第30話 誰も知らない話
木曜日の昼、すずなから紬にメッセージが届いた。
『あの、突然なんですけど。今週、金曜は家に泊まってもらって異世界には土日に行く、っていうのはどうでしょうか』
紬はその文面を、何度も読み返した。
『泊まります!』
考えるより先に指が動いていた。送信ボタンを押してから少し我に返る。
『すみません、勢いで送っちゃいました。本当に、行っていいんですか』
すぐにすずなから返信が届いた。
『はい。ぜひ。金曜の夜から来てもらえたら一緒に準備もできるかなと』
その一文を見て、紬は思わずスマホを両手で握りしめた。
金曜日の夜、紬は指定された時間ぴったりにすずなの家のインターホンを鳴らした。
「はい。どうぞ」
扉が開き、すずなが顔を出した。
「紬さんいらっしゃい」
その顔を見た瞬間、紬は我慢できずに玄関先ですずなの胸に飛び込んでいた。
「わっ。紬さん」
すずなは少し驚きながらも、よろけることなく、その体を受け止めた。
「先輩」
「はい」
「聞いてくれますか私の話」
紬はすずなの胸に顔をうずめたまま、そう切り出した。少し声が震えているのが、自分でも分かった。
「はい。聞きます」
先輩は私の背中を撫でながら静かに答えてくれた。急かすでもなく、ただ待っていてくれる。その気配だけで私は少しだけ勇気をもらえた気がした。
「私の家、こんな環境なんです」
両親は二人とも仕事が忙しい人たちだった。父は商社で母は貿易関係の仕事で、二人とも月の半分は家にいなかった。私が物心つく頃にはもう家に誰かがいる方が珍しかった。
食事はいつもテーブルの上に置かれたお金で、外食かコンビニで済ませていた。小学生の頃はそれが当たり前だと思っていたから、特に寂しいとも思わなかった。友達の家に遊びに行ってお母さんが作った夕飯を家族みんなで食べる光景を見た時、初めてうちとは違うんだと気づいた。
誕生日もクリスマスも、両親からのメッセージとプレゼントだけが届いた。メッセージはいつも忙しい合間に打ったような短いものだった。会えるのは年に数回。それも決まって短い時間だった。
「別に両親のことが嫌いなわけじゃないんです。二人とも優しい人たちだったので。ただ、その優しさがいつもお金とか物でしか届かなくて」
私は先輩の胸に顔をうずめたまま言葉を続けた。
「高校に上がる時、一人暮らしを提案したのは私からでした。多分、自分から言い出せば寂しいって認めなくて済むと思ったんです」
「そうだったんですね」
先輩の声はいつもより少し優しかった。
「両親はあっさり許してくれて。心配する素振りも、あまりなくて。車も簡単に買ってくれました。免許取ったら、好きなの選びなさいって、それだけ」
「自由だった、ってことですよね」
「はい。誰にも何も干渉されなくて」
私は少し笑ってみせた。それがうまく笑えているか自分では分からなかった。
「でも」
「はい」
「時々、無性に寂しくなる時があって。誰かにちゃんと心配されたり待っててもらったりすることが、どういう感覚なのか正直よく分かってなかったんです」
先輩は何も言わず私の背中を撫で続けてくれた。
「だから入学式の朝、道に迷って半べそかいてた時、先輩が声をかけてくれたことすごく覚えてるんです」
「あの時の」
「はい。知らない人なのに当たり前みたいに一緒に歩いてくれて。急かさないで待っててくれて。あんな風に優しくされるの初めてだったので」
私は先輩の胸から少し顔を上げて、その顔を見た。
「それから、先輩のことばかり考えるようになったんです。廊下ですれ違うのを待ったり、図書室で先輩の座る場所を覚えたり」
「私、全然、気づいてませんでした」
「知ってます。先輩鈍いので」
少しだけいつもの調子で言うと、すずなは困ったように笑った。
「話してくれて、ありがとうございます」
「先輩……」
「紬さんのこと、まだ知らないことばかりでしたけど。少しずつ教えてもらえて嬉しいです」
その言葉に、私はまた泣きそうになった。
先輩は少し真剣な表情になった。
「私も紬さんに話したいことがあるんです」
「なんですか」
「最近ずっと考えていることがあって」
先輩は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「私、日本での生活をこのまま続ける意味ってあるのかなって、思うようになったんです」
「先輩……」
「もちろんまだちゃんと結論は出てなくて。仕事もありますし、簡単に決められることじゃないのも分かってます。ただ」
先輩は少し言葉を探すように間を置いた。
「あちらで紬さんと一緒にいられるなら、それでもいいのかもしれないって、そう考えている自分がいて」
先輩の言葉に、私はしばらく息をするのも忘れていた。
「先輩それって」
「まだ迷ってます。でも、紬さんとならどこにいても大丈夫な気がするんです」
その言葉が私の中に静かに染み込んでいった。
「私も」
私は先輩の目をまっすぐに見た。
「私も先輩と一緒ならって、何度も考えたことがあります」
「紬さん」
「一人であの石碑に通ってた時から、ずっと。いつか先輩とここで一緒に暮らせたらいいのに。って」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。ずっと誰にも言えずにいたことを、ようやく口に出せた気がした。
先輩はしばらく何も言わずに、私を見つめていた。それから、そっと私をもう一度抱き寄せてくれた。
「じゃあ、ゆっくり考えていきましょうか。二人で」
「はい」
私は先輩の胸にもう一度顔をうずめた。今度は寂しさからじゃなく、ただこの温もりをもう少しだけ感じていたかったからだった。
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