第86話 クロノ・トレース
その時だった。
「呼んだか」
資料室の奥、本棚の隙間からひょっこりと一人の男が顔を出した。癖のある銀髪、片眼鏡、白衣のような装束。すずなたちは驚いて振り返った。
「レインいたのか」
シェイラが驚いたようにそう言った。
「時空の揺らぎを感じてな。誰かが古い記憶に触れようとしていた。その波紋を辿ってきた」
「波紋……ですか」
紬が戸惑いながらそう聞き返した。
「うむ。時間軸というのは、常に微細な振動を伴っていてな。誰かが過去の記憶を探ろうとすると、その周辺の時空に僅かな歪みが生じる。私はその歪みを常時観測しているわけだが、今回の波形は特に興味深いパターンを描いていた。振幅の減衰速度から逆算するに、対象となる記憶は数十年単位、あるいはそれ以上前のものと推測される。加えて、記憶保持者本人の意識下で強い抑制がかかっている場合、通常の想起プロセスでは表層に浮上せず、結果として周辺の時空構造にまで影響を及ぼすことがある。これは、記憶そのものが情報として存在しているにもかかわらず、意識のアクセス経路が何らかの理由で遮断されている状態を示唆していて、私の見立てでは、その原因は単純な忘却ではなく、むしろ本人が無意識のうちに思い出すことを拒んでいる、心理的な防衛機制に近い現象である可能性が……」
「あの、すみません」
紬が口を挟んだ。
「なんだ」
「えっと……つまり、どういうことですか」
紬はすっかり置いていかれた顔をしていた。
「エルフィの誕生日を探していただろう、という話だ」
シェイラが代わりにそう要約した。
「あ、はい。そうです」
「なぜ先にそう言わない」
紬がそう突っ込んだ。
「よかろう。時空魔法で記憶の残滓を辿ってみせよう」
レインはそう言いながら片眼鏡を軽く押し上げた。
「本当ですか」
心春の声にも期待が滲んでいた。
「エルフィ本人の記憶ではなく、エルフィに関わった周辺の時空情報を読み取る方式だ。本人の記憶に直接アクセスするよりも精度は落ちるが、逆に本人が忘れていても情報は残っている可能性がある。というのも、記憶というのは個人の脳内にのみ保存されるものではなくてな。ある事象が発生した瞬間、その周辺の時空そのものにも、微弱ながら痕跡が刻まれる。これを時空残滓と呼んでいて、私の理論では、誕生を祝った、あるいは記録した何らかの事象があったのであれば、その瞬間の情報は本人の記憶とは独立して、時空の側にも保存されている可能性が高い。つまり、本人がどれだけ忘却していようと、事象そのものが起きた以上、痕跡は消えていないはずだという理屈だ。無論、これはあくまで理論上の話であって、実際に有効なデータを引き出せるかどうかは、対象となる時空残滓の劣化具合や、周辺の魔力濃度、さらには私自身の集中力にも左右されるため、確実に成功するとは言い切れないのだが……」
「あの、要するに」
紬がたまりかねたようにそう遮った。
「やってみないと分からない、ということですね」
「端的に言えば、そうだ」
レインは軽く頷いた。
「よし、始めるとしよう」
レインはそう言いながら床に向かって手をかざした。
次の瞬間、足元に淡い光の線が走り精緻な魔法陣が広がっていった。文字盤のような目盛りと、幾重にも重なる同心円。まるで巨大な時計のような紋様が、資料室の床一面に浮かび上がる。
「これは……」
すずなが息を呑んだ。
「時空魔法、Chrono Trace」
レインが静かにそう唱えた。
魔法陣の中心が淡く輝き、光の粒子がゆっくりと渦を巻き始める。三人はその神秘的な光景に、しばらく言葉を失っていた。
「シェイラ、お前もエルフィとの記憶を思い浮かべてくれ。共有された記憶があるほど、精度が上がる」
「分かった」
シェイラも静かに目を閉じ、魔法陣に手を添えた。
光の粒子が次第に一点へと集まっていく。まるで時間そのものを逆流させるような、不思議な感覚だった。
しばらくして、魔法陣の輝きがふっと落ち着いた。
「出た」
レインがそう呟いた。
「見つかったんですか」
紬が身を乗り出した。
「ああ。古い記録の断片から日付らしきものを抽出できた」
レインはそう言いながら宙に浮かぶ光の文字を指差した。
「エルフィの誕生日は、これだ」
「五日後……?」
すずなが声を上げた。
「随分と近いですね」
紬も驚いたようにそう言った。
「間違いないんですか」
心春が念のためそう確認した。
「時空残滓から抽出した情報だ。信頼度はそこそこ高い」
「そこそこ……」
「まあ、九割方は合っているだろう」
レインはあっさりとそう言った。
「五日後……準備、間に合いますかね」
紬が焦ったようにそう呟いた。
「急いで色々考えないと」
すずなも頭の中で慌ただしく計画を立て始めていた。
「教えていただいて本当にありがとうございました」
心春がレインとシェイラに向かって深く頭を下げた。
「役に立てたなら何よりだ」
シェイラが静かにそう答えた。
「今度また面白い時空現象があれば、教えてくれ」
レインはそう言って、ひらひらと手を振った。
「その時は、ぜひ!」
すずなはそう返しながらも、頭の中は既に五日後の準備でいっぱいだった。
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