第67話 紫の広間
紫色の光が引いていくと、二人は石造りの広間に立っていた。迷宮の通路とは比べものにならないほど天井が高く、四方の壁にはそれぞれ一枚ずつ扉が嵌め込まれている。耳を澄ませても、魔物の唸り声も足音も聞こえてこない。
「助かった……」
紬が大きく息を吐き、その場に膝をつきかけて踏みとどまった。肩が上下するたびに、下ろした剣の切っ先が床の上で小さく震えている。
「ここには、魔物はいないみたいですね」
すずなも剣先を床につき、杖代わりにして体を支えた。繋いでいた手をそっとほどくと、指の間に残っていた紬の温もりがすぐに薄れていく。
「心春さん、ここにいるんでしょうか」
「分かりません。でも、あの石碑がわざわざ連れてきた場所です。何かあるはずです」
二人は急ぎ足で広間を一周し、柱の陰、壁際の暗がり、扉の前と確かめていったが、どこにも人影はなく、何かが落ちている様子もない。すずなが手の甲に目を落とすと、光る薔薇に残る花びらは二枚きりになっていた。
「時間がありません。きついですけど、探しましょう」
「はい」
すずなは広間の中央に立ち、喉の奥から声を絞り出した。
「心春さん! 中村 心春さん!」
「心春さーん! 助けに来ました!」
紬の声も重なり、二人分の呼び声が高い天井に跳ね返っていく。しばらく待っても、戻ってくるのは自分たちの声の残響ばかりだった。
「扉は四つ。どれかに繋がってるはずです」
「手分けしますか。わたし、右の二つを」
「駄目です」
すずなは自分でも驚くほど強い声で遮っていた。紬が目を瞬かせる。
「今の私たちだと、一人で魔物に囲まれたら終わりです。それに、ここで離れたら、探す相手がもう一人増えてしまいます」
そこまで言ってから、すずなは小さく息を継いだ。
「それに、私が嫌です。紬さんと離れるのは」
「……先輩」
「一緒に行きましょう」
一つ目の扉の先には細い廊下が続き、魔物の気配もなく、二人の足音だけが石の壁に吸い込まれていく。一歩ごとに足が重くなり、すずなは自分の膝が意志とは別のところで震えているのを感じていた。しばらく進むと、廊下は崩れた瓦礫に塞がれて行き止まりになっている。
「戻りましょう」
広間に引き返し、二つ目の扉に手をかける。開けた瞬間、湿った空気と一緒にいくつもの気配が押し寄せてきた。
「来ます」
すずなが剣を構えると、通路の奥から小型の魔物が三体、跳ねるように飛び出してきた。迷宮で戦ってきた相手と比べれば、ごく普通の強さの魔物でしかない。それでも一振りごとに腕が鉛のように重く、紬の剣がようやく最後の一体を斬り伏せた時には、二人とも膝に手をついて肩を上下させていた。
「普通の魔物なのに……こんなに、きついなんて」
魔物の消えた通路の先を確かめても、心春の姿はない。三つ目の扉の先は小さな部屋で、空の木箱がいくつか転がっているだけだった。
「いない……」
広間に戻ったところで、紬が壁に手をつき、床に視線を落とす。その時、二人の手の甲に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
すずなが思わず押さえた手の甲から、薔薇の花びらが一枚、光の粉になってほどけていく。淡い光は宙に舞い上がる間もなく消え、残った花びらはとうとう一枚きりになった。
「あと、三十分……」
紬の声が掠れた。体の奥から、また何かがごっそりと抜け落ちていく。剣の柄を握る指先から、力が砂のようにこぼれていった。
「まだ、四つ目があります」
すずなは自分に言い聞かせるように言った。けれど四つ目の扉の先も空振りなら、引き返して別の道を探す時間はもう残っていない。
紬はうつむいたまま、壁際から動けずにいた。石の床を見つめるその視界の端に、ぼんやりと淡いものが滲んでいる。
「あれ……」
「紬さん?」
「先輩、待ってください。何か、見えます」
紬はふらつく足で広間の隅へ歩いていき、そこで床に膝をついた。すずなが後を追って覗き込んでも、ただの石の床があるだけだった。
「何もないように見えますけど」
「ここ、光ってるんです。足跡みたいな形で」
紬の目には、石の床にうっすらと滲む淡い光が映っていた。人の足ほどの大きさの光が、一つ、また一つと、広間の隅から点々と続いている。夜目で暗がりを見通す時とはまるで違う見え方で、光っているのは床そのものではなく、誰かがそこを通っていった跡の方なのだと、紬にはなぜか分かった。
「小さい足跡です。わたしより小さいくらい」
「心春さん、ですか」
「多分。ここに立って、周りを見回して……」
紬は足跡の向きを目で追った。広間の隅で何度も向きを変えた跡が、やがて迷いのない一筋になり、四つ目の扉の方へと伸びていく。
「四つ目の扉に向かってます。間違いないです」
すずなは紬の横顔を見た。疲れ切っているはずの目が、光の跡を捉えたまま少しも揺らいでいない。
「紬さんに見えているなら、それを信じます。案内してください」
「はい」
紬は立ち上がると、すずなの手を取った。
「先輩には見えないので、手、離さないでくださいね」
「はい、絶対に」
答えてから、すずなは気づいた。迷宮の石碑に触れる前、同じ言葉を口にしたのは自分の方だった。今は紬が、一歩前を歩いている。
四つ目の扉の先は、緩やかに下っていく長い廊下だった。紬は床から目を離さず、時折立ち止まっては足跡の向きを確かめながら進んでいき、すずなは繋いだ手の感触だけを頼りにその半歩後ろを歩いた。曲がり角を越えるたびに、紬が小さな声で見えたものを口にする。
「ここで、壁に手をついてます」
「こっちは歩幅が狭くなってます。疲れてたのかも」
次の角の手前で、紬がふいに足を止めた。壁際の床に、他よりも大きく滲んだ光の塊がある。
「ここで一度、座り込んでます」
紬の声が、わずかに震えた。
「それから……また、立ち上がってます」
すずなは何も言わず、繋いだ手に力を込めた。一人きりのこの廊下で、心春はそれでも前へ進んだのだ。
足跡の光は、奥へ進むほど少しずつ濃くなっていった。通ってから、まだそれほど時間が経っていない跡なのだろう。紬の足が、知らず知らずのうちに速くなる。
最後の角を曲がった先に、小さな木の扉があった。足跡の光は、その扉の前で途切れている。
「この先です」
紬が囁くように言った。すずなは扉の前で大きく息を吸い込み、肺の奥が痛むほど深く空気を取り込んだ。それでも足りない分は、紬と繋いだ手から分けてもらうしかないような気がした。
「行きましょう」
二人は頷き合い、最後の力を振り絞ってその扉を押し開けた。
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