vol.3 重ならない指先
夕暮れ。
空が茜色から深い藍色へと変わっていく頃。
いつもの帰り道じゃなくて、少しだけ遠回りになる公園ルート。
大きい広場のある公園は、昼間は子どもとママたちでうるさい。
この時間になると人影もまばらになり、静かになる。
ベンチでスマホでもいじろうかな、と足を向けかけて――
ふと、視界の端に何かが引っかかった。
公園の奥。
街灯の薄い光が、アスファルトをぽつんと照らしている。
その輪の中に、人影が二つ。
カップルだ。
こんな時間、こんな場所で、わざわざ。
見慣れた制服。
見慣れた背中。
(……あれ?)
同じクラスの、地味で目立たない男子。
いつも窓際の席で、授業中もぼんやり外を見てる。
話したことなんて、ほとんどない。
――けんたろう……?
「会いたかった……けいとさん」
心臓が、変な鳴り方をした。
その声を知っている。
教室でいつも窓際で寝ている、あの目立たない男子。
けんたろうの声だ。
「ひさしぶりね。
でも、今は我慢してね、けんたろうちゃん」
それに応えた声は、テレビやSNS越しに何度も聴いた、あの声。
隣にいる人影を見た瞬間、梓の息が止まった。
艶やかな黒髪。
すらりとした立ち姿。
街灯の光を浴びても、その存在感だけが浮かび上がる――
――けいと。
大型ビジョンの中で、指先ひとつで会場を支配する女の人。
冷たい瞳で、熱い音を叩きつける、今をきらめく―――
(Midnight Verdictの……けいとさんが。
なんで、うちの高校の男子と……?)
梓は、街灯の柱の影に、反射的に身を隠した。
(うそ……なんで……?)
目の前。
憧れの人が、目を伏せて笑っている。
その視線の先にいるのは、自分と同じ制服を着ている男の子。
あのけいとさんが、あんな甘い声で、クラスの地味男子を呼んでる。
しかも「ちゃん」付けで。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
何これ。
何なの、これ。
梓は、ベンチの影に身を隠した。
見ちゃいけないものを見てる気がする。
でも、目が離せない。
「……会いたかったよ、けいとさん」
ようやく絞り出した自分の声が、夜気に滲んで消える。
すぐそば。
手を伸ばせば、指先が触れそうな。
けいとは、街灯に背を預けたまま、振り返らない。
「私もよ。
でも、今は我慢しないといけないの」
静かな、公園のはじ。
聞こえるのは、遠くの車の音と、二人の呼吸だけ。
本当は、走って抱きしめたかった。
何ヶ月分もの「会いたかった」を、一気にぶつけたかった。
最後に会ったのは、あの雨の喫茶店。
数ヶ月ぶりの再会。
「……忙しい?」
驚くほど、情けない問い方。
「忙しい、って言えばそうなんだけどね」
けいとは、少しだけ肩をすくめる。
「それだけじゃないの。
いまの私は、もう『普通の大学生』じゃないから」
Midnight Verdictのリーダー。
そう言葉にするかわりに、彼女は苦く笑った。
その横顔を、何度映像で見ただろう。
大型ビジョンの中で、雑誌の表紙で。
でも、こんな風に、夜の公園で、街灯の下で、息がかかる距離で見るのは、久しぶりだった。
「簡単に会いに来られる立場じゃ、なくなっちゃったの。
……苦しいけれど、仕方ないよ」
そう言って、けいとは少しだけ顔を上げた。
こらえきれなかったみたいに、伸ばされた手が、けんたろうの右手をそっとつかむ。
ひやりとした指先が、すぐに体温を取り戻す。
指と指を重ねる。
恋人たちの手のつなぎ方には、ほど遠い。
でも、それでも。
「けんたろうちゃん」
名前を呼ばれるたび、胸の奥がきゅっと縮む。
「私も、本当はね……ずっと触れていたいの。
いつまでも、こうしていたい」
重ねた指に、少しだけ力がこもる。
「でも、今はダメなの。
見られたら困る人たちが、たくさんいるから」
視線が、公園の外側を一瞬だけ探る。
街路樹、マンションの窓、歩道。
何もないはずなのに、全部が監視カメラみたいに思えてしまうのだろう。
けんたろうは、唇を噛んだ。
言いたいことが喉元までせり上がっては、そこで引き返していく。
(僕だって……)
言いたいことは山ほどある。
『僕もバンドを始めたんだ』
『あなたを追いかけるために、キーボードを弾いてるんだ』
喉まで出かかった言葉を、僕は飲み込む。
まだだ。
まだ言えない。
素人の遊び?
趣味の延長?
そんな風に聞こえるんじゃないか。
「私も、ずっと考えてるよ」
けいとの声が、思考のざわめきをなだめるみたいに落ちてくる。
「けんたろうちゃんのこと。
ステージの上でも、ふとした移動の車の中でも」
「だから……負けないで」
「……うん」
いつの間にか、重ねた指先から力が抜けていた。
代わりに、彼女の左手が、そっとけんたろうの髪に触れる。
くしゃ、と。
子どもみたいな撫で方。
懐かしい手つき。
「いつかまた、笑い合える日まで」
指先が、髪から離れていく。
「それぞれの場所で、全力でがんばろう」
もう一度、そう言ったときには、彼女は一歩、後ろに下がっていた。
街灯の輪から、少しだけ外に出る。
表情が、暗がりに溶ける。
「……うん」
それでも、けんたろうはうなずくしかなかった。
手を伸ばせば、また指先は届くかもしれない。
でも、その先の腕までは、きっと届かない。
「じゃあね、けんたろうちゃん」
けいとは、振り返らないまま、片手だけをひらりと振った。
そのまま、公園の出口へと歩いていく。
細い背中が、街灯の明かりの外に消える。
残されたのは、夜風と、自分の呼吸音だけ。
握っていた右手を、そっと開いてみる。
さっきまで重なっていたはずの指先の感触を、確かめるみたいに。
ほんの一瞬。
重なったのに、今はもう、何もない。
Synaptic Driveとして、進むしかない。
まだ先が見えない。
空を見上げる。
さっきよりも、ずっと暗い。
星はまだ出ていない。




