第96話 なくてはならないもの
休日の朝は、いつもよりゆっくりと過ぎていく。
すずなはキッチンで紅茶を淹れながら、隣の部屋から聞こえてくる紬の鼻歌に耳を傾けていた。特に意味のあるメロディーではなく、機嫌のいい時に無意識に漏れる、いつもの調子だ。
「すずな今日ってお昼、何にしましょうか」
紬がひょっこりとキッチンに顔を出した。寝癖のついた髪を、片手で軽く撫でつけている。
「うーん、何がいいでしょう」
「私、パンケーキの気分です」
「じゃあ、それにしましょうか」
すずなはそう答えながら、紅茶のカップを二つテーブルに並べた。何でもないいつも通りのやり取り、それなのに、こうして紬の声を聞いているだけで胸の奥がじんわりと温かい。
思えばこの一年で、多くのものが変わった。異世界に来たこと、試練を乗り越えたこと、冒険者として生きること。それでも、変わらなかったものが一つだけあった。
紬が隣にいるということ。
朝起きて、紬の顔を見る。何気ない会話をする。一緒に食事をとる。ただそれだけのことが、今では、すずなの生活の中心になっていた。
ふと、日本にいた頃のことを思い出す。
毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じ職場で働き、丁寧すぎるほど丁寧に周りに気を遣いながら過ごしていた日々。取り柄なんて特にない、と自分では思っていた。両親もいない中で、ただ静かに、決められたレールの上を歩いているような感覚だった。
もし迷子になった紬に出会っていなかったら。もし異世界に来ていなかったら。
今頃、自分は何をしていたのだろう。紅茶の湯気をぼんやりと目で追いながら、すずなはそんなことを考えていた。
「すずな、どうかしました?」
紬がテーブルの向かいから、こちらを覗き込んでいた。
「いえ、何でもないです」
すずなはそう答えながら、小さく首を振った。
「ちょっと昔のことを思い出していただけです」
「昔のこと?」
「もし紬に出会っていなかったら、私はどうなっていたのかなと思っていました」
すずながそう呟くと、紬は少し驚いたように目を見開いた。
「そんなこと考えてたんですか」
紬は少し困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「はい。紬がいなかったら、私、今もあのアパートで一人で本を読んでいたのかもしれません」
「すずな」
テーブルを回り込んで、すずなの隣に腰を下ろす。
「私、実は最近よく思うんです。すずなって出会った頃より、笑うようになったなって」
紬がふと、そう漏らした。
「私が、ですか」
すずなは思わず自分の頬に手をやった。そんな風に見られているとは、考えたこともなかった。
「はい。最初の頃、すずなが笑うと、すぐにいつもの表情に戻ってました。まるで、笑ったことを誰かに謝るみたいに」
紬の言葉に、すずなは息を呑んだ。心当たりがありすぎて、うまく言葉が出てこない。
「今は、違います。笑った顔のまま、しばらくそのままでいてくれます。それが、私、結構好きなんです」
紬の観察眼の鋭さに、すずなはただ驚くばかりだった。自分でも気づいていなかった変化をこんなにも具体的に見抜かれていたことが、少し恥ずかしくもあり、同時に不思議と嬉しくもあった。
「そう、だったんですね。全然、気づいてませんでした」
「でしょうね。先輩、自分のことにはいつも鈍いので」
紬がくすりと笑った。
「だから私、すずなに出会えて良かったって、ずっと思ってます」
「私もです」
そう答えながら、紬の手にそっと自分の手を重ねた。
「この一年で、色んなことがありましたけど、紬が隣にいてくれたから、乗り越えられたんだと思います」
「すずな……」
紬の目がわずかに潤んだ。
「今の私にとって、紬はもうなくてはならない存在になっています」
すずなはその言葉を、静かに、けれどはっきりと口にした。
紬はしばらく何も言わず、それからふっと小さく息を吐いて、少しだけ困ったように笑った。
「そんなの、とっくに知ってました」
紬はそう言うと、すずなの手を両手でぎゅっと包み込んだ。
「でも、ちゃんと言葉にしてもらえると、やっぱり違いますね」
窓の外から差し込む朝の光が、二人を柔らかく照らしていた。淹れたての紅茶の香りがまだ部屋に漂う中、すずなは重ねられた手のひらの温もりを、もう少しだけそのまま感じていたかった。
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