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vol.2 誰にも言えない秘密

 駅前の大型ビジョンに、けいとの顔が映った瞬間、人の流れがわずかに滞った。

 制服のリボンを緩めた女子高生も、部活帰りのジャージ姿も、足早に歩いていたスーツの群れも、つられるように顔を上げる。

 その人波の中に、ごく普通の高校生、佐藤梓(さとう あずさ)がいた。


 四つ打ちのキックが駅前広場を揺らし、鋭いシンセの音が都会のざわめきを押しのけていく。

 力強くて、気持ちが浮き立つのに、胸の奥を引っかくような切なさが残るメロディ。

 梓の足は、いつの間にか止まっていた。


 画面の中で演奏しているのは、メジャーデビューと同時に注目を集めた六人組ガールズユーロビートバンド、『Midnight Verdict(ミッドナイト・ヴァーディクト)』。

 なかでも梓の視線を奪ったのは、キーボードを奏でるリーダー、けいとだった。


 長い黒髪が照明を受け、肩から背中へ流れている。

 身体を飾り立てるような動きはない。

 それでも、鍵盤の上を走る指先だけで、ステージの空気を支配していた。


 表情はほとんど変わらない。

 近寄りがたいほど冷たいのに、その瞳の奥だけで、青白い炎が燃えている。

 細い指が鍵盤へ落ちるたび、きらびやかな音が幾重にも広がった。


「かっこいいお姉さんだなあ……」


 梓は鞄を持っていないほうの手を、そっと動かした。

 見えない鍵盤をなぞるように、指先が音を追いかけている。


「私もいつか、あんな人になれたらいいな」


 近くにいた女子高生たちが、けいとの髪形や衣装について楽しそうに話している。

 大型ビジョンの下には、全国ツアーの追加公演決定を知らせる文字が流れていた。

 年齢も服装も違う人たちが、同じ画面を見上げている。


 梓はスマホを取り出し、『Midnight Verdict』の名前を検索した。

 無数に並んだ投稿の中で、けいとの名前と画像が何度も流れていく。

 遠い世界の人なのだと思うと、胸が少しだけ苦しくなった。


 それでも、梓の指は画面の中の音を追い続けていた。


 やがてライブ映像が終わり、駅前に日常のざわめきが戻ってくる。

 梓は名残惜しそうに大型ビジョンを振り返り、人の波の中へ歩き出した。


 梓はまだ知らない。

 画面の中の女性を追いかけ、誰にも顔を見せないまま最初の音を鳴らした少年が、同じ街にいることを。


 ♪ ♪ ♪


 その頃、僕は都内の小さなライブハウスの楽屋にいた。

 開演前の張り詰めた空気は消え、汗とアンプの熱だけが狭い部屋に残っている。

 ユージは肩で息をしながら、タオルで乱暴に汗を拭っていた。

 僕はサングラスを外し、まだ耳の奥に残っている歓声を聞いていた。


「ハァ……ハァ……やったな、けんたろう!」


 ユージが、僕の肩を勢いよく叩く。

 さっきまでステージで観客を煽っていた熱が、そのまま身体に残っているみたいだった。


「うん……届いたんだね。

 僕たちの音」


 そう答えてみても、まだ自分のこととは思えなかった。

 スマホを伏せた女の子。

 四つ打ちに合わせて動き始めた男のつま先。

 曲が終わったあと、いくつも突き上がった拳。

 あの景色を、僕たちの音楽が作った。


 二人を担当するマネージャーの綾音さんは、タオルと手帳を抱えて立っていた。

 目の端が少しだけ濡れている。

 それでも、声はマネージャーのものだった。


「二人とも、お疲れさまでした。

 今日の動員は、決して多くありません。

 でも、途中で帰ったお客さんは一人もいませんでした。

 会場の方からも、次のライブについて相談したいと言われています」


「ほら見ろ。

 俺たちの音楽が、ちゃんと届いたんだ」


 ユージが得意げに胸を張る。

 綾音さんは手帳を閉じると、そこで初めて柔らかく笑った。


「ユージくん、けんたろうくん。

 本当に、素晴らしかったです。

 私、あんなふうに会場の空気が変わるところを、初めて見ました」


「だろ?」


 ユージの声が、弾んでいる。

 僕も嬉しい。

 嬉しいはずだった。


 それなのに、歓声が消えたあとの胸には、何もない場所が残っていた。


 あの客席に、けいとさんはいない。

 僕たちの音を聴いて笑ったのか、呆れたのか、それとも相手にもしなかったのか。


 学校では、誰も知らない。

 僕が『Synaptic Drive』の音楽を作り、顔を隠して鍵盤を弾いていることを。

 けいとさんにも、まだ言えない。

 言えるわけがない。

 追いつくと決めた相手に、ようやくスタートラインへ立っただけだとは、どうしても伝えられなかった。


「おい、けんたろう」


 ユージが、僕の顔を覗き込む。

 ほんのわずかな揺れも見逃さない、いやなほど頼りになる兄貴分だ。


「これだけの客をひっくり返して、まだ一人足りねえって顔してんな」


「……うん」


「欲張りな奴だな」


「でも、けいとさんに届かなかったら、僕が音楽を始めた意味がないから」


 ユージの笑みが消えた。

 怒ったわけではない。

 僕の言葉の重さを、確かめるような顔だった。


「けんたろう」


「なに?」


「お前は俺の相棒だ」


「うん」


「いや、違うな。

 相棒なんて軽い言葉じゃ足りねえ」


 ユージは僕の目をまっすぐに見た。


「お前は、俺のブラザーだ」


 ブラザー。

 軽口みたいなのに、妙に重く響く。

 厄介で、離れがたい言葉だった。


「……ユージ」


 綾音さんが、手帳を胸元で抱え直した。

 何も言わず、僕たちを見守っている。


「何があっても、俺がお前を守る。

 だからお前は、好きな音を作れ。

 最高のユーロビートで、あいつらのいる場所まで駆け上がるぞ」


「……うん」


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。

 それでも、歓声では埋まらなかった場所は残っている。


 ユージが守ってくれる。

 そう思うと、僕にはまだ、音楽へ差し出せるものがあるような気がした。

 それを少しも怖いと思わなかった。


 そのときだった。

 制服のポケットで、スマホが震えた。


 取り出した画面に浮かんだ名前を見て、呼吸が止まりかける。


 送信者は『けいと』。


 楽屋の音が遠のいた。

 隣から画面を覗き込んだユージが、口角を上げる。


 届いたメッセージは、たった一言だけだった。

『いつもの場所で20時に』


 距離を置こうと言った人が、自分からいつもの場所を指定している。

 理由も、感情も、そこには書かれていない。


 ユージは顔を出し、僕の名前までステージで叫んだ。

 もう、バレちゃったんだろうか。


 それでも、けいとさんにだけは、自分の口から言えなかった。


 期待と不安が、あの日のクリームソーダみたいに、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。


 画面を見つめたまま動けない僕へ、ユージが言った。


「上等じゃねえか。

 行ってこい、けんたろう!」

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