に、この不揃いのクッキーたちが優しく絆創膏を貼っていくようだ)
売り物みたいに完璧な造形ではないし、特別美味しいというわけでもない。
だが、程よい甘さと素朴な小麦の香りが、実に心地良くて手が止まらない。
これ、気が付けばなくなってるやつだ。
「……美味いな」
「本当ですか! いつも皆には美味しいけど、普通だって言われるんですよ!」
「いや、それがいいんだ。紅茶の茶葉の香りを邪魔しない絶妙な味わいだ」
岬は歓喜し、隣に座っていた若葉にギュッと抱き着いて喜んだ。
若葉はこのやり取りに何か危機感を感じたのか、少し複雑そうな顔をしている。
(普通? ……いいじゃないか。この歴史研で、もっとも尊く稀有な言葉だ。ビバ普通……紅茶が進む)
ティーカップを両手で持ち、嬉しそうに飲む岬の純真な姿を見つめながら、僕は心の中で静かに独白した。
(……ああ、染み渡る。なんて雑味のない、素直で良い子なんだ)
思えば僕の周りには、奇をてらった劇物や際物ばかりだった。
その一、香辛料を致死量までブチ込んだ、胃が焼け焦げる激辛の多国籍陰謀論カレー、里見 結菜。
その二、パッケージだけはオーガニックだのサステナブルだのとご立派で、中身が空っぽ栄養価ゼロの通販健康食品、花見川 若葉。
その三、最高級フレンチに見せかけ確実に胃もたれを起こす、くどくてしつこい油分とソースまみれのフルコース、成田 七海……。
それに比べて、彼女はどうだ。
炊き立てのツヤツヤな白いご飯か、あるいはかつお出汁のきいた温かい素うどんのようだ。
(――そうだよ。ヒロインってのは、こういうのでいいんだよ、こういうので……)
紅茶を飲み終え、ホッと一息ついた岬が、ふと思い出したように弾んだ声で言った。
「そういえば、お兄ちゃんも、千葉先輩はクールに見えて実は『熱い男』だ……って、家で凄く褒めてるんですよ!」
「……ん? お兄ちゃん?」
僕の知り合いに、そんな手放しで僕を褒める人間などいただろうか。
「……君の苗字は、なんと言ったかな?」
「え? あ、言ってませんでしたっけ! 私、『勝浦』です! 勝浦 岬!」
――勝浦。
正統派美少女ヒロインを前に、僕の頭に致命的なバグが発生した。
この可憐で雑味のない圧倒的ヒロイン力を持つ彼女とは、どうやっても結びつかない山のように聳え立つ何かが脳裏を過ったのだ。
「勝浦って……まさか!?」
――バンッ!!
僕が戦慄したその瞬間、部室の扉が勢いよく開き、里見さんが血相を変えて飛び込んできた。
「大変です! 千葉くん! 廊下でCIAのMKウルトラ計画で生み出された『洗脳強化兵士』と接触しました!!」
「……なんだ、いきなり騒々しい」
「本当なんです! 頭が四角いビルみたいな巨体で、私を見下ろしながら手を伸ばして、取り押さえようとしてきたんですよ! だから急いで逃げて来たんですぅ!」
身振り手振りで必死に恐怖体験を語る里見さんに、部室の全員が唖然とする。
すると――。
『ドシン、ドシン、ドシン、ドシン……!!』
廊下の奥から、普通の高校生が発するはずのない、異常な質量を伴った重低音(駆け足)が急速に近づいてくる。
「ひゃーっ! ス、スーパーソルジャーが追って来ました!!」
地鳴りのような足音が、部室の扉の前でピタリと止まった。
ああ、どうやら今日はもう、読書どころじゃないらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
【第30話】は、歴史研に舞い降りた純度100%の正統派ヒロイン・岬ちゃんと、彼女の「普通」すぎるクッキーに涙する千葉くんのお話でした。
次回【第31話】は、金曜日に更新予定です!
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