第52話 協力者
ある日、すずなはエルフィに提案を持ちかけた。頻繁に日本に戻れるようになった、この頃にはすっかり日常の一部となっていた温泉旅行の話題だった。日々の依頼や修行に追われる中でも、こうした何気ない楽しみが確かな息抜きになっていた。
「エルフィさん、今度、温泉に行きませんか」
「温泉?」
聞き慣れない単語にエルフィが小さく首を傾げた。その反応にすずなは思わず口元を緩めた。
「日本のお風呂です。疲れがとても取れるんですよ」
すずながそう説明すると、紬も隣から付け加えた。旅行の話題になると、いつも以上に瞳を輝かせるのが紬らしいところだった。
「海沿いの宿だと美味しい海鮮物もありますよ」
「海鮮物…」
エルフィの目が少し輝いた気がした。普段は淡々とした表情を崩さない彼女にしては、珍しい反応だった。食への興味だけは、いつも素直に顔に出る。それがどこか微笑ましく、すずなは密かにこの反応を楽しみにしていた。
「連れていけ」
「じゃあ今度の休み、一緒に行きましょう」
紬もその計画に賛成した。話はとんとん拍子に進み、あっという間に旅行の予定が組み上がっていく。三人の間には、これといった反対意見も出ないまま自然と行き先や日程が決まっていった。
「私が車出しますね」
出発の前日、紬はエルフィの家に日本用の服をいくつか持ち込んでいた。大きな紙袋を抱えたその姿には、並々ならぬ気合いが感じられた。まるで自分の旅行の準備でもするかのような張り切りようだった。
「エルフィさん、そのローブのままだと日本の街中では流石に目立つので」
「着替えるのか」
「はい。今日は、私が選びます」
紬は張り切った様子で、次々と服をエルフィに合わせていった。手にした服を胸元に掲げては、満足げに頷き、また別の一着を取り出す。その作業を何度も繰り返していく。棚に並べられた服の数は、次第に山のように積み上がっていった。
「これも似合いそうですし、これも可愛いです」
「多いな」
エルフィは少し面倒くさそうにしながらも、大人しく着替えを続けた。試着室代わりの部屋から出てくるたび、紬が真剣な目つきで全体を確認する。時折首を傾げたり生地の裾を軽く整えたりと、まるで本職のスタイリストのような入念さだった。すずなはその横で、微笑ましくその様子を眺めていた。
「うーん、やっぱり、こっちの方が」
何度か着せ替えを繰り返した末、最終的にシンプルなワンピースに落ち着いた。落ち着いた色合いの生地が、エルフィの華奢な体格を柔らかく包んでいる。飾り気は少ないが、それがかえって上品な印象を醸し出していた。
「これ良いですね。可愛いです」
「そうか」
エルフィは鏡に映る自分の姿を、しばらくじっと見つめていたが、まんざらでもない様子だった。普段の無表情の奥に、微かな高揚が滲んでいるように見える。何気ない仕草の端々に、いつもとは違う柔らかさが表れていた。
すずなはその光景を見ながら、微笑ましく思っていた。
当日、三人は紬の家から車で出発する。荷物を積み込んだ車が静かに走り出し、窓の外を流れる景色は、少しずつ都市部から郊外へと移り変わる。
「ここから二時間くらいですかね」
紬が運転しながらそう言った。ハンドルを握る手つきには慣れた余裕が感じられる。助手席に座るエルフィは流れる景色を興味深そうに眺めていた。
「その前に寄る場所がある」
エルフィがそう切り出した。助手席から窓の外を眺めながら、思い出したように言葉を続ける。
「金貨を日本円に換えてもらう。協力者の家がある」
「協力者ですか」
「ああ。前に話したことがあった」
紬はその言葉に以前聞いた話を思い出した。記憶を辿るように、少し視線を宙に泳がせる。ハンドルを握る手が一瞬だけ緩やかになった。
「そういえば、おばあちゃんも同じような役割をしてたって、エルフィさんから聞きました」
「そうだ。似たような立場の者は何人かいる」
すずなもその話を思い出しながら頷いた。異世界と日本、二つの世界を繋ぐ存在が他にも各地にいるのだということを改めて実感する。
「じゃあ今から会う方も、その協力者なんですね」
「ああ」
車は指定された住所へと向かった。カーナビの案内に従いながら住宅街の奥へと進んでいく。次第に道幅が狭くなり、周囲には古い家々が立ち並ぶようになった。着いたのは少し古びた一軒家だった。年季の入った木造の外観に、庭先には手入れの行き届いた植木が並んでいる。長年、丁寧に暮らしてきた者の気配が、家の佇まい全体から静かに漂っていた。
「ここですね」
紬が車を停め、三人は車を降りた。玄関先に立つと、どこか懐かしい木の香りが漂ってくる。
エルフィが玄関のインターホンを鳴らすと、しばらくして壮年の男性が姿を現した。柔和な笑みを浮かべたその表情には、長年、人と接してきた者特有の落ち着きがあった。白髪交じりの髪と穏やかな目元が、実直な人柄を感じさせる。
「大変ご無沙汰しております、エルフィ様」
「世話になる」
