第39話 二人の家
次の週末、すずなと紬は、鍵を使わずに異世界へ渡った。
金曜の夜、すずなのアパートの狭い部屋で二人は手を繋ぎ、すずなが目を閉じる。足元に黒い霧が渦を巻き、次に目を開けた時には、宿の裏手の路地に立っていた。今度は、すずなが思い浮かべた通りの場所だった。
「先輩、上手になってます」
「二回目ですから」
すずなが少しだけ得意げに言うと、紬はくすりと笑った。
翌朝、宿の食堂へ下りると、奥のテーブルにエルフィの姿があった。旅装の泥はすっかり落とされ、袖口の焦げも新しい布で繕われている。皿の上には、焼き菓子が山のように積まれていた。
「エルフィさん!」
紬が駆け寄ると、エルフィは焼き菓子から顔を上げた。紬の顔を見て、それからすずなの顔を見る。その目が、ほんのわずかに細められた。
「戻ったか」
「はい。戻りました」
「二人とも、か」
「二人とも、です」
すずなが答えると、エルフィは小さく息を吐いた。それが安堵の息だったのかどうか、すずなには分からなかった。ただ、エルフィの肩から、ほんの少しだけ力が抜けたように見えた。
「座れ」
二人が向かいの椅子に腰を下ろすと、紬が上着のポケットから布袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
「エルフィさん、これ、お返しします。最後の一往復分です。もう、使わなくてよくなったので」
エルフィは布袋を手に取り、中を覗き込んだ。薄い光を宿した鍵が一本、そこに残っている。
「使わずに済んだか」
「はい。先輩が、Moon Returnを」
紬が言いかけると、エルフィは片手を上げてそれを制した。
「見れば分かる」
エルフィの視線が、すずなの右手の人差し指へ向けられた。銀色の細い輪に嵌まった黒い石は、以前のような深い夜の色をしていなかった。くすんだ灰色に変わり、光を吸い込む力をすっかり失っている。
「使ったな」
「はい。最後の最後に」
「使い時を、間違えなかったな」
エルフィはそれだけ言って、布袋を懐にしまった。すずなは指輪を外そうとしたが、エルフィは首を横に振った。
「持っておけ。もう石は空だが、輪はまだ使える。いずれ、別のものを込めてやる」
「ありがとうございます」
すずなは指輪に触れた。灰色になった石の奥に、竹林で感じた小さな手の温もりが、まだかすかに残っている気がした。
「話せ」
エルフィが焼き菓子を一つ取り、二人の前に皿を押しやった。
「何があったか。全部だ」
すずなと紬は、満月の夜のことを話した。光る竹林。祖母の歌。鈴の音。光の行列と、月の遣い。紬の秘密が暴かれたこと。紬が手を離しかけたこと。すずなが知っていましたと答えたこと。指輪の石が光を呑み込み、紬が自分の意思で地上を選んだこと。
エルフィは、焼き菓子を手に持ったまま、一度も口に運ばずに二人の話を聞いていた。紬が自分の秘密を暴かれた場面を話す時、声が震えて何度も言葉に詰まった。エルフィはそれを急かさず、ただ黙って待っていた。
「月の遣いは、覚えておくと言っていました。月は忘れないと」
すずなが最後にそう言うと、エルフィはようやく焼き菓子を一口かじった。
「そうか」
エルフィはゆっくりと咀嚼し、飲み込んでから、すずなの手に目を留めた。手のひらに巻かれた布の端から、まだ赤い爪の跡が覗いている。エルフィは椅子から少し身を乗り出し、小さな指先で、すずなの額をぴんと弾いた。
「無茶をする」
「……すみません」
「謝るな。褒めてはいないが、責めてもいない」
エルフィはそう言って椅子に座り直し、今度は紬を見た。
「自分の口で、言えたか」
紬は、少しだけ目を伏せた。
「……先に、開けられちゃいました。月の遣いに」
「そうか」
「でも、その後、ちゃんと自分の口でも言いました。先輩に。全部」
