第10話:暴れ馬の蹄にイルミナティ
どこにでもある少し田舎の県立高校。そして、旧校舎の片隅にある歴史研究部。
ここは引退した先輩たちが残してくれた、学内で唯一の静寂なるシャングリラだ。
旧校舎の片隅にあるこの静寂な部室で、僕は定位置のパイプ椅子に深く腰掛け、本を開いていた。
今日読んでいるのは、ロシア文学の巨匠ツルゲーネフの『初恋』である。
甘酸っぱいタイトルとは裏腹に、その中身は「年上の美しい性悪女に恋してしまう、少年の残酷な幻滅」を描いた、皮肉に満ちた傑作だ。
(……まったく。僕ほど『人は見かけによらない』という事実を痛感している奇特な高校生はいないだろうな)
僕が一人でそんな皮肉な感傷に浸っていると、ギイイ……と重い音を立ててドアが開いた。
「……失礼します。なんだか、今日も部室がカビ臭いですね」
気だるげな声と共に現れたのは、一年生の意識高い系アーバンガール、花見川 若葉だった。
特注のオーガニックコットンカーディガンを着崩した彼女は、ふと僕の手元にある文庫本のタイトルに目を留め、意外そうな顔をした。
「あれ? 千葉先輩が珍しく恋愛小説なんて読んでるんですね。……ツルゲーネフの『初恋』?」
「まあ、一種の生態系観察の記録だ」
「ふーん。読み終わったら、今度私にも貸してくださいよ。それくらいなら薄くて読みやす……じゃなくて! その、面白そうですし!」
普段はSDGsだのサステナブルだのとマウントを取ってくるくせに、小難しい本への苦手意識(と底の浅さ)を一瞬で露呈する若葉。
僕はため息をつき、本に栞を挟んで顔を上げた。
「なんだ? 今日はやけに絡んでくるじゃないか」
「別に、絡んでなんかいませんけど。……ただ、少し気になっただけです」
若葉は少し躊躇うように視線を泳がせた後、パイプ椅子の背もたれをギュッと握り、探るような目で僕を見た。
「そういえば、里見先輩のことなんですけど……」
「里見さんがどうかしたか?」
「千葉先輩って、いつも『迷惑だ』とか『コスパが悪い』とか文句言ってますけど……。あれだけおかしなことをし続けてても、愛想をつかさず。どんなに迷惑をかけられても、絶対に見捨てないじゃないですか……」
「……何が言いたいんだ?」
若葉は一歩踏み込み、頬を微かに赤らめながら、確信に満ちた声で言い放った。
「なんだかんだ可愛いのは事実だし、これって……もう、好きなんですよね?」
部室の空気が、微かに甘く、そして緊迫したものに変わる。
ラブコメ特有の、核心を突くような詮索。若葉は僕の『照れ隠し』を暴こうと、真っ直ぐに僕を見つめている。
……だが、僕は極めて冷静に、いつもの里見さんに対するテキスト理解を展開する。
「花見川さんは、里見さんのあの頭のリボンの意味が分かるか?」
「あの真っ赤なリボンですか? まあ、少し幼い印象はありますね……」
訝し気に首を傾げる若葉。僕は人差し指を立て、まるで世界の深淵に触れるかのように語る。
「一般的に、競馬だと尻尾の赤いリボンは、蹴り癖のある危険な馬のハザードマーク……つまり、あいつは暴れ馬なんだ」
「はぁ……馬、ですか?」
「馬っていうのは、凄く美しい動物だ。それは認める。だが、暴れ馬なんてものは、中途半端な肉食動物よりもよっぽどタチが悪い。こないだだって、エンジン付きドリルを振り回していただろ?」
「まあ、それは……否定しませんけど」
「競走馬は総じて気性が荒い馬の方が強いことが多い。だけど、世話する厩務員は馬に噛まれたり蹴られたりしても、簡単に仕事を投げ出したりしないだろ?」
僕は淡々と、ロジカルに言葉を重ねた。
「厩務員は愛情深く馬の世話をするが、どんなに毛並みが綺麗だろうと、別に厩舎の馬に『恋』なんかしない。要は、カテゴリーエラーなんだよ」
「カテゴリー……って、先輩は、ウ○娘のトレーナーかなんかですか?」
「それに、案外慣れれば簡単に処理(へし折る)できるから、そんなに苦でもないんだ。もう既にルーティンになって、毎日決まった詰将棋をしてる感覚だよ。他の部に行って面倒な人間関係と活動で時間を浪費するより、座ったまま里見さんを毎日へし折る方が、よっぽどタイパがいいくらいの認識だよ」
僕の淀みない(そして少し狂った)理論を聞き終えると、若葉は深く、深くため息をついた。
「……女の子をアニマル扱いして、感情をタイパや詰将棋で語るなんてコンプライアンス皆無で、本当にデリカシーがないですね。全くサステナブルじゃありません!」
口ではそう毒づきながらも、若葉の表情からは先ほどの緊迫感が抜け、どこか安堵したような響きが混じっていた。
(……やれやれ。僕が里見さんに恋愛感情を抱いているとでも本気で疑っていたのか?)
