第3話 落ちていた鍵
あれは、まだ肌寒い季節のことだった。
紬はテントを担いで、地図にも載っていない山道を一人で歩いていた。吐く息がうっすらと白く、熊除けにとリュックに付けた小さな鈴が一歩ごとに控えめな音を立てる。人が滅多に入らない場所を探すのが好きなのは、誰にも気を遣わなくて済むし景色も大抵誰も知らない顔をしているからだ。
その日落ち葉を踏む音が途切れた先にあったのは、ぽっかりと開けた小さな広場だった。真ん中に苔むした石碑が一つだけ佇んでいる。
「何これ」
表面には見たことのない文字がぐるりと刻まれていた。観光地でもなければ案内板もない山の奥に、こんなものがあるのはどう考えてもおかしい。それでも興味には勝てず足は勝手に近づいていた。
石碑の根元で何かがちらりと光る。拾い上げてみるとそれは小さな鍵だった。装飾は簡素なのに作りが妙に精巧で、表面がほのかに光を帯びている。
「落とし物かな」
しげしげと眺めてみても、こんな山奥に人が来る理由が思いつかない。何気なく石碑の窪みにあてがうとカチリと小さな音がして、次の瞬間には光が視界を埋め尽くしていた。光が収まった時、足はまだ地面に着いていない。
「え」
悲鳴を上げる暇もなく体が落ち、リュックの鈴がでたらめに鳴る。受け身を取る余裕もないまま、何か柔らかいものの上に勢いよく着地した。
「ぐえっ」
下から潰れたような声が漏れ、紬は慌てて飛びのいた。
「す、すみません! 大丈夫ですか?」
倒れていたのは幼い少女なのに、なぜか年齢の見当がつかない。少女の背後にはさっきと同じような石碑が立っていて、その向こうに竹林が広がっていた。目を開けた少女は表情をほとんど動かさず、無言のまま紬をじっと見上げている。
「あの……」
「お前、どこから来た」
短く問われ、正直に答えるしかなかった。石碑のこと、鍵を拾ったこと、気づいたらここにいたこと。少女は黙って聞いていたが、話が終わると紬の手の中の鍵に目をやり小さくため息をついた。
「その鍵、私の」
「え」
「落とした。ちっ、私としたことが」
少女は服についた土を払いながら恨めしそうに石碑を見上げる。
「探しに来たら、上から降ってきた」
「……本当にすみません」
それ以上は語らず、行くあてのない紬をしばらく眺めてから少女はぼそりと言った。
「ついてこい」
名前を聞くと短く「エルフィ」とだけ返ってきた。その日から紬はこの少女の世話になった。
街へ向かう道すがら、さっきの落下が気になって尋ねてみる。
「そういえば、なんで宙に浮いてたんですか?」
「転移、初回だけ。着地点がずれる」
「初回だけ?」
「ん。二回目以降は地面にちゃんと着く。最初だけそういうもの」
「じゃあ次からは、ぶつからずに済むんですね」
「その代わり油断するな。石碑の近くには出る。ただ、毎回同じ場所とは限らない」
エルフィはそれだけ言って視線を逸らす。次からはちゃんと地面に立てると分かっただけで少し肩の力が抜けた。
数日過ごすうちに、エルフィがこの世界でもごく限られた実力者なのだと分かってきた。街を歩けば人々の目つきが変わるのに、本人は美味しいものを探してふらふら歩いているだけだ。
街の人たちが彼女を「終焉の導き手」と呼ぶのを聞いたのもその頃だった。思わず噴き出しそうになり、必死に堪えながら本人に言う。
「終焉の導き手って、そんな仰々しい」
「失礼な奴」
そう返す声に怒っている様子はない。
「そんな物騒な二つ名は、私も嫌だ」
あまりに淡々とした口ぶりに、結局堪えきれず笑ってしまった。
「マスターランクなのに、そんなに暇なんですか?」
「暇じゃない。旅してる」
「グルメの旅ですよね」
「何が悪い。マスターランクだからな」
悪くはなかった。口ぶりはそっけないくせに面倒見はよく、帰り方を相談した時もエルフィは何も言わずに鍵を一本差し出した。落としたものとは違う新しい鍵だった。
「これで、五回往復できる」
「五回も、いいんですか」
「落とすなよ」
口の端がわずかに動いた気がしたが、笑ったのかどうか確信は持てない。
それから紬はその鍵で何度もこちらの世界と日本を行き来した。誰にも言わず、いつも一人きりだった。
いつか誰かと一緒に来られたら。
そう思うたびに浮かぶ顔があって、それがいつから同じ顔になったのか自分でもよく分からない。
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