第31話 残された時間
土曜日の朝、すずなの家で目を覚ますと、隣に紬の温もりがあった。それも当然のように。
「おはようございます。先輩」
紬はすでに目を覚ましていたらしく、すずなの顔をじっと見つめていた。
「おはようございます。紬さん」
すずなはもう驚かなくなっていた。ソファも予備の布団も用意していたはずだったが、結局二人は同じベッドで眠ることになっていた。
「今日は朝から一緒に準備できますね」
紬が嬉しそうに、すずなの腕に抱きついた。
「そうですね。荷物まとめましょうか」
すずなはそう言いながらも、腕に絡みつく紬を振りほどこうとはしなかった。
昼過ぎ、二人は駅前で紬の車に乗り込み、いつもの山道へと向かった。石碑の前に立つと、すずなは鍵を取り出しながら、ふとその残り回数を思い出した。
「紬さん鍵あと何往復でしたっけ」
「今日の分を使うと残り二回半ですね」
その数字に二人は沈黙した。指先で鍵の輪郭をなぞりながら、すずなはその冷たさを確かめるように握り直した。
「本当に少なくなってきましたね」
すずなが鍵をじっと見つめながら呟いた。
「はい。だからその前にちゃんと決めないとですね」
紬の声には、いつもの明るさの奥に真剣さが滲んでいた。
石碑に鍵を差し込み光に包まれると、見慣れた異世界の景色が広がった。
エルフィの家に着くと、すずなは今日買ってきたお土産を差し出しながら、思い切って切り出した。
「エルフィ様あの」
「何」
エルフィは椅子に腰掛けたまま、視線だけをこちらに向けた。
「即座に帰還できたりするスキルが五つの中にあるって聞いたんですけど。それってどれでしょうか」
エルフィは考えるように間を置いた。窓から差し込む光が、膝に置かれたお土産の包みをぼんやりと照らしていた。
「Moon Returnだな」
「Moon Returnがそうなんですね」
すずなはその名前を口の中で繰り返した。前に聞いた時は、ただの名前でしかなかったが、今はその響きにはっきりとした意味を感じるようになっていた。
「それってどのくらいの頻度で使えるものなんでしょうか」
エルフィはしばらく、すずなを見つめていた。膝の上で指を軽く組み直し、それから口を開いた。
「試練をクリアすれば、一度訪れた場所にいつでも瞬時に帰還できる。回数の制限はない」
「回数の制限がないんですね」
すずなはその言葉を繰り返した。喉の奥が、わずかに渇いていくのを感じた。
「ただし発動後は数分間再使用できない。連続では使えない」
「それでも鍵とは違って何度でも使えるってことですよね」
「そうだ」
すずなはその説明を聞きながら、頭の中で何かがはっきりと形を作り始めるのを感じていた。
もしMoon Returnを取得できれば。鍵に頼らなくても、いつでも現実と異世界を行き来できる。それはつまり、生活の拠点をこちらに移したとしても、必要な時にはいつでも戻れるということだった。
仕事のこと、家のこと、これまで積み上げてきた日々のこと。頭の中を次々とよぎっては消えていく。手のひらに、じわりと汗がにじんだ。それでも、迷いよりも先に、ある確信の方が強くなっていた。
「先輩」
紬が隣で、すずなの顔を覗き込んだ。
「先輩今なんか考えてますよね」
「はい。あの」
すずなは息を吸ってから続けた。胸の奥で、心臓がいつもより少しだけ速く鳴っていた。
「私本気でこちらでの生活を考えてみようと思います」
その言葉に紬は大きく目を見開いた。
「先輩……」
「Moon Returnさえ取得できれば鍵がなくなっても行き来できます。それならこっちに拠点を移しても大丈夫かもしれません」
すずなは自分の言葉に、少しずつ確信を持ち始めていた。
「私も」
紬がすずなの手を、そっと握った。その温もりに、すずなの緊張がふっと緩んでいくのが分かった。
「私も、もしそうやって帰れるなら。先輩とずっと一緒にいたいです」
その言葉に、すずなは静かに頷いた。
「じゃあ私たちの目標決まりましたね」
「はい」
二人は顔を見合わせて笑った。
それを少し離れた場所で聞いていたエルフィが小さく呟いた。
「お前ら、本当に面白い」
その声は、いつものように誰にも深くは拾われなかった。
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