第72話 二年ぶりの再会
その日の夜、宿の食堂で四人は改めて食事を共にした。話が一段落した頃、すずなはそっと切り出した。
「心春さん。あの」
「はい」
「実は明日、日本に行こうと思っています」
心春の表情が一瞬で変わった。
「日本ですか」
「はい。もし良かったら」
すずなは少し言葉を選びながら続けた。
「お父様に会いに一緒に行きませんか」
その言葉に心春は、しばらく動けなくなった。目にじわりと涙が浮かんでくる。それと同時に、胸の奥で何かがぎゅっと締めつけられるのを感じた。会いたい。ずっとそう思ってきた。それなのに、いざその機会を差し出された瞬間、体が竦むような感覚があった。
「私……本当に行ってもいいんですか」
「もちろんです。心春さんがお父様に会いたいなら」
「行きたいです。ずっと会いたかった」
心春の声は震えていた。二年間ずっと心の奥にしまい込んでいた想いが、一気に溢れ出してくるようだった。それでも言葉にしたそばから、別の感情が追いかけてくる。
「でも……」
心春は少し不安そうに視線を落とした。
「私、こんな姿で。ちゃんと会えるんでしょうか」
その一言には、いくつもの意味が重なっていた。二年間、家族に何も告げず消えていた自分。父を心配させ続けた自分。そして何より、あの頃とは違う場所で戦い方を覚えてしまった自分。父の記憶の中にいる娘と、今ここにいる自分との間に、埋めがたい溝があるのではないか——そんな不安が、心春の中で渦を巻いていた。
「お父様は心春さんが元気でいることだけを願ってらっしゃいました。きっと分かってくださいます」
すずなが優しくそう伝えると、心春は小さく頷いた。それでも胸のざわめきは、簡単には収まってくれなかった。
「はい……頑張って、会いに行きます」
その隣で紬がそっと心春の肩に手を添えた。
「私たち、ずっと隣にいますから」
「ありがとうございます」
心春は涙を拭いながら精一杯の笑顔を見せた。だがその笑顔の下には、まだ言葉にできない不安が幾重にも折り畳まれたまま残っていた。
その様子を少し離れた場所からエルフィが静かに見守っていた。
「良い顔をしとる」
エルフィのその小さな呟きは、誰にも拾われなかった。
翌朝出発の前、心春は少し落ち着かない様子で荷物を整えていた。手にした荷物を何度も入れ直し、結局同じ形に戻してしまう。それを繰り返していることに自分でもまだ気づいていなかった。
「心春さん、何か手伝えることありますか」
すずなが声をかけると、心春は手を止め小さく笑った。
「実はすごく緊張してます。二年ぶりにお父さんに会うんだと思うと」
「無理もないと思います」
「あの、お父さん、私のこと恨んでたりしないでしょうか。突然いなくなって心配ばかりかけて」
心春の声には不安が滲んでいた。
「その心配はいらないと思います。お父様、心春さんのことずっと心配されてました。でも恨んでる様子は全くありませんでした」
すずなが伝えると、心春は少しだけ安堵したように息を吐いた。それでも不安の芯まではまだ溶けきっていなかった。
「そうですよね。お父さん、そういう人だった」
優しすぎる父。だからこそ余計に怖い。恨み言の一つも言われた方が、まだ楽だったのかもしれない。無条件に許されることの重さを心春は今になって初めて実感していた。
「無理に帰ってこなくていいって。ただいつでも待ってるからって。そう伝言、預かってましたから」
「はい……分かってます。でも、いざ会うとなるとやっぱり怖くて」
心春はそう言いながら自分の両手をぎゅっと握りしめた。二年という時間の中で、自分は随分と変わってしまった。剣を握り、傷を負い、この手で戦う術を覚えた。あの頃の自分を知る父の前に、今の自分はどんな顔をして立てばいいのか、心春にはまだ分からなかった。
紬がそっと、その手を包み込んだ。
「一人で会うわけじゃないですよ。私たちもいますから」
「ありがとうございます」
心春は深く息を吸い込んだ。震える吐息の中に、それでも一歩を踏み出す決意が滲んでいた。
「連れて行ってください」
四人はすずなの加護で日本へと渡った。中村さんの家から少し離れた近所の通り沿いに転移する。心春にとっては二年ぶりの日本の土だった。
「懐かしい……」
