第26話:パーフェクトヒロイン・成田 七海の脅威 I (接触編)
どこにでもある少し田舎の県立高校。そして、旧校舎の片隅にある歴史研究部。
……とは別の棟にある僕の教室。
六月。衣替えの季節を迎え、教室内は半袖のワイシャツや夏用の白いセーラー服といった、涼しげな装いの生徒たちで賑わっていた。
帰りのホームルームが終わった放課後の喧騒の中、僕は自分のパイプ椅子……ではなく、教室の硬い木の椅子に深く腰掛け、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』のページをめくっていた。
ふと視線を上げると、教室の黒板前でちょっとしたトラブルが起きているのが見えた。
クラスカースト底辺の気弱な男子生徒である木村が、カースト上位の田中から日直の雑務を体よく押し付けられそうになって困り果てている。
そこに、スッと入り込んだ少し長身の女子生徒がいた。
「お疲れ様、木村くんは優しいね。日直の仕事手伝ってくれてるんだ。でも、一人だと大変だよね?」
艶やかな黒髪のストレートロングを揺らし、夏用のセーラー服を一切の乱れなく完璧に着こなした彼女――我がクラスの委員長にして生徒会書記、成田 七海だ。
「あ、いや……俺は別に……」
「田中くんもこれから部活で忙しいと思うけどさ、黒板消し手伝ってもらえないかな? 田中くん背が高くて上まで届くから、すごく助かるな」
彼女は決して声を荒げることなく、理路整然とした完璧なロジックを展開した。
しかも、押し付けようとしていた田中を直接咎めるのではなく、あくまで「あなたの長所を頼りにしている」という建前で、当事者のメンツすらも完璧に保ってみせたのだ。
断りようのない『正論』と、誰もが惚れてしまうような聖母の微笑み。
そして、袖先への徐なボディータッチが、ダメ押しで田中の心を完全に捕らえる。
「お、おう……悪い、木村。俺がやるよ」
「ああ……うん、ありがとう田中くん。助かるよ」
その見事な手腕に、周囲のモブ生徒たちから羨望の眼差しと感嘆の声が漏れる。
「やっぱり成田さん、綺麗だし優しいし、完璧だよな……」
「俺、秋の生徒会選挙は絶対彼女に入れるわ」
教室全体が、彼女の『正しさと優しさ』に同調していく。
誰もが感動する美しい理想だけで満たされた、不快なノイズの一切ない空間。
(……恐ろしい)
僕は安全圏から冷めた目で、その光景を見つめていた。
クラスの連中はおろか、教師でさえも、彼女の微笑みと『完璧な正しさ』の前に平伏し、彼女の提示するレールに乗ることを至上の喜びだと錯覚している。
名は体を表す……成田 七海は、読んで字の如く、日本の玄関口から世界へ飛び出し、かつての大英帝国のようにクラスという『七つの海』を正義と平和の名の下に支配していた。
クンデラは言った。重さこそが、人間の生を大地に結びつける最も現実的なものだと。
だが、僕にとってこの善意の押し売りの重さは、ただ息苦しいだけだった。
――みんな、あの成田七海の重力に魂を引かれてしまっているんだ。
危うく教室の片隅で某総帥のような演説を叫びそうになるのを、僕は必死に堪えた。
深呼吸をして、再びクンデラの世界へ意識を戻そうとした、その時だった。
「やっほー、また難しそうな本読んでるね、千葉くん」
いつの間にか、僕のパーソナルスペースは完全に侵食されていた。
成田七海が、僕の前の席にスッと逆向きに座り、机に頬杖をついて下から覗き込んできたのだ。
「……すまないが取込み中でね、委員長。僕は今、人類の実存について思索を巡らせている最中なんだ」
「あはは、ごめんごめん! でも、そういう知的で不器用な言い回し、千葉くんらしくて私は好きかな」
僕がどれだけシニカルな毒を吐いても、彼女はノーダメージだった。
それどころか、天性の人たらしスキルで僕の毒を『ラブコメ的な照れ隠し』へと意訳して、嬉しそうに微笑んでくる。
「千葉くんって、いっつも斜に構えてるけど、実は周りのことすごくよく見てるよね。こないだも、進路調査票が隣のクラスと混ざっちゃった時、一人でパパッと出席番号順に直してくれたでしょ? しかも、まだ出してない子たちからも、あっという間に回収までしてくれて。私、見てたんだよ!」
ギクッとした。
あれは単に、教師がモタモタ確認するせいでホームルームが長引くのが嫌で、タイパを重視して僕が爆速でソートしただけの作業だ。
未提出の連中にも「お前らがチンタラしていると僕の読書時間が削られる。今すぐ出せ」とロジハラ全開で詰め寄っただけである。
しかし彼女の中では、それが『みんなの進路のために、あえて嫌われ役を買って出てくれた不器用な優しさ』として完全にロンダリングされてしまっていたのだ。
「ねえ、千葉くん」
冗談混じりの会話で完全に退路を断たれたところで、彼女は本題を切り出した。
彼女は少しだけ首を傾げ、上目遣いで、決して断ることなどできない完璧な笑顔を向けてくる。
「秋の生徒会選挙、私が会長に立候補するの。だからさ……千葉くんのその才能を貸して欲しいの。私の隣で、『副会長』をやってもらえないかな?」
「え……はあ?」
予想外すぎる爆弾発言に、僕は素っ頓狂な声を漏らした。
僕が? 副会長? 歴史研のパイプ椅子で一生を終える予定のこの僕が、生徒会という社会的責任(重さ)のど真ん中に引きずり出される?
