第14話:カラマーゾフな里見三姉妹 III(結の章)
どこにでもある少し田舎の県立高校。そして、旧校舎の片隅にある歴史研究部。
……そこから遠く離れた、週末の喧騒に包まれた大型ショッピングモール。
僕は絶え間なく流れるBGMと人混みから逃れるように、モール内にある大型書店の『海外文学コーナー』という、休日のサンクチュアリに身を隠していた。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み終えようとしていた僕は、次に何を読むか思案しながら本棚を眺めていた。
『罪と罰』にしようか、それとも『地下室の手紙』にしようか……。
「あら千葉先輩。週末の大型ショッピングモールで、一人寂しく重苦しいロシア文学ですか? 青春の無駄遣いにも程がありますね。それとも、あの『サステナブルなお嬢様』に見捨てられて、孤独でも癒やしているんですか?」
背後から、氷のように冷たく、しかしどこか弾むような声が耳元を掠めた。
振り返ると、そこには第一ボタンまでキッチリと留めた私服ブラウス姿の里見家次女・智菜が、理知的なブルーのリボンを揺らして、底意地の悪い三白眼で僕を嘲笑っていた。
少し離れたところから、あの騒がしい長女の声も聴こえてくる。
「……相変わらず口が減らないな。君こそ、あの『暴れ馬(長女)』を公共の場に放し飼いにするなんて、お巡りさんかJRAにでも通報されるぞ」
「ふふっ」
僕が顔色一つ変えずに皮肉で打ち返すと、智菜は普段の冷徹な仮面を少しだけ緩め、嬉しそうに口元を綻ばせた。
圧倒的な知性ゆえに周囲が愚かに見えてしまう彼女にとって、こうして同等のシニカルさで言葉のキャッチボールができる相手は、極めて稀有なのだろう。
隠しきれない歓喜がその表情から滲み出ている。
「あっ! 千葉くーん!」
智菜との心地よい知的な空間は、一瞬にして物理的に破壊された。
真っ赤なリボンを揺らした長女・里見 結菜が、書店の棚をなぎ倒さんばかりの勢いで突撃してきた。その後ろからは、ペールピンクのリボンをつけた三女・愛菜が、涙目で小走りに追いついてくる。
「お、お姉ちゃん! 本屋さんの中で走っちゃダメだよぉ!」
三姉妹が僕を囲むように立ち止まった瞬間、僕は本気で眩暈を覚えた。
聞き分けが困難なほどよく似た声質から、「アホ」と「絶対零度」と「不憫な聖母」という全く異なる出力が、二か国語放送のように同時に鼓膜を殴ってくる。
僕の脳の処理能力に対する、悪質なDDoS攻撃だ。
「……で、今日は何なんだ。暴れ馬に知性のバケモノに幼い聖母。三位一体で買い出しか?」
僕がこめかみを押さえながら尋ねると、彼女たちは三人でお小遣いを出し合い、「父の日のプレゼント」を買いにきたのだと説明した。
三人で一つの資金を共有する連帯責任制。嫌な予感しかしない。
「千葉くん! ちょうどよかったです! モール内の雑貨屋さんで、お父さんをディープステートの盗聴から守る最高の『防諜アイテム』を見つけました!」
里見さん(結菜)が興奮気味に指差して駆け出したのは、書店の隣にある怪しげな輸入雑貨やサブカル本を扱う店舗だった。
「これです!」と彼女が高々と掲げたその手には、インテリアとして売られている悪趣味な『ヴィンテージ風の透明しゃれこうべ』が握られていた。
そもそも、底面にはガッツリとバーコードのシールが貼られているのに、里見さん(結菜)はそれを「超古代文明の遺産」だと信じ込んでいるようだ。価格は約8,000円。
「これは1万年前に沈んだ超古代文明アトランティスの『本物のオーパーツ』です! この古代のクリスタル形状から発せられる波動が、ディープステートの盗聴電波を完全にジャミングするんです! これさえあれば、我が家の情報セキュリティは完璧です! お父さんも絶対に喜ぶはずです!」
「お姉ちゃん、そんな怪しい物、お父さん喜ばないよぉ! 8,000円もあったら普通のネクタイ買えるよぉ!」
三人で出し合った大切なお金が入った財布を開こうとする長女に、愛菜が必死にしがみついて止める。
「やめなさい、姉さん。金型のパーティングライン(継ぎ目)が残っているただの石油化学製品よ。だいたい、田舎のショッピングモールに、超古代文明の遺産なんか売ってるわけないでしょ。知性と常識の欠如した贈り物ほど父への冒涜はないわ」
智菜の冷徹な正論も、生粋の陰謀論者の耳には届かない。
「直感が真実だ!」と聞く耳を持たない里見さん(結菜)の手によって、姉妹の全財産がロクでもないアクリルのしゃれこうべに消えようとしていた。
「里見さん。よく考えろ」
見かねた僕は小さくため息をつき、彼女の土俵(陰謀論)の中に、逃げ場のないファクトを叩きつけた。