男性はにこやかに三人を招き入れた。玄関を上がると、和洋折衷の落ち着いた内装が広がっていた。廊下には、丁寧に手入れされた古い家具がいくつか置かれている。
「今日はお連れの方もご一緒なんですね」
「はい、初めまして」
すずなと紬は丁寧に頭を下げた。
「中村正一と申します」
男性はそう名乗りながら丁寧に頭を下げた。その物腰には、どこか誠実さが滲んでいた。
「中村……?」
すずなと紬は思わず顔を見合わせた。まだ確証はない。それでもその名前には聞き覚えがあった。頭の片隅で、小さな引っかかりが生まれる。互いの表情から同じことを考えているのが分かった。
「エルフィ様には、いつもお世話になっておりまして」
「エルフィ様……」
すずなはその呼び方に少し驚いた。中村の口調にはエルフィに対する明確な敬意が感じられた。普段のエルフィの姿しか知らないだけに、この丁寧な呼び方は新鮮に映った。
「エルフィ様は私にとって師匠のような方でしてね」
「師匠ですか」
「ええ。若い頃、色々と教えていただいたんです。今のこの繋がりもエルフィ様のおかげです」
エルフィはその説明を聞きながら、特に何も言わずただ静かに頷いていた。長年の付き合いを感じさせる、穏やかな沈黙だった。
中村はそこで改めて、すずなと紬の顔を見つめた。何かを確かめるような柔らかい眼差しだった。
「失礼ながらお二人とも日本の方ですよね」
「はい、そうです」
「もしかして今もあちらの世界にいらっしゃるんですか」
その問いにすずなが答えあぐねていると、エルフィが代わりに口を開いた。
「こやつらは好きな時に好きなだけ自由に行き来ができる」
「なんと……!」
中村は目を見開いた。それから少し遠い目をして、しみじみと呟いた。過去を懐かしむような、静かな響きだった。視線の先には何か遠い記憶が浮かんでいるようだった。
「懐かしいですな……かなり昔の話ですが、私も何度か行かせていただいたかと思います」
「そう、なんですね」
すずなはその言葉に中村の若かりし頃の姿を想像した。今ではこうして金貨の交換を手伝う立場になっているが、かつては自分たちと同じようにあちらの世界を旅していたのだろう。目の前の穏やかな老年の姿からは想像もつかない冒険の日々があったのかもしれない。
「あの、失礼ですが」
すずなが、あらためて切り出した。ふと胸に浮かんだ問いを抑えきれなくなっていた。
「中村さんには娘さんがいらっしゃったりしますか」
「え、ええ、おりますが……」
中村は少し不思議そうな顔をした。
「実は娘のこと心配しておりましてね。海外に行くと言って家を出てから、もう二年近く連絡が取れないんです」
その言葉に、すずなと紬ははっきりと確信した。互いに視線を交わし合い無言のうちに同じ考えを共有する。部屋の空気が僅かに張り詰めたものへと変わった。
「二年ですか」
「はい。元気にしているとは思うんですが。あまりに連絡がないもので」
中村は少し寂しそうな表情を浮かべた。長年抱えてきた心配が、その一言に滲んでいるようだった。窓の外に視線を移すその横顔には、隠しきれない父親の心配が見え隠れしていた。
「もしかして娘のこと、何かご存知なんですか」
その問いにすずなはどう答えるべきか迷った。まだ確証はない。それでもこの偶然がただの偶然とは思えなかった。
「あの、娘さんのお名前、伺ってもよろしいですか」
「心春です。中村心春」
「心春さん……」
すずなはその名前をしっかりと心に刻んだ。既に聞き覚えのある名前が、目の前ではっきりとした輪郭を持ち始める。
「先日、地方の依頼を受けた際に、その、お名前を耳にしたことがあって」
「本当ですか」
中村の顔が驚きと期待の入り混じった表情に変わった。
「まさか、そんな……心春もそちらにいるんですか」
「あ、いえ」
すずなは慌てて首を横に振った。
「中村という苗字を聞いただけで。まだ実際にお会いしたことはないんです」
「そう、ですか……」
中村は少し肩を落としながらも、それでもわずかな期待を捨てきれない様子だった。その表情には、落胆と希望が同時に浮かんでいた。
「もしそうなら、ぜひ詳しく教えてください」
すずなは少し言葉を選びながら答えた。確証のないまま、無責任な期待を持たせたくはなかった。
「まだ確かなことは言えないんですけど。もしその方だったら、今度必ず伝えます。お元気にされていた、と」
「ありがとうございます……本当にありがとうございます」
中村は深く頭を下げた。その様子にすずなと紬は改めてこの出会いの重さを感じていた。何気ない金貨の両替のはずが、思いがけずこれから先の物語に繋がる大切な糸を手繰り寄せることになっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。すずなたちなら、こんな時きっと「支えてくれる人がいるから頑張れる」と言うはず。
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