そんな下らない誤解が解け、再び部室に平穏が戻ろうとした、まさにその時だった。
バンッ!!
「千葉くん!! 大変です!!」
いつもと全く同じ勢いでドアが弾け飛び、我らが歴史研究部の厄災、里見 結菜が血相を変えて飛び込んできた。
「どうしたウ○娘? いつもいつも、部室の扉は出走ゲートじゃないんだぞ」
「何のことですか? それより、私の手のひらに……イルミナティの秘密のサインが浮かび上がりました!!」
「……は?」
里見さんは涙目で僕の前に立ち、自分の右手をぐいっと突き出してきた。
「それって、フリーメイソンとかの『プロビデンスの目』ってやつだろ……手の平に目とか、お前は妖怪か?」
「ほら! こんなにくっきり目の模様が! きっと、このプロビデンスの目が私の命を吸い取っているんです! 私、死ぬかもしれません!」
そこには確かに、奇妙な丸い紋様のようなものが赤く腫れ上がっている。
「どうしましょう千葉くん……っ!」と、本気で怯えて半泣きになりながら、僕の腕にすり寄ってくる里見さん。
……普段は全く手に負えないカオス製造機だが、こういう時ばかりは、ただの庇護を求めるか弱い小動物である。
僕は深い溜息を吐きながら、彼女のその『プロビデンスの目』を冷ややかに一瞥した。
「……お前、一昨日エンジン式ドリルを素手で振り回してただろ。ただの巨大な『マメ』だ、それは」
「えっ……まめ?」
「だいたい、なんだお前のその異常に太くて荒々しい生命線は。アマゾン川か?」
「あ、あまぞん……?」
「あんなドリルを平気で振り回す、ゴキブリ並みの生命力の奴が、手のマメごときで簡単に死ぬもんか!」
僕が呆れ半分にそう悪態をつくと、里見さんはぽかんとした後、パァッと顔を輝かせた。
「……じゃあ、私、死なないんですか?」
「当たり前だ。しかも見ろ。その無駄に強靭な生命線に完全に押しつぶされて、お前の頭脳線、絶望的に短いじゃないか」
「ずのうせん……?」
「こんなIQ3の手の平に、万物を見通す『プロビデンスの目』が宿るなんて、イルミナティに対してもおこがましいよ」
口の悪いロジカルハラスメント。
だが、里見さんにとってはそれが何よりの免罪符(安心)になったらしい。
「えへへ……そういえば、おばあちゃんにも『アンタは120歳まで生きる』って言われました!」
「だろうな。たとえ世界が滅びても、お前だけはゴキブリと一緒にしぶとく生き延びてそうだよ」
「はいっ!」と無邪気に笑う里見さんと、やれやれと文庫本を開き直す僕。
部室は、いつもの狂気とは少し違う、何だかほっこりとした空気に包まれていた。
「…………」
少し離れた場所で、若葉が僕たちの一部始終を無言で見つめていた。
先ほどまで「タイパの話は最低です」と安堵していたはずの彼女の顔には、深い戸惑いと、なぜかメラメラとした闘志のようなものが入り混じった、極めて複雑な表情が浮かんでいる。
「……やっぱり、カテゴリーエラーなんかじゃないじゃないですか」
若葉が蚊の鳴くような声で何かを呟いたが、ドリルの空ぶかしのような里見さんの笑い声にかき消されて、僕の耳には届かなかった。
「何か言ったか、花見川さん?」
「……なんでもありません! 先輩たちのその、熟年夫婦みたいな阿吽の呼吸が、グローバルウォーミングの温床だって言ったんです!」
顔を真っ赤にして、ぷいっとそっぽを向いてしまう若葉。
僕が完璧な論理で『馬と厩務員』の潔白を証明してやったのに、なぜ彼女が突然不機嫌になったのかは謎だが……まあ、いつものことだ。
そんな後輩の理不尽な苛立ちなど露知らず、僕は再び『初恋』のページをめくり、ようやく訪れた平穏な読書タイムへと戻っていくのだった。
ああ、今日も僕の平穏な読書時間は、こうして少しハートウォーミングに守られたのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
千葉くんの「暴れ馬と厩務員」というコンプライアンス皆無な比喩と、手のマメを「プロビデンスの目」と言い張る里見さんのおバカ可愛さは、いかがだったでしょうか?
二人の阿吽の呼吸を見せつけられた若葉ちゃんの、アーバンなプライドと揺れ動く乙女心の行方も気になるところです。
本日より、なろう版のタイトルを『同じ部活の美少女がIQ3の陰謀論者すぎて、僕が毎日へし折ってます』にマイナーチェンジしました!(※カクヨム版では旧タイトルのまま連載しています)
中身のIQの低さは変わっておりませんので、これからも千葉くんの冷ややかなツッコミと里見さんの狂気を見守ってやってください!
次回(第11話)は、金曜日の【12:20】に更新予定です!
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次回、金曜日のお昼にお会いしましょう!