「もし1万年前にそのアクリルを生み出す高度な石油化学技術があったなら、南極の『氷床コア』から当時の地層に異常な二酸化炭素の排出記録が見つかるはずだ。だが、歴史気候学のデータにそんな記録はない」
「えっ……? 氷床コア……?」
「さらに決定的な矛盾がある。それが本当にディープステートを害する高性能な防諜グッズなら、なぜ巨大な権力で世界を支配するディープステートが、田舎のショッピングモールに8,000円で流通させるのを許してるんだ?」
「あっ……!」
「論理的な推察は一つだ。それは真実に近づきつつある賢明な日本人である君の活動資金を枯渇させ、日本を弱体化させようと、ディープステートがばら撒いた『経済的デコイ(罠)』の可能性が高い」
氷床コアのデータも流通の不自然さも、紛れもない事実だ。ただ、僕は相手のプライドをくすぐるように、その繋ぎ方を悪魔的に歪めただけだ。
「危なく敵の経済工作に加担するところでした! 千葉くん、ありがとうございます、目が覚めました! さすが、私の優秀なハンドラー!」
「お前みたいに、親不孝な工作員を飼った覚えはないがな……」
里見さん(結菜)はあっさりと財布を閉じた。
店員がポカンとする中、里見家の財政危機は、僕のアンチフェイクな詭弁によって見事に回避されたようだ。
「……正論と科学的ファクトで詭弁をコーティングし、アホの脳をハックするとは……とんだトリックスター、猛獣使いですね、千葉先輩。本当に……吐き気がするほど悪趣味で、素晴らしい手口です」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「ありがとうございます、ありがとうございます。千葉先輩!」
智菜は涼やかな三白眼を細め、底意地の悪い、けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。愛菜に至っては、まるで僕の背後に後光でも見えているかのように、両手を合わせて涙ぐみながら拝んでくる。
「……仕方がないので、防諜アイテムはやめて、やっぱり普通のネクタイにでもしますか」
「そうね。それが一番サステナブル……じゃなかった、現実的だわ」
「うんうん。そうだよ! その方が、きっとお父さんも喜ぶよ!」
ようやく軌道修正された姉妹に、僕は一つだけアドバイスをした。
「ネクタイそのものより、ネクタイピンの方が毎日身につけられるんじゃないか」と。
僕たちは紳士服売り場へ向かい、ショーケースを眺めた。すると、たまたま置いてあった『馬の蹄鉄』をあしらったクラシカルなネクタイピンが目に留まった。
「これなんかどうだ。馬の蹄鉄は、古くから西洋で幸運を受け止めるお守りとされている。クラシックな装いとしても定番だ」
僕がさりげなくトリビアを告げると、姉妹は「この『Uの字』は、国連の息がかかってそうですね!」「先輩にしては、悪くないチョイスです」「縁起がいいですね!」と満場一致(?)でそれを購入した。
(……まあ、本当の理由は、『暴れ馬』を制御して欲しいという暗喩なんだがな)
僕は誰にも気づかれないように、心の奥底で一人密かに笑った。
「お腹空いた! フードコートに行きましょう!」と騒ぐ長女の声と、それを冷たくあしらう次女、慌てて止める三女の三重奏が遠ざかっていく。
ドストエフスキーの描いたカラマーゾフ家は、父親への愛憎が渦巻く悲劇だった。
だが、狂気と知性と慈悲に満ちたこの姉妹たちの中心にいる父親は……少なくともカラマーゾフ家のロクでもない父親よりは、よっぽど愛されているらしい。
(まあ、その愛の形が『防諜アイテムのしゃれこうべ』という実害を伴いかけたことには、同情を禁じ得ないが……)
僕はカフェでひと休憩して、どこか温かい余韻を感じながら、再び『カラマーゾフの兄弟』のページを開いた。
ああ、どうやらこの世界線のカラマーゾフの父親は、無事救われていたようだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
全3回でお届けした『カラマーゾフな里見三姉妹』、これにて完結です!
今回は休日回ということで、三姉妹が揃って父の日のプレゼント選びに奔走(暴走)しました。智菜の冷徹な正論すら通用しない結菜の狂気を、相手の土俵(陰謀論)に乗っかってハックしてみせた千葉くんの「猛獣使い」っぷり、いかがだったでしょうか?
次回(第15話)は、金曜日の【12:20】に更新予定です!
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次回、金曜日のお昼にお会いしましょう!




