第6話 それでも、また
山道を抜け、駐車場に着く頃には辺りはすっかり暗くなっていた。車に乗り込み、ようやく一息つく二人。ここに来て初めて今日一日の出来事を振り返る余裕が生まれる。
紬は運転しながら探るように切り出した。
「先輩、驚きましたよね色々」
すずなは正直に頷いた。異世界、石碑、鍵、ランク、エルフィ――どれも、これまでの人生になかったものばかりだった。それでも恐怖よりも不思議な高揚感の方が勝っている自分にすずな自身も戸惑っていた。
「驚きましたけど……なんというか、すごい経験をさせてもらったなと」
その言葉に、紬は少しほっとした様子を見せた。ずっと隠していた秘密を打ち明け、巻き込んでしまった負い目のようなものが、ここでようやく緩む。
紬は思い切って尋ねた。
「先輩、また一緒に行ってくれますか」
すずなは迷わず頷いた。
「はい、ぜひ」
その返事に、紬の表情が目に見えて明るくなった。
「じゃあ次はいつにしましょうか。先輩、お仕事のお休み土日ですよね」
「はい。土日なら大丈夫です」
「金曜の夜に向かって、二泊。金曜と土曜、向こうに泊まって日曜のうちに戻ってくる、みたいな感じでどうですか」
「二泊も大丈夫なんですか、費用とか」
「あ、それなんですけど」
紬は少し得意げに続けた。
「日本円、エルフィさんが交換してくれるんです。エルフィさん日本に遊びに行くのに使うらしくて」
「そうなんですか」
「はい。それに、向こうの宿一泊、ある程度良い宿でも日本円にしたら三千円くらいなので。正直こっちのビジネスホテルより、あっちの方がお得です」
「それは驚きですね」
すずなは少し笑った。異世界の物価に驚かされる日が来るとは思ってもみなかった。
車の中では紬がこれまで一人で調べてきた異世界の仕組みを、すずなに説明していく。
「ランクとレベルは別物です。レベルは強さの数値で、ランクは公式に認められた実力の証明。バッジの形で分かります」
「私、まだサークルでしたね」
「はい。依頼をこなすと貢献度が貯まって、五回クリアでダブルサークルに上がります」
「紬さんはもうダブルサークルなんですよね」
「はい、地味な依頼ばっかりでしたけど」
紬は少し照れくさそうに笑った。それから通貨の感覚や、依頼の受け方、危険な場所と安全な場所の見分け方まで丁寧に説明を続けた。すずなは相槌を打ちながら、真剣に耳を傾けていた。
「紬さんは本当に詳しいんですね」
「まあ、数ヶ月一人で通ってたので」
その言葉にすずなはふと考える。一人で、誰にも言わずにあの世界を歩いていた紬のことを。心細さはなかったのだろうか。
「一人で怖くなかったですか」
「最初は、少し」
紬は前を向いたまま静かに答えた。
「でもエルフィさんがいたので」
その一言で、すずなはそれ以上聞かなかった。ただ紬が抱えていたであろう時間の重さを少しだけ想像した。
助手席の窓の外を、夜の街灯が流れていく。すずなはその光を眺めながら、ふと、自分のこれまでの生活を思い出していた。
月曜から金曜まで、すずなの一日はいつも同じ形をしていた。
朝は六時に起きる。身支度を整え、簡単な朝食を摂り七時半には家を出る。電車の中でいつも文庫本を開いている。読み終えた本の数だけ静かな時間が積み重なっていく。
両親はもういない。
父親はすずなが小さい頃に亡くなった。それから母親が一人ですずなを育ててくれた。無理を重ねていたのだろうと今なら分かる。それでも母親は、すずなに辛い顔を見せたことがなかった。高校卒業を目前に控えた頃、母親は静かに息を引き取った。
どれだけ苦労を重ねて自分を育ててくれたのか、すずなには今も全部は分からない。それでも辛い思いをできるだけさせまいとしてくれていたことだけは、はっきりと伝わっていた。すずなは母親に今でも感謝している。
高校を卒業してすぐ、すずなは働き始めた。頼れる相手はいなかったし頼るという発想自体、あまり浮かばなかった。
昼間は事務の仕事をこなし、夜は大学に通った。奨学金と切り詰めた生活費のやりくりで四年かけてなんとか卒業した。特別な武勇伝があるわけではない。ただ毎日をこつこつと積み上げてきただけだった。
高校時代、同級生の男子に告白されたことがあった。生活費のために続けていたアルバイト先でも一度だけそういうことがあった。どちらも丁寧に断った。恋愛というものが、すずなには今も良く分からない。周りからは、よく「偉いね」と言われる。すずな自身はそう思ったことがない。他に選択肢がなかっただけだ、といつも思う。丁寧に生きることだけが自分にできる唯一のことだった。
仕事を終えて帰る道すがら、スーパーで夕食の材料を買う。一人分の量をいつも少しだけ持て余す。家に着けば簡単な食事を作り、洗い物をして風呂に入り、また本を開く。
誰かに寄りかかったことも、寄りかかられたこともあまりない。そういう生活をすずなは不幸だとは思っていなかった。ただ、静かで規則正しくて、それだけの毎日だった。
その毎日に紬が現れたのは、高校時代のことだった。彼女が入学式の日、道に迷っていた紬を見かけ案内した事がきっかけであり、それ以来、紬は妙に懐いてくるようになった。すずなにはその理由が、今も少し分からないままだった。
後輩として出会い、卒業後もなぜか変わらず連絡をくれる。旅行に誘われる度、すずなは少し戸惑いながらも一緒に出かける
誰かに必要とされること。それが、すずなにとってどれだけ久しぶりのことだったか――本人はまだ、はっきりと自覚していない。
「先輩、聞いてます?」
紬の声ですずなは我に返った。
「あ、すみません。少し考え事を」
「大丈夫ですか?疲れてます?」
「いえ、大丈夫です。あの、続き聞かせてください」
紬は少し首を傾げながらも、また説明を続けた。すずなは窓の外の光から視線を戻し、隣の横顔に静かに耳を傾けた
車は夜の道を二人の日常へと戻っていく。ただし次の週末には、また、あの石碑の前に立つことになる。




