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vol.4 売り出せない?売り出さなければ良いんだよ!

【現在・翌朝】


 翌朝。

 通学電車の窓を、同じようなマンションが流れていく。

 いつもどおりの満員電車。

 いつもどおりの、退屈な匂い。

 梓は吊り革につかまりながら、なんとなくスマホの画面を滑らせていた。


 指先が止まったのは、一つの音楽ニュースだった。


『新人バンド「Synaptic Drive」、デビューライブで大反響!』

『謎のシルエット・キーボーディスト「けんたろう」に注目集まる』


「へえ……」


 Synaptic Drive。

 昨日から、SNSで少しずつ名前を見かけるようになったバンドだ。


 Midnight Verdictと同じ、ユーロビート。

 ユージというボーカルの挑発的な写真。

 デビュー曲『BABY I WANT U』に熱狂する観客。

 記事の端には、照明の中にシルエットだけを浮かび上がらせたキーボーディストがいた。


 面白そう。

 最初は、純粋にそう思った。

 記事を下へ送る。

 メンバー紹介。


『Key/Producer:けんたろう』


 梓の指が止まった。


「……え?」

 小さな声が漏れた。


 隣に立っていたサラリーマンが怪訝そうな顔をしたが、気にする余裕はなかった。

 けんたろう。

 キーボード。

 記事に載っているシルエットの指と、昨夜の公園で、けいとの指に触れていた手が重なる。


 教室の窓際で、いつも眠そうにしている男の子。

 けいとが「けんたろうちゃん」と呼んでいた、あの同級生。


(まさか……)


 背筋が粟立った。

 あの地味で目立たない高校生が、今話題になり始めている新人バンドのキーボーディストなのか。

 しかも、曲を作っているプロデューサーでもある。


(じゃあ、けいとさんが付き合っているのって……)


 昨夜の光景が、脳裏によみがえる。

 甘い声。

 重なった指先。

 髪を撫でる、優しい手。

 二人が恋人同士であることは、もうごまかしようがなかった。

 それでも梓は、どこかで認めたくなかった。

 大型ビジョンの向こうにいる憧れの人が、自分の知らない誰か一人だけに、あんな顔を見せていることを。


 けれど、秘密はそれだけではなかった。

 けいとの恋人は、ただの地味な高校生ではない。

 Midnight Verdictと同じ音楽で、これから追いかけようとしている新人バンドの中心人物だった。


(私、何を知っちゃったんだろう……)


 二人の恋愛。

 顔を隠したキーボーディストの正体。

 公園の暗がりと、スマホの中の記事が、同じ指先によってつながってしまった。


 電車の揺れが、心臓の鼓動と重なる。

 梓はスマホの画面を消した。

 黒くなった画面に映る自分の顔が、青ざめているのか、興奮しているのか、自分でもわからなかった。


 ♪ ♪ ♪


【ネット民の反応】

「Synaptic Driveの『BABY I WANT U』、めちゃくちゃいいじゃん!」

「Midnight Verdictとは違う、硬派なユーロビートって感じ」

「ミドヴァが華やかで、シナドラは速くて熱い。ちゃんと住み分けできそう」

「まだライブハウスに出てきたばかりの新人でしょ。持ち上げるの早すぎ」

「Midnight Verdictがいる時点で、ユーロビート枠は埋まってる感ある」

「格が違いすぎる。あっちは社会現象、こっちはぽっと出」

「でも、シナドラの曲なら追いつくかもよ?」

「シルエット商法とかダサすぎて草」

「いや、待って。曲はマジで良くない?」

「は?耳腐ってんの?」

「どうせステマだろ。事務所の自演乙」

「俺、現場にいたけど、これはガチ。あの曲が始まった瞬間、空気が変わった」


 ♪ ♪ ♪


 梓はまだ知らない。

 いま画面の中にいる「謎のキーボーディスト」が、華々しい計画から生まれたわけではないことを。

 それは、金も、コネも、ほかの選択肢もない部屋で決まった。


【数か月前・Rogue Sound】


 Synaptic Driveが、まだ名前すら持たなかった頃。

 雑居ビルの三階。

 むき出しのコンクリートに囲まれた一室。

 弱小レーベル『Rogue Sound』の簡素な事務所。


 革張りの椅子が、ギシリと悲鳴を上げた。

 そこに深く沈み込んだ社長が、困ったような顔で僕たちを見ている。


「いやあ……」


 社長は、深く息を吐いた。


「けんたろうくんの音楽は、本当に素晴らしい」

 その声が、少しだけ震えていた。


「こんな才能が埋もれているなんて、犯罪的だ。

 世に出したい。

 絶対に出したいんだが……」


 社長の視線が泳ぐ。

 壁のシミ。

 剥がれかけたポスター。

 骨董品のようなミキサー卓。

 ここにあるのは情熱だけ。


「正直に言おう。

 金がない」


 直球だった。


 僕とユージ、綾音さんは顔を見合わせた。


「大手のようなプロモーションは打てない。

 コネもない。

 さらに致命的なのが……」


 社長の視線が、僕に止まる。


「けんたろうくん。

 君の事情だ」


 続く言葉がわかった瞬間、膝の上に置いていた指が固くなった。


「高校生で、家庭の事情から顔出しはできない。

 顔を出せない新人を、金のない弱小レーベルがどうやって売る?

