第2話 てへぺろ
紬はさっきから三回ポケットに手を当てては、何も入っていないのを確かめるように指を離している。
すずなは隣に並んできた紬の横顔を時々盗み見ていた。いつも通りに振る舞おうとしているのに今日はやけに口数が多い。
「この先に街があります。そこで会わせたい人が」
「はい」
「あ、あと依頼のこととかランクのこととか色々説明することあるんですけど、それは後で」
「分かりました」
変わった場所に連れて行きたい。そう誘われたのは先週のことで、まさか文字通り世界が変わるとは思っていなかった。
異世界という言葉にはまだ実感が追いついていない。それでも不思議と怖くないのは、紬が悪いようにするはずがないと思えるからだ。根拠のないその確信だけが足を前に進ませている。
やがて道の両側に木の柵が現れ、土の道が石畳に変わる。荷車を引く人も腰に剣を下げた人も籠いっぱいの果物を抱えた人も、すれ違う誰もが当たり前のようにこの世界で暮らしている。道沿いには屋台が並び始め、焼けた肉と香草の匂いが流れてきた。すずなは朝から何も食べていないことを思い出す。
足が自然と遅くなったのを見逃さなかったのか、手前の屋台から威勢のいい声が飛んできた。
「そこの綺麗なお姉さん! 見ない顔だね」
恰幅のいい女主人が、湯気の立つ焼き菓子を紙に包んで差し出してくる。
「初めて来たんだろう? お近づきの印だ、持っていきな」
「え、あの、そんな。お代は」
「いいからいいから。こんな上品なお客さんは久しぶりでね」
すずなが両手で受け取ろうとしたその時、横から伸びた手が包みをさらっていった。
「ありがとうございます。わたしが預かりますね」
紬はにこやかに銅貨を一枚置くと、すずなの腕を取って歩き出した。
「紬さん、お代はいらないと」
「いいんです。ああいうのはタダでもらうと、次も絶対声かけられるので」
「次、ですか」
「先輩はこの世界の初心者なんですから。知らない人から食べ物もらっちゃダメです」
包みは紬の手の中に収まったまま、一向に渡される気配がない。
「……あの、それは私がいただいたものでは」
「後で半分こしましょう。それと、きょろきょろしてると迷子になりますよ」
「すみません。つい」
謝りながらも視線は街のほうへ吸い寄せられてしまう。
街の入り口の手前、道の端に小さな人影があった。フードを目深に被り露店で串焼きを頬張っている。人通りの多い道なのに、その周りだけ誰も近づこうとしない。
「あ、エルフィさん」
紬の声に人影がこちらを向く。フードの下から覗く顔は幼いのに、目が合った瞬間すずなは理由もなく背筋が伸びた。
「戻ったのか」
短くそう言うと視線がすずなへ移る。
「誰だ」
「紹介します。すずな先輩です。今回一緒に連れてきました」
すずなは慌てて頭を下げた。
「楠 すずなと申します。紬さんにはいつもお世話になっております」
「先輩、今度はちゃんと相手いますよ」
小声で囁かれ、頭を下げたままの肩がほんの少し縮む。エルフィはそのやり取りに構わずしばらく無言ですずなを見ていた。
「丁寧だな」
「恐縮です」
「変な奴」
すずながどう反応していいか分からず曖昧に微笑んだその時、エルフィの目がほんの一瞬だけ細くなった。値踏みするような視線がすずなの足元から頭までを一往復し、すぐに興味を失ったように逸れる。何を見られたのかは分からない。ただ気づけば紬が半歩だけ前に出ていて、すずなの肩先はその背中に隠れていた。
エルフィはそれ以上何も聞かずに串焼きへ視線を戻し、紬がまたポケットに触れる。
「あの、エルフィさん」
「何」
「実は、報告があって……」
消え入りそうになった声を、紬は一度呑み込んでから押し出した。
「鍵、使い切っちゃいました」
「は?」
「先輩を連れてくるのに、最後の一回使っちゃって」
紬は両手を合わせてへらりと笑ってみせた。
「てへぺろ、です」
串焼きを持つエルフィの手が止まり、露店の主人までなぜかこちらを見ている。やがて止まっていた手が動き、エルフィは一口かじってゆっくり飲み込んでから口を開いた。
「次やったら埋める」
淡々とした声に紬が首をすくめる。
「あの、紬さん。それはつまり」
