第2話 落ちていた鍵
あれは、まだ肌寒い季節だった。
紬は一人でテントを担いで、地図にも載っていない山道を歩いていた。人が滅多に入らない場所を探すのが好きだった。誰にも気を遣わずに済む。景色も大抵、誰も知らない顔をしている。
その日見つけたのは、木々に囲まれた小さな広場のような空間だった。
「何これ」
中央に石碑が立っていた。表面には見たことのない文字が円を描くように刻まれている。観光地でもない、案内板もない場所に、こんなものがあるのはおかしい。興味本位で近づいた。
石碑の根元に、何かが落ちていた。小さな鍵だった。装飾は簡素だが、どこか作りが精巧で表面がうっすらと光っている。
「落とし物かな」
拾い上げてしげしげと眺める。誰かが忘れていったにしては、こんな山奥に人が来る理由がない。何気なくその鍵を石碑の窪みに合わせてみた。
カチリ、と音がした。
次の瞬間、光が視界を覆った。
石碑の光が収まったとき、体はまだ宙に浮いていた。
「え」
悲鳴を上げる間もなく落ちる。受け身を取る余裕もなく、何か柔らかいものの上に勢いよく着地した。
「ぐえっ」
声にならない声が、下敷きになった相手から漏れた。慌てて飛びのいた。
「す、すみません大丈夫ですか」
見た目は幼い少女だった。年齢の見当がつかない。目を開けたその子は、無言のままこちらをじっと見つめている。表情はほとんど動かない。
「あの......」
「......お前、どこから来た」
短くそう聞かれた。正直に答えるしかなかった。石碑のこと、鍵を拾ったこと、気づいたらここにいたこと。
少女はしばらく黙って聞いていた。それから、小さくため息をついた。
「......その鍵、私の」
「え」
「落とした。......間抜けだった」
少女はそれ以上詳しくは語らなかった。ただ、行くあてのない紬を見て少しの間の後、こう言った。
「......ついてこい」
その日からその少女に世話になることになった。名前を聞くと、短く「エルフィ」とだけ返ってきた。二つ名があると聞いたときは、思わず笑いそうになった。
吹き出しそうになるのを堪えながら言った。
「終焉の導き手、って......そんな仰々しい」
「失礼な奴」
エルフィはそう言いながらも、怒った様子はなかった。
「そんな物騒な二つ名は、私も嫌だ」
その言い方が、あまりに淡々としていて、また笑ってしまった。
落ち着いた頃、さっきの落下のことを思い出して尋ねた。
「そういえば、さっきなんで宙に浮いてたんですか」
「転移、初回だけ。着地点がずれる」
「初回だけ?」
「ん。二回目以降は地面にちゃんと着く。......最初だけそういうもの」
「じゃあ、次からはぶつからずに済むんですね」
「その代わり油断するな。着地点、毎回同じとは限らない」
エルフィはそれだけ言うと、視線を逸らした。その説明を頭の中で反芻した。次に転移する時は、ちゃんと地面に立った状態で始まるらしい。それだけでも少し安心できた。
数日過ごすうちに分かったのは、エルフィがこの世界でもごく限られた実力者だということだった。周囲の反応が明らかに違う。それでいて本人はといえば美味しいものを探していつもふらふらしている。
「マスターランクなのに、そんなに暇なんですか」
「暇じゃない。旅してる」
「グルメの旅ですよね」
「何が悪い。マスターランクは何をしても許される」
悪くはなかった。むしろ、そのおかげで、元の世界に帰る術を得ることになる。
帰り方を相談したとき、エルフィは何も言わずに一つの鍵を差し出した。前に落としたものとは違う、新しい鍵だった。
「......これで、五回往復できる」
「五回もいいんですか」
「落とすなよ」
少しだけ口の端が動いた。笑ったのかもしれない。確信は持てなかった。
それから、その鍵を使って、何度もこの世界と現実とを行き来した。誰にも言わずに。ただ一人で。
いつか誰かと一緒に来られたら。
そう思うようになったのは、いつからだったか自分でもはっきりとは分からなかった。