 SNSの時代だぞ。

 顔とキャラクターまで売ってなんぼの世界で、武器を一つ捨てて戦うようなものだ」


 僕は顔を伏せた。

 家庭の事情。

 その言葉だけで、胸の奥に触れられたくない場所が軋んだ。

 けれど、顔を出したくない理由は、それだけではなかった。


 もし僕の顔が世間に知られたら、学校も、普段歩いている場所も、きっと見つけられてしまう。

 そのあとで、けいとさんと一緒にいるところを誰かに見られたら。

 僕だけの問題では済まない。

 けいとさんまで、好き勝手に何かを書かれるかもしれない。

 Midnight Verdictの活動にまで、迷惑をかけてしまうかもしれない。

 それだけは嫌だった。


 ユージだけが、横目で僕の手を見ていた。

 重い沈黙が落ちる。

 換気扇の回る音だけが、狭い部屋に響いていた。

 僕の作った音楽が、世に出る前に消えていく。

 そんな音がした気がした。


「売り出せない?」


 空気を切り裂いたのは、ユージの軽い声だった。

 社長が目を丸くする。

 僕も綾音さんも、ユージを見た。

 ユージは安っぽいパイプ椅子にふんぞり返り、ニヤリと笑っている。


「だったら、売り出さなければ良いんすよ!」


「……何?」


「けんたろう本人を、売り出さなきゃいい。

 顔じゃなくて、音楽だけを先に売るんすよ」


 ユージが、指を一本立てた。


「今の奴らって、何でもかんでも情報を食いすぎて、すぐ腹いっぱいになるでしょ?

 最初から全部見せたら、三秒で飽きられる」


「それで、どうするんだ?」


「隠すんすよ」


 ユージの笑みが深くなる。


「見えないものは、見たくなる。

 それが人間の性ってもんでしょ?」


 僕を守るための提案だった。

 僕の顔が知られなければ、けいとさんとの関係も知られずに済む。

 音楽を続けても、彼女へ迷惑をかけなくて済む。

 その一方で、僕と世界の間へ幕を下ろす提案にも聞こえた。


 綾音さんが顔を上げる。


「それです!」


 彼女はすぐに手帳を開いた。


「社長、逆転の発想です。

 顔が出せないんじゃありません。

 出さないんです」


 綾音さんの声に、熱が加わっていく。


「ライブでは、照明を使ってシルエットだけを見せます。

 プロフィールも必要以上に明かさない。

 顔ではなく、曲を聴いてもらうんです」


「シルエットで……?」


 社長は眉をひそめた。


「そんな漫画みたいな話で、本当に客がつくのか?」


「つけます」

 綾音さんは断言した。


 そこに数字も、前例もなかった。

 それでも、彼女の声は少しも揺れなかった。


「けんたろうくんの曲には、その力があります。

 一度聴けば、正体を知りたくなる。

 隠せば隠すほど、次の曲を聴きたくなるように仕掛けます」


 社長は僕を見た。

 今度は、その視線をほかの誰かへ移さなかった。


「けんたろうくん」


「はい」


「君は、それでいいのか?」


 ユージも、綾音さんも何も言わない。

 顔を隠すのは、僕だ。

 だけど、彼女を守りたい気持ちと、彼女に見つけてほしい願いは、同じ方向を向いていなかった。


「……それでも、やるか?」


「はい」


 迷いが消えたわけではなかった。

 けれど、言い直さなかった。


「僕は、曲で見つけてもらいたいです」


 口にした瞬間、胸の奥で、何かが閉じる音がした。

 ユージの口元が上がる。

 綾音さんは、手帳を握る指に力を込めた。

 社長は僕を見たまま、しばらく黙っていた。

 やがて、机を強く叩く。

 乾いた音が響いた。


「……面白い」


 社長の顔から、迷いが消えていた。


「どうせ失うものなんてない貧乏所帯だ。

 全部賭けてやるよ。

 その『謎』とやらにな」


 それは経営者の顔というより、ギャンブラーの顔だった。


「綾音くん、やろう。

 これがコケたら、俺たち全員、路頭に迷うだけだ。

 上等じゃないか」


「必ず成功させます」


 綾音さんは強くうなずくと、もう次のページにペンを走らせていた。

 ユージが僕の肩を抱き寄せ、そのまま強く叩いた。

 痛かった。

 でも、その痛みが、いま下した決断は現実なのだと教えてくれた。


「始まるな、けんたろう」


「うん」


「俺たちの音で、やってやろうぜ」


「うん、絶対に」


 僕たちの無謀な賭け。

 正体を隠したまま、世界へ叩きつける挑戦状。

 あの夜の熱狂は、この古びた事務所の、ほとんどヤケクソのような決断から生まれた。


 僕は窓の外を見た。

 雑居ビルの隙間から見える空は、ひどく狭かった。

 それでも、その向こうには、けいとさんのいる世界が広がっている。


(見てて、けいとさん)


 けいとさんに迷惑をかけるくらいなら、僕はシルエットのままでいい。

 そう決めたはずなのに、胸の奥から別の願いは消えてくれなかった。

 僕だと、気づいてほしい。


(シルエットの中から、世界をひっくり返してやる)


(必ず……その場所に追いついてみせるからね)

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