第53話 温泉旅行
中村の家を後にする頃には、既に日は高く昇っていた。玄関先まで見送りに出てきた中村の表情には、初対面とは思えないほどの穏やかさが浮かんでいた。
「今日は本当にありがとうございました」
すずなが改めて頭を下げた。短い時間だったが思いがけず心に残るやり取りが交わされた訪問だった。
「また、是非お越しください」
中村がそう言いながら玄関先まで見送ってくれた。
「もし心春さんだった時は、必ずお話しさせていただきますね」
すずながそう約束すると、中村は少し目を潤ませながら頷いた。長年抱えてきた不安の中に微かな希望の光が差し込んだような表情だった。
「よろしくお願いします」
三人は中村の家を後にし車に乗り込んだ。エンジンの音とともに、住宅街の景色がゆっくりと後方へ流れていく。
「じゃあ、改めて温泉に向かいましょうか」
紬がそう言って車を発進させた。車内には、これから始まる旅への期待が静かに満ちていた。
しばらく走り、木造の趣のある旅館に到着する。入り口には青々とした松の木が植えられ、格子戸の向こうから落ち着いた和の趣がにじみ出ていた。
「これは、これは」
エルフィがその佇まいを見て、珍しく感心した様子を見せた。普段は何を見ても淡々としている彼女の反応に、すずなは思わず口元を緩めた。
チェックインを済ませ三人はさっそく大浴場へと向かった。廊下を進むごとに、湯気の匂いがほのかに漂ってくる。広々とした湯船からは外の景色が一望できた。緑豊かな庭の向こうに遠く山並みが霞んで見える。
「エルフィさん、こっちです」
紬に案内されエルフィは湯船にそっと足を入れた。恐る恐る、といった様子で片足を沈めていく。
「熱い……」
「大丈夫ですか」
「いや、心地良い」
エルフィはそのまま肩まで湯に浸かった。広い湯船をゆっくりと見渡す。湯気の向こうに揺らめくその横顔には、日頃の張り詰めた雰囲気が僅かに緩んでいるのが見て取れた。
「これは、良いな」
その一言に、すずなと紬は顔を見合わせて微笑んだ。
「気に入っていただけて良かったです」
エルフィはしばらく無言のまま、湯の心地よさを噛みしめるように目を閉じていた。湯船の水面が静かに小さく揺れていた。
部屋に戻ると豪華な海鮮料理がテーブルいっぱいに並べられていた。仲居が丁寧に一品ずつ説明を添えながら、皿を並べていく。
「わぁ、美味しそうです」
紬が目を輝かせた。刺身の盛り合わせ、焼き貝、蟹、旬の魚料理が所狭しと並んでいる。艶やかな刺身の断面がきらきらと光っていた。
「これは……」
エルフィもその量に少し驚いた様子を見せた。
「エルフィさん遠慮なく召し上がってください」
すずながそう促すと、エルフィは早速刺身に箸をつけた。生の魚をためらう様子もなく口に運ぶ。その手つきは意外にも様になっていた。
「美味い」
「エルフィさん、お箸も使えるし生物食べられるんですね」
紬が少し意外そうに、そう言った。
「この世界でも外国の方は、生だからって理由で食べない方もいるのに」
「マスターランクだからな」
エルフィはそっけなく、そう答えた。
「なんでも食べられるぞ」
「マスターランクとか全く関係ないと思いますが……」
紬は思わずそう突っ込んだ。すずなはその様子に笑いを堪えきれなかった。テーブルの上には次第に空いた皿が増えていく。
「まあ、美味しく食べていただけてるなら良かったです」
エルフィはその後も次々と料理に手を伸ばしていった。蟹の身をほぐし、貝を頬張り、時折満足げに頷いている。その姿には、いつもの落ち着いた佇まいとは違う、無邪気な一面が垣間見えた。
「この蟹も美味い」
「良かったですね」
すずなと紬もそれぞれ料理を楽しみながら、この穏やかな時間を味わっていた。窓の外には日本の静かな夜の景色が広がっていた。庭の灯籠が、柔らかな光を放っている。
食事が一段落した頃、エルフィがふと口を開いた。
「これは本当に良かったな」
「はい本当に」
「すずな。場所は把握したな」
「え」
「今度からは直接、ここに来れるだろう」
エルフィの言葉にすずなは少し驚いた。確かにMoon Returnがあれば、一度訪れた場所にはいつでも戻ってこられる。この宿の記憶も既にしっかりと刻まれていた。
「気に入ったんですね」
紬が少し微笑ましそうに、そう言った。
「ああ、気に入った」
エルフィはそれだけ短く答えた。だがその声には、いつになく素直な満足感が滲んでいた。
「また、ぜひ来ましょうね」
すずながそう言うとエルフィは静かに頷いた。窓の外の夜景を見つめるその横顔はとても穏やかな表情をしていた。
翌朝、宿を発つ際、精算のためフロントに立ち寄った。すずなが財布を取り出そうとするとエルフィがその前にすっと代金を差し出した。
「ここは私が出す」
「え、そんな、悪いです」
「マスターランクだからな」
「いや、マスターランク、これも関係ないと思うんですが……」
紬が思わず、そう突っ込んだ。すずなも隣で思わず笑ってしまった。フロントの店員もその微笑ましいやり取りに小さく笑みをこぼしていた。
それでもエルフィは意に介さず、支払いを済ませてしまった。
「エルフィさん、ありがとうございます」
すずなが改めて頭を下げると、エルフィは少し目を細めた。
「いい旅だった」
その一言に、すずなと紬は顔を見合わせて微笑んだ。三人の足取りは、来た時よりもずっと軽やかに駐車場へと向かっていった。
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