第8話 ひとつの布団と危ない依頼
木曜の夜、すずなはリビングのテーブルに広げた荷物を前に手を止めた。
着替え、常備薬、タオル。必要なものはもう揃っている。それなのに何度も確認してしまう。忘れ物がないか、というより――どこか落ち着かなかった。
明日の夜には、また、あの世界に行く。
窓の外を見ながら、すずなは自分の胸の内側をそっと確かめてみた。緊張というのとは少し違う。不安というのとも違う気がする。
これもしかして楽しみにしているというやつなのだろうか。
すずなはしばらくその感覚に戸惑っていた。誰かとどこかへ行くことをこんなに待ち遠しく思ったのはいつ以来だろう。思い出そうとしても、はっきりとは出てこない。
スマホが震えた。紬からのメッセージだった。
『明日、駅前で待ち合わせでいいですか?楽しみです!』
すずなは少し口元を緩めて、返信を打った。
『はい。大丈夫です。私も楽しみにしています』
送ってから自分の言葉を見返して少し驚いた。楽しみにしていると自分で書いた。
その事実にまだ慣れないまま、すずなは荷物を鞄に詰め終えた。
金曜の夜、駅前のロータリーですずなは紬と待ち合わせた。今日も紬の車で現地に向かう。
助手席に乗り込むと、すずなは少し改まった調子で切り出した。
「あの……ガソリン代とか、私が出しますよ。紬さんが運転してくれてるのに」
「いや、大丈夫ですよ。このくらい」
「駄目です。出します」
「先輩、本当にいいので」
「駄目です」
すずなが珍しく引かない様子を見せると、紬は少し困ったように笑った。
「じゃあ半分だけ……」
「受け取ってください」
すずなはそう言って、財布から紙幣を取り出し紬の手に押し付けるように渡した。紬はそれを受け取りながら、なんだか嬉しそうにハンドルを握った。
車は夜の道を走り出した。
金曜の夜、二人は予定通り異世界へと渡った。今回は二回目。
紬が予約していた宿は、街の中心からほど近い小さな宿屋だった。木の温もりが感じられる古びているけれど清潔な部屋。カウンターで受付を済ませ、案内された部屋の扉を開けたとき、すずなは小さく息を呑んだ。
ベッドが一つしかなかった。
「あの、紬さん」
「え……ベッドが二つの部屋を、予約したんですが」
紬は少し慌てた様子で、部屋の中を見回した。
「聞いてきます」
そう言って、紬はフロントへ向かった。少しして困った顔で戻ってくる。
「すみません、もう部屋の空きはないみたいです」
「そうなんですね……」
「宿の人の手違いだったみたいで。今日はもう他に空いてる部屋もないそうです」
「あ、今日はもう遅いので、私、床で寝ますから」
「それは駄目です。私が床で」
「いえいえ、先輩がベッドで」
互いに譲り合った結果、結局、二人で一つのベッドを使うことになった。すずなは端に寄って、なるべく紬の邪魔にならないようにと小さく体を縮めた。
「おやすみなさい、紬さん」
「おやすみなさい、先輩」
照明の魔術具を切り、部屋が暗くなった。
しばらく静かな時間が流れた。すずなは慣れない環境のせいか、なかなか寝付けなかった。
「……先輩、まだ起きてますか」
暗闇の中、紬の声がした。
「はい、起きてます」
「なんか、変な感じですね。先輩と同じベッドで寝るの」
「そうですね。……緊張しますね」
「私はあんまり」
紬の声は、いつもより少しだけ小さかった。
「先輩の隣、落ち着くので」
すずなはその言葉になんと返せばいいか分からなかった。ただ、暗闇の中で隣にある温もりを少しだけ意識してしまった。
「そう、なんですか」
「はい」
それきり会話は途切れた。紬の呼吸が少しずつ規則正しくなっていく。
その寝息を聞きながら、すずなは無意識に、紬の頭をそっと撫でた。
(ひゃんっ!先輩が私の頭を撫でてるぅ!)
紬は、声にならない悲鳴を上げながら一気に覚醒した。心臓が跳ね上がる。
すずなの手は、しばらく紬の頭の上にあったが、やがて、ゆっくりと離れていった。眠りに落ちる直前の無意識の仕草だったらしい。
しばらくして隣からは、すずなの規則正しい寝息が聞こえ始めた。紬はその寝息を聞きながら、緊張でなかなか寝付けなくなってしまった。
朝、目を覚ましたとき、すずなは隣に紬の温もりを感じて目を開けた。夜中のうちにいつの間にかぴったりと隣に寝ていたらしい。
「紬さん、あの……」
「……ん、おはようございます」
紬は寝ぼけた声で、まったく悪びれずに答えた。
「あの、ベッド、端に寄ってたはずなんですが」
「寝相、悪いんです。私」
その言い訳は、昨夜の「宿の手違い」と微妙に噛み合っていなかった。すずなは少し不思議に思いながらも、それ以上は追及しなかった。
「そうなんですね」
「そうなんです」
紬はあくびを一つして伸びをした。すずなはその様子を見ながら、なんとなく今日も朝から騙されている気がしたが、深く考えないことにした。
朝食を済ませた後、二人はギルドに向かい掲示板から一つの依頼を選んだ。近くの森で荷運びの馬車を襲う小型の魔獣を追い払うという内容だった。
「そんなに強くないはずです。数が多いだけで」
「分かりました。気をつけます」
森に入ると、紬はすぐにすずなの手を取った。
「紬さん?」
「危ないので。手、繋いでてください」
「今のところ、そんなに危険な感じはしないですけど」
「油断は禁物です」
森の中は確かに足場が悪かったが、それを差し引いても紬の警戒具合は少し過剰だった。すずなは繋がれた手を見下ろしながら、素直にその手を握り返した。
「はい、分かりました」
紬は一瞬、動きを止めた。それから握られた手に少しだけ力を込め返した。
「先輩、危ないところ他にもあると思うので」
「そうなんですか」
「はい、いっぱい」
実際には依頼はごく単純なもので、小さな犬のような魔獣を数匹、追い払うだけで終わった。危険らしい危険は一度もなかった。それでも紬は、道中ずっとすずなの手を離さなかった。
依頼を終えて森を出るとき、すずなはふと尋ねた。
「紬さん、今日危ないところ無かった気がするんですけど」
「え、そうでしたっけ」
「はい、特には」
「気のせいです」
その返事は、昨日の宿の件と同じ響きをしていた。すずなは少しだけ笑ってしまった。
「紬さんはそういう気のせいが多いですね」
「先輩の気のせいです」
繋いだ手はそのまま街に戻るまで離れなかった。