紬はそう言って、すずなの方をちらりと見た。すずなが小さく頷くと、紬はほっとしたように肩の力を抜いた。
「開けられた後でも、自分で言えたなら、それでいい」
エルフィはそれだけ言うと、もう一つ焼き菓子を手に取った。
紬は少し迷ってから、足元に置いていた鞄を膝の上に載せた。中から、布で丁寧に包まれた小さな木箱を取り出す。
「エルフィさん。もう一つ、聞きたいことがあって」
紬は木箱をテーブルの上に置き、布をほどいた。蓋を開けると、何十枚もの金貨が、食堂の灯りを受けてきらりと光る。
エルフィの手が、止まった。
「これ、おばあちゃんの家の蔵にあったんです。月の遣いが、おばあちゃんは月の者だったけど還らなかったって言ってて、それで、何か残ってないかと思って行ってみたら」
紬は木箱の中の金貨を一枚つまみ上げた。
「こっちの世界の金貨ですよね。どうして、おばあちゃんが」
エルフィはしばらく、紬の手の中の金貨を見つめていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「お前の祖母は、私の金貨を日本の金に替えてくれていた」
紬が、息を呑んだ。
「私は、時々日本へ行く。向こうで甘いものを買うには、向こうの金が要る。だが、こちらの金貨をそのまま向こうで使うことはできない。だから、お前の祖母に頼んでいた。私の金貨を預けて、日本の金に替えてもらう。長い間、ずっとだ」
「おばあちゃんが……」
「これは、その手間賃だ」
エルフィは、木箱の中の金貨を指先で軽く叩いた。
「両替のたびに、少しずつ渡していた。日本の金に替えれば暮らしの足しになるだろうと言ったのに、あいつは一枚も替えなかった。いつか孫が向こうの世界へ行くことがあったら、その時に持たせてやりたいと言ってな」
紬の目に、みるみる涙が溜まっていった。
「孫って、わたしのこと、ですか」
「お前以外に誰がいる」
エルフィは紅茶を一口飲み、カップを置いた。
「あいつは、お前がいつかこちらへ来ることを、分かっていたのかもしれん。月の血を引く子だからな」
「おばあちゃんは、どうして」
紬が、震える声で言った。
「どうして、還らなかったんですか。月の遣いは、おばあちゃんも還るはずだったって」
「それは、いつか話す」
エルフィは、静かに首を横に振った。
「今のお前に、全部を話すには早い。だが、一つだけ言っておく。お前の祖母は、自分で選んで、地上に残った。誰かに引き止められたからではない。自分で、選んだ」
紬は、膝の上で両手を握りしめた。祖母の家の縁側で、紬自身が見つけた答えと、同じだった。
「この金貨は、お前のものだ。あいつが、お前のために残したものだ」
エルフィはそう言って、木箱を紬の方へ押しやった。紬は木箱を両手で抱え、しばらく何も言えずに、ただ金貨を見つめていた。すずなはその肩に、そっと手を置いた。
やがて、紬が顔を上げた。
「エルフィさん。この金貨で、家って買えますか」
「家?」
「こっちの世界に。卒業したら、わたし、こっちで暮らしたいんです。おばあちゃんが残してくれたお金で、ちゃんと自分の居場所を作りたい」
エルフィは木箱の中の金貨をざっと眺め、それから少しだけ考えるように視線を宙に漂わせた。
「小さな家なら、十分だ」
「本当ですか!」
「ちょうど、空いている家がある。私の家の隣だ」
紬が、目を瞬かせた。
「エルフィさんの、お家? エルフィさん、宿に住んでるんじゃないんですか」
「宿の食堂は飯が美味いから来ているだけだ。家は街の外れにある」
エルフィは焼き菓子を口に放り込み、立ち上がった。
「見に行くか」
街の外れの、小さな丘の上に、その家はあった。
石造りの二階建てで、少し古びてはいるけれど、しっかりとした造りだった。庭には背の低い木が一本植えられ、玄関の扉には小さな真鍮のノッカーが付いている。その隣には、エルフィが住んでいるという、それより一回り大きな家が建っていた。
