第3話 てへぺろ
見知らぬ道をしばらく歩いた。
楠すずなは、隣を歩く紬の横顔を時々盗み見た。緊張しているのが分かる。いつも通りに振る舞おうとしているのに、口数が少しだけ多い。
「この先に街があります。そこで会わせたい人が」
「はい」
「あ、あと、依頼のこととか、ランクのこととか色々説明することあるんですけど、それは後で」
「分かりました」
すずなは丁寧に頷いた。異世界という言葉すら、まだ実感が追いついていない。それでも紬が案内してくれるなら大丈夫だという気持ちがあった。
街の入り口が見えてきた頃、道の端に小さな人影があった。フードを目深に被り露店で何かを頬張っている。
「あ」
紬が声を上げた。
「エルフィさん」
人影がこちらを向いた。フードの下から覗く顔は幼い。だが纏う空気が明らかに周囲の人々と違っていた。
「戻ったのか」
短い言葉だった。それから視線がすずなの方に動いた。
「……誰だ」
「あ、紹介します。すずな先輩です。今回一緒に連れてきました」
「先輩」
すずなは慌てて頭を下げた。
「楠すずなと申します。紬さんにお世話になっております」
エルフィはしばらく無言ですずなを見ていた。それから小さく頷いた。
「丁寧だな」
「恐縮です」
「変な奴」
悪気はなさそうだった。すずなはどう反応していいか分からず、曖昧に微笑んだ。
エルフィはそれ以上何も聞かず、露店の串焼きに視線を戻した。それを見て、紬が少し口ごもった。
「あの、エルフィさん」
「何」
「実は、その報告があって」
紬の声が少しだけ小さくなった。すずなはその様子に嫌な予感を覚えた。
「鍵、使い切っちゃいました」
一瞬、間があった。
「……は?」
「先輩を連れてくるのに、最後の一回使っちゃって」
紬は両手を合わせて、へらりと笑った。
「てへぺろ、です」
場の空気が凍りついた。すずなはしばらく言葉の意味を処理できずにいた。
「あの、紬さん。それはつまり」
「はい」
「帰れないということですか」
「はい」
すずなの中で、何かが静かに崩れていく音がした。
「え」
「え、じゃないですよ、先輩。私もちゃんと考えてたんですけど、まさかこんなにギリギリだとは」
「紬さん」
「はい」
「私、明日、仕事なんですけど」
「あ」
紬の顔から笑みが消えた。
「あ、忘れてました」
「忘れて……」
すずなは目の前が暗くなるのを感じた。丁寧に生きてきたつもりだった。予定はいつも前もって組んできた。それがまさか異世界に取り残されるという理由で崩れるとは、想像もしていなかった。
「あの……無断欠勤、初めてなんです……」
「先輩、大丈夫です。多分なんとかなります」
「なんとかって」
二人のやり取りを、エルフィは串焼きを頬張りながら黙って見ていた。それから小さく息を吐いた。
「……騒ぐな」
その一言に、二人とも思わず口を噤んだ。
「……新しい鍵、まだ、ある」
エルフィは懐から小さな袋を取り出した。中には鍵が二つ入っていた。それぞれの表面がうっすらと光っている。
「一つで、五往復。全部で十往復」
「そんなに……」
すずなは目を見開いた。紬も驚いた様子で袋を覗き込んでいる。
「いいんですか、そんなに貰って」
「材料、もうない」
エルフィはそれだけ言うと視線を逸らした。
「もう作れない。これで最後」
その言葉の重みに、すずなも紬もしばらく何も言えなかった。
エルフィは袋を紬の手に押し付けるように渡すと、また串焼きに視線を戻した。
「大事に使え」
「ありがとうございます」
紬は袋を大切そうに両手で抱えた。すずなはまだ状況を飲み込みきれないまま、それでも頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします」
「いい」
エルフィは短くそう答えた。それから、ぽつりと呟いた。
「お前らの方が、面白い」
その言葉の意味を、すずなはまだ知らない。
ただ一度帰った後、しばらくの間は帰れない日々が続くことになる。それだけははっきりと分かっていた。