「はい」
「帰れないということですか?」
「はい」
来週までの予定表が一行ずつ消えていく。
「え」
「え、じゃないですよ先輩。最後の一回なのは、ちゃんと分かってたんです。先輩と二人なら、帰れなくてもどうにかなるかなって」
「紬さん」
「はい」
「私、明日仕事なんですけど」
「あ」
紬の顔から貼りつけたような笑みがすっと消えた。
「……忘れてました」
すずなは反射的に鞄からスマートフォンを取り出していた。せめて上司に一報だけでもと思ったのに、画面の右上には圏外の二文字が並んでいる。
朝一番の会議資料に午後の来客対応、机の上に置いたままの付箋だらけの書類の束まで勝手に浮かんできて、誰かが代わりに見てくれるだろうかと考えてしまう。連絡もつかない人の仕事を誰が引き継げるというのか。
「あの……無断欠勤、初めてなんです……」
自分でも情けないほど掠れた声に、紬が慌てて身を乗り出す。
「先輩、大丈夫です。多分なんとかなります」
「なんとかって」
「えっと、体調不良ってことにすれば」
「その連絡ができないんです」
「……ですよね」
「騒ぐな」
小さく息を吐いたエルフィの一言に、二人とも思わず口を噤む。エルフィが懐から取り出した小さな袋には、表面がうっすらと光る鍵が二本入っていた。
「一本で五往復。全部で十往復」
「十往復も……!」
紬の顔がぱっと明るくなる。
「材料、もうない。これで最後」
袋へ伸びかけた紬の指が宙で固まった。
「もう作れない。大事に使え」
押し付けられた袋を紬が両手で抱える。エルフィは串の先をくるりと回し、独り言のように付け足した。
「使い切ったら、帰る道は一つしかない」
「一つって……」
「そのうち分かる」
それ以上は答えない横顔に、すずなは深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします」
「いい」
顔を上げると、紬はまだ袋を見つめていた。さっきまでの焦りとも、おどけた笑顔とも違う顔をしている。
「紬さんは、これからもここに来たいんですよね」
「……はい」
小さいけれど迷いのない返事だった。さっき軽い調子で口にした「帰れなくても」という言葉が、今になってすずなの胸に引っかかる。
それなら、とすずなは胸の内で数を数える。平日は仕事があるから来られるのは週末だけで、帰って、また来て、それで一往復になる。
「週に一度なら、十週間ですね」
口に出してから、それが季節ひとつ分にも満たない長さだと気づいた。紬のリュックで小さな鈴が揺れているのに音はしない。
「……でも、十週間あったら色々できますよ」
顔を上げた紬の明るさが無理をしたものだと、すずなにはすぐ分かった。
「美味しいものも食べられるし、景色が綺麗なところもいっぱいあるし。先輩に見せたいもの、本当にたくさんあるんです」
その声が少しだけ震えていたことには気づかないふりをした。
「お前は」
エルフィが串の先をすずなに向ける。
「帰りたいのか」
明日の仕事のことを思えば答えは決まっているはずなのに、すぐには口が動かない。
「帰らなければいけない、とは思っています」
「帰りたいか、と聞いた」
言葉に詰まるすずなの隣で、紬が息を詰めている気配がした。
「……まだ、分かりません」
正直に答えると、エルフィは串焼きの最後の一切れを口に入れた。
「帰る帰らないより、お前らの方が面白い」
ぽつりと落ちた一言に紬は首を傾げたが、エルフィはそれ以上説明する気配を見せない。
「あの、とりあえず今夜中には、ちゃんと戻れますよね?」
恐る恐る尋ねると紬が指を折り始めた。
「えっと……石碑まで戻るのに結構歩くじゃないですか。それで、街も案内したいし、ご飯も食べたいし、ギルドにも寄りたいし」
折られる指はあっという間に片手では足りなくなった。
「紬さん?」
「……多分?」
その語尾の弱さに、すずなは今度こそ本気で青ざめた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや評価という"応援魔法"を、ぜひ授けてください。
よろしくお願いいたします。




