vol.65 めぐみ、恋人の砦へ(後編)
部屋の空気は、まだ硬いまま。
さっき私が出した名前のせいで、床まで凍っている。
引いたら終わる。
私は、笑う。
笑って、息を通す穴を作る。
「そういえばこの前、Synaptic Driveのユージさんにもお会いしたんですよ。
けんたろうさんのこと、『原子力発電所みてーな作曲家だ』って言ってました。
すっごい褒め言葉ですよね!」
言い切った瞬間、空気の端がふっと緩んだ。
あやさんが、口元を手で隠す。
吹き出しかけたのを飲み込んだ顔。
肩が小さく震えている。
ひなたさんも、堪えきれないみたいに目を細めた。
さやかさんは困ったように微笑む。
その微笑みが、やけに人間っぽくて、私の緊張が少しだけとける。
けいとさんだけは、笑わない。
笑わないけど、怒りもしない。
女王の仮面を外さないまま、場を整える。
「彼は……本当に唯一無二の才能の持ち主です」
けいとさんの声は端正で、熱を含まない。
「常識にとらわれない感性で、私たちをいつも驚かせてくれますわ」
さやかさんが続ける。
「まるで、音で絵画を描いているみたいに情景が浮かぶんです。
とても繊細で……」
「そうそう!」
ひなたさんが身を乗り出す。
「でもって超ダンサブルなの!
聴いてると体が勝手に動くっていうか……」
かおりさんは頷くだけ。
その目は私を見ている。
反応を測る目。
私がどこまで踏み込むか、そこで値段が決まるみたいに。
私は頷きながら、ひとつずつ言葉を飲み込む。
褒め言葉が重なるほど、けんたろうは遠ざかる。
輪郭が、霧の向こうへ引っ込んでいく。
この人たち、上手い。
褒めて、褒めて、称えて、称えて。
それで核心を触らせない。
音楽の話ならいくらでも踊らせる。
でも本人の話になると、扉が閉まる。
だから私は、扉の蝶番を探す。
鍵じゃなくて、ほころびを。
「あの」
私は声の調子を、わざと明るくする。
質問は無邪気な形に包むのが一番刺さる。
「けんたろうさんって、一体どんな方なんですか?
もしかして、すっごくお歳を召した方だったり……?」
一拍。
沈黙。
それから、目配せ。
来た。
今のが、答えより雄弁。
この沈黙は、知らない人の沈黙じゃない。
相談する人の沈黙だ。
台本を確認する人の沈黙。
あやさんが、わざとらしく首を傾げた。
「えぇ、どうでしょうねぇ?
円熟したサウンドを聴くと、業界を長く見てこられた大ベテランの方なのかしら?」
けいとさんも遠い目を作る。
「ええ。
幾多の修羅場を越えてきた、レジェンド級の方だとお見受けしますわ」
ひなたさんが、そこへ石を投げるみたいに笑う。
「でもさー、あのフレッシュさも捨てがたいよね!
案外すっごい若かったりして?
ギャップ萌えでヤバくない!?」
ふわふわ。
ふわふわ。
綿菓子みたいな答え。
味はするのに、食べた気にならない。
でも私は、腹に残らないことが逆に気になった。
ベテラン。
レジェンド。
修羅場。
円熟。
言葉が揃いすぎている。
揃えた、って匂い。
必死に年上へ寄せてる。
寄せすぎて、むしろ浮いてる。
つまり。
逆だ。
胸の中で、パズルのピースがかちりと音を立てた。
私は最後の一手を、軽く投げる。
軽く。
ただの思いつきみたいに。
「もしかして……
学生さんだったりします?」
空気が止まった。
止まった空気の中で、私の心臓だけが走っている。
誰も答えない。
答えないのに、目が全部答えている。
否定の準備をする目。
肯定が漏れそうになる目。
守る人の目。
そのなかで、こはるさんだけが、まっすぐだった。
まっすぐすぎて、危ない。
「え!?
けんたろうちゃんは、高校生じゃないよ!」
言葉が落ちた。
落ちた瞬間、私は見た。
けいとさんのこめかみに指が当たる。
あやさんが天を仰ぐ。
さやかさんの視線が泳ぐ。
かおりさんは目を閉じる。
ひなたさんは頭を抱える。
誰も怒鳴らない。
その静かな崩壊が、いちばん怖い。
私は笑った。
勝ったからじゃない。
ここで勝った顔をしたら、扉が閉まるから。
私はどこまでも天然を装う。
ここでは可愛い後輩だから。
「へぇ〜。
そうなんですか〜」
高校生じゃない。
高校生じゃない、という否定。
否定の形をした肯定。
私の中で、地図が完成する。
「なるほど〜、すごく勉強になりました!
今日は突然お邪魔して、本当にすみませんでした!」
深々と頭を下げる。
礼儀は、煙幕。
私はすぐに部屋を出た。
背中に刺さる視線が、熱い針みたいだった。
廊下に出た途端、肺がようやく息を思い出す。
笑いをこらえると、喉が痛い。
スキップしそうな足を、床に押しつける。
大丈夫。
私は平気な顔で歩ける。
アイドルだもん。
外の空気は冷たい。
なのに頬が熱い。
心臓がうるさい。
してやったり。
あの慌て方。
あの否定。
間違いない。
けんたろうは、高校生だ。
私は拳を握って、コートのポケットの中でほどいた。
声にはしない。
声にしたら、幸運が逃げる気がした。
目の奥だけが光る。
獲物までの地図を手に入れたハンターの光。
私の捜索は、いま、ひとつ前に進んだ。




