第33話 大切なもの
「エルフィ様、今日はここで失礼します。ありがとうございました」
すずなが、食堂のカウンター席で丁寧に頭を下げた。
「ああ」
エルフィは串焼きを頬張りながら軽く手を挙げた。慣れた仕草には、いつもの素っ気なさが滲んでいる。
「また来週、来ますね」
紬もそう言い添えると、エルフィは視線をちらりと上げた。
「気をつけて帰れ」
それだけ言うと、視線はまた串焼きに戻っていった。日が傾き始めた頃、二人はギルドを出て石碑の場所へと向かう。夕暮れの光が、石碑の表面を淡く照らしている。石碑に鍵を差し込むと、光に包まれ見慣れた現実の山道が目の前に広がった。
「鍵、これで残り二往復ですね」
紬が鍵を確認しながら呟いた。手のひらに収まる小さな鍵を見つめる眼差しには、これまでの日々の重みが滲んでいた。
「本当に少なくなってきましたね」
すずなはその事実を改めて噛みしめた。始まりの頃には想像もつかなかった日々が、今こうして積み重なっている。
駐車場で紬の車に乗り込み、すずなの家へと向かう。車内はいつもより静かだった。ヘッドライトに照らされた道路が、静かに後方へと流れていく。
「先輩」
「はい」
「さっきのエルフィさんの話、考えてました?」
「はい。ずっと」
車が信号待ちで止まると、すずなはふと切り出した。
「紬さん良かったら、今日、泊まっていきますか」
「えっ」
「もう日曜日なので、明日は、朝早いですけど大丈夫ですか」
「もちろん、泊まります」
紬は迷う様子もなく、即答した。信号が変わり、車が再び動き出す。
「じゃあ、車はすずなさんの家の近くのコインパーキングに停めましょう」
紬はそう言うと、すずなの家の近くにある駐車場に車を停め、家に向かった。街灯に照らされた夜道を二人並んで歩いていく。
家に着き、二人はリビングのソファに並んで座る。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
「大切なものを失いかけたとき、ですよね」
紬が少し硬い声で切り出した。
「はい」
「先輩にとって、大切なものって何ですか」
その問いに、すずなはしばらく考え込んだ。膝の上で組んだ手に、無意識のうちに力がこもる。
「難しいですね。改まって聞かれると」
「私も、聞いておきながら難しいなって思います」
二人はしばらく、それぞれの中にあるものを探るように黙っていた。部屋の静けさの中、時計の針が時を刻む音だけが響いていた。
「本とか」
すずながぽつりと言った。
「本は大切ですけど。それがなくなっても多分、悲しいだけで。試練が発動するほどの危機ではない気がします」
「そうですね。じゃあ、お仕事とか」
「お仕事も大事だと思いますが、あれは多分、生活するための手段であって」
すずなと紬は少しずつ言葉を選びながら、自分の心の中を確かめていく。言葉にするたび、何かが少しずつ形をなしていくようだった。
「私、多分」
「はい」
「今まで、あまり何かを強く大切だと思ったこと、なかったのかもしれません」
その言葉に紬は少し驚いたように、すずなを見た。
「両親のことは、もちろん大切でした。でも、もういません。それ以外に誰かを、そんなに強く失いたくないと思うほど大切に思ったこと」
すずなはそこで言葉を切った。それから隣に座る紬の方を、まっすぐに見た。その瞳には、これまでにない真剣な色が浮かんでいた。
「最近、初めてそう思うようになった気がします」
「先輩……」
紬の声が少し震えていた。
「もし紬さんがいなくなったら。私、多分、耐えられません」
その言葉に紬はしばらく何も言えずにいた。それから静かに、すずなの肩に頭を預けた。柔らかな重みが、そっと肩に伝わってくる。
「私もです」
「紬さん」
「先輩がいなくなること考えるだけで、今も、ちょっと泣きそうです」
紬の声は、いつもの明るさとは違う静かな響きをしていた。
「じゃあ私たちにとっての、大切なものって」
すずながそう呟くと紬は小さく頷いた。
「多分、お互いですね」
その事実が少し怖くもあり、同時にはっきりとした温かさも伴っていた。試練が二人のうちのどちらかを失いかけたときに発動するのだとすれば、それは決して軽い意味では済まされない。二人はしばらくそのまま、寄り添うようにソファに座り続けていた。
翌朝、すずなはいつも通りの時間に身支度を整えた。紬も同じタイミングで起き出し、身支度を手伝ってくれた。
「先輩、こっちのシャツの方が似合うと思います」
「あ、ありがとうございます」
二人は一緒に朝食を済ませ、玄関で靴を履いた。トーストの香ばしい匂いが、まだ部屋にほのかに残っていた。
「今日は駅まで送りますね」
紬がそう言いながら鞄を肩にかけた。
「近くに、車、停めてましたよね」
「はい。少し歩きますけど、そこから駅まで送ります」
コインパーキングまで並んで歩き、紬の車に乗り込む。朝の道を駅へと向かって走り出した。窓の外を流れる街並みが、昨夜とはまた違う表情を見せている。
「先輩」
「はい」
「今度は、私の家に泊まりに来てくれませんか」
その申し出に、すずなは少し目を丸くした。
「紬さんの家にですか」
「はい。まだ一度も、来てもらったことなかったので」
紬の声には少しの照れくさそうな響きがあった。
「行きます。ぜひ」
すずながそう答えると、紬の表情が明るく綻んだ。
「じゃあ来週、予定立てましょうね」
「はい」
駅前に着くと、紬は車を停め、すずなを見送った。
「行ってらっしゃい、先輩」
「行ってきます」
車を降り、駅へと向かう。試練の気配は、まだはっきりとした形を持っていない。それでも二人の間には、確かに何かが積み重なっていた。改札を抜けながら振り返ると、紬の車がまだそこに停まっていた。すずなは微笑みながら、小さく手を振った
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