第36話 月の目
石碑の前ですずなは深呼吸をした。
「本当に、これで行けるんでしょうか」
「試してみましょう」
紬が隣で少し緊張した面持ちで頷いた。
すずなは意識を集中させた。あの夜と同じ感覚が体の奥から湧き上がってくる。足元に黒い霧が静かに渦を巻き始めた。
「これは」
霧が二人を包み込む。視界が一瞬、暗転した。
気づくと二人は石碑の前に立っていた。ただしその景色は見慣れた現実の山道ではなく、異世界側の石碑の周辺だった。
「本当に来ちゃいました」
紬が辺りを見渡しながらそう呟いた。
「はい。鍵がなくても、ちゃんと転移できるんですね」
すずなはその事実に、あらためて驚いていた。
その足で二人はエルフィの家を訪ねた。だが扉を叩いても、応答はなかった。
「今日も、留守みたいですね」
「ギルドにいるかもしれません。行ってみましょうか」
二人がギルドに着くと、食堂のカウンター席で、串焼きを頬張っているエルフィの姿があった。
「エルフィさん」
「……ああ、来たか」
「報告があります。無事、転移、できました」
「見てなくても分かる。お前の分かりやすい」
エルフィは、そっけなく答えながら、また串焼きに口をつけた。
「あの、これって石碑がある場所にしか行けないんでしょうか」
すずながそう尋ねると、エルフィは少し意外そうな顔をした。
「知らないのか」
「何をですか」
「Moon Returnは、一度訪れた場所なら、どこへでも飛べる」
「石碑、関係ないんですか」
「ない。お前が覚えている場所なら、どこでも行き先になる」
その説明に、すずなと紬は顔を見合わせた。
「じゃあ、私の部屋からでも」
「行ける。試してみるといい」
エルフィの言葉に、すずなは少しずつその力の大きさを実感し始めていた。鍵を使わずとも、自分の意思一つでこの世界とあの世界を自由に行き来できる。
「せっかくギルドに来ているので、ステータスも確認してみましょうか」
紬がそう提案した。すずなも頷いた。
「そうですね。色々変わってる気がします」
水晶の魔道具に、すずなが手をかざす。光る文字が浮かび上がった。
**楠すずな レベル15**
体力:C
腕力:C
魔力:B-
俊敏:C+
器用:C
加護
Fable Unbound
- Moon Return
「レベル、また上がってます」
すずなはその数字をじっと見つめた。魔力の項目がB-になっているのが特に目を引いた。
「魔力、上がってますね。先輩、もしかして」
「はい。なんとなく、魔法も使えるような気がしてきました」
すずなは自分の手のひらを見下ろした。あの夜、闇の力を扱った感覚がまだ体のどこかに残っている。
「加護の欄にも、ちゃんとMoon Returnって出てますね」
「本当ですね」
すずなはその表示を見て、あらためて実感が湧いてきた。あの試練は確かに自分の中に何かを残していったらしい。
「私も見てみます」
紬が続けて、水晶に手をかざし自分のステータスを表示させた。
**雨宮紬 レベル16**
体力:C
腕力:B+
魔力:D+
俊敏:B
器用:C+
加護
Lunar Sight
「あ、私にも加護の欄が出てます」
紬はその表示を、まじまじと見つめた。
「Lunar Sight……ルナー、サイト?」
「なんでしょう、それ」
エルフィが串焼きを持ったまま、こちらに声をかけてきた。
「……月の目、だな」
「月の目、ですか」
「……お前の血が目覚めた証だ。夜目が利くようになる」
「それだけですか」
紬が身を乗り出して尋ねた。
「それだけだ」
「それだけって」
紬はしばらく言葉を失っていた。それから大きく息を吸い込んだ。
「なんなんですかー!」
その声が食堂に響いた。すずなは隣で思わず笑ってしまった。
「せっかく、月の血とか大層な話だったのに」
「夜目が利くようになりましただけって」
「地味すぎませんか」
紬の抗議はしばらく止まらなかった。エルフィはそれを気にする様子もなく、また串焼きに視線を戻していた。
「悪くない力だぞ」
エルフィがぽつりと付け加えた。
「暗い場所での探索や、夜の戦闘。地味だが役に立つ場面は多い」
その言葉に紬は少しだけ機嫌を直したようだった。
「そうなんですか」
「ああ。地道な奴に、似合いの力だ」
「それ褒めてます?」
「褒めてる」
紬は大きくため息をついた。それでも、その顔はどこか満更でもなさそうだった。
すずなはその様子を見ながら、あらためて自分たちの積み重ねてきたものの大きさを感じていた。ランクはまだ以前のままだ。それでも確かに二人はまた一つ強くなっていた。