心春はそう呟きながら周囲の景色をじっと見つめていた。街の匂い、空気の質感、行き交う人々の日本語の会話。すべてがあまりにも当たり前で、それでいて涙が出そうなほど懐かしかった。同時に、その当たり前だったはずの景色が、今はどこか他人の記憶を覗いているような、奇妙な距離感を伴って見えることにも気づいていた。
「あ、あそこの公園。よく遊んだ場所です」
心春は少し先に見える小さな公園を指差した。声には懐かしさと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
「近くまで来たんですね」
すずなが言うと、心春は頷きながらその景色を目に焼き付けるように見つめていた。
「顔色、少し戻ってきましたね」
すずながそっと声をかけた。
「はい……なんか実感が湧いてきました」
心春は目元を拭いながらそう答えた。実感が湧くと同時に、足が竦むような緊張も同じだけ膨らんでいくのを感じていた。
四人はそのまま見慣れた道を歩いて中村さんの家へと向かった。玄関の前に立つと心春の足が止まった。
「緊張しますね」
その声はひどく小さかった。ここまで来て、今さら回れ右をしたい衝動が、胸の奥から突き上げてくる。それでも、ここで逃げたら二度とこの一歩を踏み出せない気がした。
「胸を張って会いに行きましょう。心春さんの味方ですから」
紬がそう励ますと、心春は深く息を吸い込んだ。
「行きます」
心春が震える手でインターホンを押した。
しばらくして扉が開き、中村さんが姿を現した。
「はい、どちら様……」
中村さんの言葉が途中で止まった。目の前に立つ娘の姿をじっと見つめる。
「心春……?」
「お父さん」
心春の声が震えていた。この二年間張り詰めていたものが、その一言で音を立てて崩れていくようだった。
「本当に……心春、なのか」
中村さんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ただいま、お父さん」
その一言で二人は固く抱き合った。二年分の想いが、その瞬間一気に溢れ出していた。父の腕の中で心春はようやく気づいた。この人の前でなら変わってしまった自分のままでいい。恐れていた溝など、最初から存在しなかったのかもしれない。
「良かった……本当に無事で……」
中村さんは心春の背中を何度も何度もさすりながら、そう繰り返した。
「心配かけて、ごめんなさい」
「いいんだ。生きて帰ってきてくれた。それだけで十分だ」
すずな、紬、エルフィは、その光景を少し離れた場所から静かに見守っていた。すずなの目にもじんわりと涙が浮かんでいた。
「先輩」
紬が小さくそう呼びかけた。
「はい」
「良かったですね、本当に」
「はい……本当に」
長い再会の時間が、そこにあった。
しばらくして落ち着きを取り戻すと、中村は改めてすずなたちの方を向いた。
「あの、心春から伺いました。危険な状況に陥っていたところを皆さんに救っていただいたと」
中村はそう言うと深々と頭を下げた。
「本当に本当にありがとうございました。娘の命を救っていただいて」
「そんな、頭を上げてください」
すずなが慌ててそう言っても、中村はしばらく頭を下げたままだった。
「私にとって心春は、たった一人の家族です。あなた方がいなければ、今頃どうなっていたか」
「私たちも心春さんが無事で本当に良かったです」
すずなが答えると隣で紬も頷いた。
「エルフィ様にもあらためて御礼を」
中村さんがそう言うと、エルフィは少し視線を逸らした。
「私は大したことはしてない。全部こいつらのおかげだ」
「そんな、エルフィさんの繋がりがなければ心春さんを見つけることもできませんでした」
すずなが補足すると、中村さんは再び全員に頭を下げた。
「皆さんには本当に感謝しかありません」
その言葉に三人は、それぞれ少し照れくさそうな表情を見せた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。すずなたちなら、こんな時きっと「支えてくれる人がいるから頑張れる」と言うはず。
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