「前に住んでいた者が、遠くへ越していった。それからずっと空いている」
エルフィが鍵を開けると、紬は真っ先に中へ駆け込んだ。一階には暖炉のある居間と小さな台所、二階には部屋が二つ。窓の多い、明るい家だった。
「先輩、見てください! 暖炉がありますよ!」
紬は居間の真ん中でくるりと回り、それから階段を駆け上がっていった。エルフィは戸口にもたれかかり、その様子を眺めながら、ぼそりと呟いた。
「騒がしい隣人になりそうだ」
口ぶりはいつも通り素っ気なかったけれど、その口の端は、ほんのわずかに持ち上がっていた。すずなは小さく笑い、紬の後を追って階段を上がる。二階の廊下の左右に、扉が一つずつ並んでいた。紬は右の部屋の扉を開け、中を覗き込んでいる。
「先輩」
紬が振り返った。その顔は、少しだけ真剣だった。
「ここ、先輩の部屋にしませんか」
「私の、ですか」
「はい。わたしは、こっちの部屋で。先輩は、こっち」
紬は左右の扉を順に指差した。
「先輩が、日本で暮らすことになっても。課長さんのお仕事を受けても。先輩はいつでもこっちに来られるんですから、こっちにも先輩の部屋があっていいと思うんです。先輩の帰る場所が、日本だけじゃなくて、ここにもあるように」
すずなは、言葉を失った。
先輩の帰る場所が、日本だけじゃなくて、ここにも。広すぎる部屋で、わたしがいなくても誰の毎日も回ると言った紬が、今、すずなの帰る場所を作ろうとしてくれている。誰かを閉じ込めるためではなく、すずなが自分で帰って来られる場所として。
「私が、どちらで暮らすかは、まだ」
「分かってます」
紬は首を横に振った。
「先輩が決めることです。先輩の気持ちで。わたしは、ただ、先輩の部屋を作っておきたいだけです。先輩がどっちを選んでも、ここに先輩の部屋があるって、わたしが知っていたいだけ」
紬はそう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。
すずなは右の部屋の中に足を踏み入れた。何もない、がらんとした部屋だった。乾いた木の床が、足の裏にほんのりと温かい。けれど、そこに本棚を置き、ベッドを置き、竹の姫の絵本と母親の写真を飾ったら。そう考えた瞬間、胸の奥が、ふわりと温かくなった。
「……ありがとうございます、紬さん」
すずなは、それだけしか言えなかった。紬は嬉しそうに頷き、それから階段の上から下に向かって声を張り上げた。
「エルフィさん! ここ、買います!」
階下から、エルフィの短い返事が聞こえた。
「そうか」
その声が、いつもより少しだけ柔らかく聞こえた気がした。
家の手続きは、エルフィがギルドを通して済ませてくれることになった。宿へ戻る帰り道、紬はずっと浮き足立っていて、家具は何を置こうか、台所には何を揃えようかと、楽しそうに話し続けていた。すずなはその隣を歩きながら、相槌を打ち、時々笑った。
けれど、胸の奥には、一つの数字が静かに沈んでいた。課長への返事の期限。月末まで、あと一週間。
日本で課長の仕事を受け、平日は日本で暮らし、週末にこの家へ帰ってくる。今の自分なら、それもできる。どちらも手放さずに済む道を、二人は確かに手に入れた。
それなのに、さっき二階の空っぽの部屋に立った時、すずなの胸には、週末だけここへ帰ってくる自分の姿ではなく、毎朝この部屋で目を覚まし、隣の部屋の紬におはようと言う自分の姿が浮かんでいた。
(私は、どうしたいんだろう)
すずなは手首の鈴に触れた。ちりん、と小さな音がする。その答えを、すずなは自分の口で言わなければならない。月末までに。課長にも、紬にも、そして自分自身にも。
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