「ダメ……かな?」
彼女が少しだけ不安そうに眉を下げる。しかし、彼女の両手は僕の右手を包み込むように握っていた。
愁いを帯びた慈悲深い眼差しと、筋書き通りの、悪魔的ボディータッチ。
その瞬間、彼女の重力に魂を引かれている周りのモブ生徒たちから、謎のスタンディングオベーションが巻き起こったのだ。
「やっぱり成田さん、生徒会長に立候補するんだ!」
「これはクラスみんなで応援しなきゃな!」
「千葉くんも大抜擢ね!」
「成田さんに選ばれるんなんて、凄いじゃん!」
「まったく、羨ましいぜ!」
「千葉くん、成田さんをよろしくね!」
もはや、人類に逃げ場はなかった。
(……本当に恐ろしいのは、成田 七海の重力に魂を引かれたクラスメイト達だ)
ここで断れば、僕は「自分の才能を信じてくれる美少女の純粋な善意を、無下に踏みにじる人間のクズ」として社会的に抹殺される。
笑顔と善意で相手の退路を完全に断ち、真綿で首を絞めるように同調圧力の中へと引きずり込む。反論のしようがない純度100%の善意と期待という名の暴力。
僕の愛するモラトリアム(軽さ)が、パーフェクトヒロインの権化によって圧殺される絶望的な重圧。
「うっ……」
――限界だった。
この完璧にデザインされた気持ち悪い同調圧力の空間に、僕は文字通りキャパオーバーを起こし、物理的な吐き気を催して口元を押さえた。
すると、完璧なヒロインはさらに純度を高めた優しさで追撃してきた。
「大丈夫、千葉くん!? 気分でも悪いの? 一緒に保健室行く?」
「……いや。少し、小惑星を落としたくなっただけだ」
「えっ? 小惑星?」
「なんでもない。……僕は行くよ」
意味不明な供述を残し、僕は返事を保留にしたまま席を立ち、同調圧力の渦巻く教室から逃走を図った。
向かう先は一つしかない。
責任も重さも一切存在しない、質量ゼロの陰謀論が渦巻く無重力空間……宇宙へ。
僕は逃げるように旧校舎の奥へと駆け込み、歴史研究部の扉を開けた。
「ああ、やはり重力から解き放たれた宇宙はいい……」
いつもの定位置であるパイプ椅子に深く腰掛け、僕は安堵の息を吐きながら小説の続きを開いた。
そこには、三者三様のブレない日常があった。
「何言ってんですか……? 先輩、小難しい本の読みすぎじゃないですか?」
部室の隅では、若葉が最新のアーバンなファッション誌(夏コーデ特集)を読みながら、ドン引きしたような冷ややかな視線を送ってくる。
若葉の冷たいツッコミの横では、今日も烏帽子に紋付き袴という完全武装をキメた『落ち武者』こと武石が、プラスチックの模造刀にポンポンと丁寧に打粉をまぶしながら高笑いする。
「ははは……誠に上総介(千葉)様は、南蛮の書物がお好きにござりまするな!」
以前僕が「ウェットティッシュで拭くと加水分解するぞ」と指摘したのを律儀に守っているらしい。
そして、ホワイトボードに向かっていた我が歴史研の厄災・里見さんが、勢いよく振り返った。
そのボードには、なぜかクラスメイトの顔写真が大量に貼られ、赤い糸で海外諜報員の割り出し作業が行われている。
「千葉くん! その悲壮感……もしかして、重力という学校の巨大なシステムの闇……まさにディープステートから逃れて来たんですね!」
重力や宇宙という言葉を陰謀論の暗喩に変換する里見さん。しかし、妙に的を射ている。
噛み合わない会話。時代錯誤の落ち武者。質量ゼロの狂気。
(……ああ、なんて素晴らしいんだ。ここには一切の『重さ』が存在しない)
教室の息苦しいほどの正しい重力を味わった後だからこそ、このどうしようもないカオス空間が、僕の精神的シェルターとして完璧に機能していた。
僕はクンデラを開きながら、深い安らぎの中で目を閉じた。
ああ、この平穏な無重力空間が、長くは続かないことを、この時の僕はまだ知らなかったのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、歴史研の「質量ゼロの狂気(IQ3)」とは対極に位置する、純度100%の善意と同調圧力でクラスを支配するパーフェクトヒロイン・成田 七海が登場する【第26話】、いかがでしたでしょうか。
次回【第27話】は、金曜日のお昼に更新予定です!
もし「成田さんの同調圧力に魂を引かれそう!」「早く陰謀論という名の小惑星を落として、クラスを粛清して!」と少しでも思っていただけた方は、
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