第38話 紬の部屋
金曜日の夜、すずなは紬の家を訪れることになった。案内された先は、駅からほど近い立派なマンションだった。
「紬さん、ここ一人暮らしですよね」
「はい。広すぎますよね一人だと」
エレベーターで上がった先、扉を開けると、綺麗に片付いた部屋が広がっていた。それでもすずなは少し違和感を覚えた。
「あの、紬さん」
「はい」
「なんだか、物が少ないですね」
広いリビングには必要最低限の家具しか置かれていなかった。ソファ、テーブル、テレビ。それだけで部屋の大部分が、がらんとしている。
その代わり部屋の隅には、テントやランタン、クッカーセットといったキャンプ用品が、きちんと整理されて並んでいた。
「休みの日は大体キャンプに行ってたので。物、増えなかったんです」
紬は少し照れくさそうに、そう説明した。
「一人でずっと、こうしてたんですね」
すずなはその言葉に、以前聞いた紬の生い立ちを改めて思い出していた。誰にも頼らず一人で自分の時間を埋めてきたのだろう。
リビングの奥、小さな机の上に写真立てが一つ置かれていた。すずなは何気なく、そこに目を向けた。
「これ……」
写真には制服姿のすずなと、まだ幼さの残る紬が並んで写っていた。すずなの卒業式の日、正門の前で撮った一枚だった。
「懐かしいですね」
すずながそう呟くと、紬は少し慌てた様子を見せた。
「あ、それ、その、ずっと飾ってて」
「大切にしてくれてたんですね」
すずなは写真立てを、そっと手に取った。あの日の自分と、あの日の紬が、まっすぐに笑っている。
「先輩と離れちゃうの寂しかったので。この写真見て頑張ってました」
紬の声は少し小さかった。すずなはその言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「今は離れてなくて、良かったです」
「はい……本当に」
すずなは写真立てをそっと机に戻した。それから隣に立つ紬を静かに抱き寄せた。
「先輩?」
「なんとなく、そうしたくなりました」
紬は一瞬驚いた様子を見せた。それから力を抜いて、すずなの背中に、そっと腕を回した。
「先輩、あったかいです」
「紬さんも」
しばらく二人は何も言わずに、そのままでいた。窓の外、夕暮れの街の明かりが静かに灯り始めていた。
「晩ご飯、何か作りましょうか」
紬がキッチンに向かいながらそう言った。
「一緒に作ってもいいですか」
「はい、もちろんです」
冷蔵庫を覗くと、思ったより食材は少なかった。それでも二人で相談しながら、簡単な野菜炒めと味噌汁を作ることにした。
「先輩、包丁、上手ですね」
「毎日、自炊してましたから」
「私、キャンプの時しか、ちゃんと料理しないので。家だと大体コンビニで済ませてました」
そんな会話をしながら、二人で並んでキッチンに立つ時間は、思ったよりも心地よかった。
出来上がった料理をテーブルに並べる。
「いただきます」
「いただきます」
簡単な献立だったが、二人で作ったせいか、いつもより美味しく感じられた。
食事を終え片付けを済ませると、夜も更けていた。
「お風呂、先輩からどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
順番に入浴を済ませ、寝る準備を整える。ベッドは一つしかなかった。
「先輩、隣、いいですか」
「はい」
すずなは今更、驚くこともなく素直に頷いた。もう、それが自然なことになっていた。
「おやすみなさい、紬さん」
「おやすみなさい、先輩」
照明を消し、二人は並んで目を閉じた。
翌朝、すずなが目を覚ますと、隣に紬の温もりがあった。腕が、しっかりとすずなの体に回っている。
「また、ですか」
すずなは小さく呟いた。今回は寝相のせいだと言い訳する隙もなく、最初から一緒に寝ていたはずなのに、朝には、がっちりとホールドされている。
「紬さん、そろそろ起きませんか」
「……ん、もう少し」
「もう少しって、毎回言ってますよね」
「……気のせいです」
「……先輩の匂い、落ち着くので」
すずなはその言葉に、何も言い返せなくなった。仕方なく、しばらくそのままの体勢で時間が過ぎるのを待つことにした。
朝食を済ませると二人は少し外に出ることにした。
「エルフィさんに、お土産、買っていきましょうか」
「そうですね」
駅前の商店街を歩きながらいつものスイーツを選んでいると、紬が、ふと雑貨屋の店先で足を止めた。
「先輩、これ見てください」
紬が手に取ったのは、あたたかい光の灯るランタン型の照明だった。電池式なので電池さえ持っていけば、問題なく使える。
「これ、あちらの家に置いたら良さそうじゃないですか」
「本当ですね。まだ照明も最低限のものしかなかったので」
「あと、これも」
紬は続けて、ふかふかのクッションも二つ選んだ。
「殺風景でしたもんね、あの家」
「はい。少しずつ揃えていきましょう」
そんな買い物を済ませ、二人は紬の部屋に戻った。
部屋の中央に立つと、紬が言った。
「せっかくなので、ここからMoon Return、試してみましょうか」
「ここから、直接行けるんですね」
「はい、多分」
すずなは意識を集中させた。足元に黒い霧が静かに渦を巻き始める。次の瞬間、視界が切り替わり、二人は購入したばかりの、あの小さな家の中に立っていた。
「本当に来られました」
「はい。もう鍵、いらないんですね」
すずなは見慣れた自分たちの家の中を、あらためて見回した。以前訪れた場所として、しっかり記憶に刻まれていたらしい。
持ってきたランタンとクッションを、さっそく部屋に置いてみる。
「あ、少し明るくなりましたね」
「はい。だいぶ、それらしくなってきました」
それから二人はエルフィの家にも顔を出した。
「エルフィさん、これ、お土産です」
すずなが、いつものスイーツを差し出すと、エルフィは目を細めて袋を受け取った。
「ああ、ありがとう」
「あと、Moon Returnで、こっちに直接来られるようになりました」
「そうか。順調そうで何よりだ」
エルフィはそう言うと、袋の中身をさっそく一つ取り出して口に運んだ。
その日は、簡単な魔獣討伐の依頼を一つこなすことにした。以前よりはるかに手慣れた動きで、二人はあっさりと依頼を終わらせた。
「今日は、これくらいで帰りましょうか」
「はい」
再びMoon Returnを使い、二人はその日のうちに紬の部屋へと戻ってきた。
その夜、自分の家へと帰る電車の中、すずなは一人、窓の外を眺めていた。
もう鍵に頼らなくても自由に行き来できる。仕事さえ調整できれば、日帰りで依頼をこなすことだって出来てしまう。
それなら、いっそ、こちらの生活を畳んでしまってもいいのではないか。
その考えは以前から頭の片隅にあった。それが今、はっきりとした輪郭を持ち始めている。
仕事のこと、この部屋のこと、これまで積み重ねてきた静かな日常のこと。それらを手放すことに寂しさがないわけではない。それでも紬と過ごす時間の方が、今のすずなにとっては、ずっと大きな意味を持ち始めていた。
電車の窓に映る自分の顔を見つめながら、すずなは、その考えと静かに向き合い続けていた。




