第1話 鈴を鳴らす前に
山道は思ったより長かった。
紬はリュックの肩紐を締め直しながら、後ろを振り返った。少し先を、すずなが歩いている。息を切らすでもなく、それでも一歩一歩、確かめるように。
「すずな先輩、大丈夫ですか。疲れてません?」
「大丈夫です。紬さんこそ、荷物、私が持ちましょうか」
「いいです、いいです。これくらい平気なので」
平気ではなかった。荷物は多めに持ってきている。今回はいつもより長く滞在することになるかもしれないから。
すずなは社会人になっても変わらない。
丁寧すぎるくらい丁寧で、誰かに迷惑をかけることを、いつも真っ先に心配する。
紬が高校生の頃から、ずっとそうだった。
だから旅行に誘うとき、少し嘘をついた。
「今回はちょっと変わった場所に連れて行きたいんです」
「変わった場所、ですか」
「はい。すごいところです」
嘘ではない。ただ、どれくらい凄いかは、まだ言えなかった。
石碑のある場所は地図にも載っていない。紬が偶然見つけ、それから何度も一人で通った場所だった。木々の隙間から差し込む光が、いつもより白く見える。ここに来るたび、そう感じる。
すずなの手をそっと取った。
「紬さん?」
「危ないので。ここから、足元悪いですから」
「そうなんですか。ありがとうございます」
すずなは疑わない。手を繋ぐ理由を、いつも素直に受け取る。それが少し狡いと分かっていても、手を離せなかった。
石碑は木々に囲まれた小さな広場に、ぽつんと立っていた。表面には、読めない文字が円を描くように刻まれている。中央には小さな窪みがあった。
「これは......」
すずなが石碑に近づこうとする。その手を引いて止めた。
「すずな先輩」
すずなが振り返る。リュックから小さな鍵を取り出した。表面がうっすらと光っている。
「これから話すこと、多分、信じてもらえないと思うんですけど」
すずなは何も言わずにこちらを見ていた。
鍵を石碑の窪みに合わせる。
「私、この石碑の向こうに何度も行ったことがあるんです」
「向こうというのは?」
「異世界です」
言ってしまうと拍子抜けするくらい、あっさりした言葉だった。すずなは瞬きをして、それでも丁寧な口調を崩さず聞いた。
「その冗談、というわけではなく」
「本当です。信じてもらえなくてもいいので」
鍵を握る手に、少し力を込める。
「すずな先輩と一緒に行きたくて。今日ここに連れて来ました」
風もないのに、木々がざわめいた。石碑に刻まれた文字が、淡く光り始めている。すずなはその光を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「紬さんが危険な目に遭っていたかもしれない、ということですよね」
最初に口にしたのは、それだった。自分のことより先に、紬の心配をする。思わず笑いそうになった。そういうところが好きだった。
「大丈夫でした。ちゃんと無事に戻ってきてたので」
「......そうですか」
小さく息を吐き、それから石碑に向き直る。
「連れて行ってもらっても、いいですか」
「先輩」
「紬さんがそんなに大事そうに話すことなら、きっと私にも知る資格があると思うので」
その言い方も、すずならしかった。怖がるでも、はしゃぐでもなく、ただ気持ちを汲もうとする。
鍵を石碑に深くはめ込んだ。
「行きましょう、先輩」
光が二人を包み込んだ。
目を開けると、景色が違っていた。
すずなはしばらく声が出なかった。空の色が見たことのない青さをしている。二つの太陽があるわけでもないのに、光の質が、どこか違って感じられた。
「先輩、大丈夫ですか?」
その声で我に返る。
「大丈夫です。ただ、少し......驚いていて」
周囲を見渡す。木々は、見覚えのある種類とそうでないものが混ざっていた。遠くに、見たこともない形の城が見える。
「本当に来てしまったんですね」
「はい。ここが、私が通っていた場所です」
紬の表情には、少しの緊張と、それ以上の何かがあった。その何かの正体は、まだ分からない。
「紬さんはここで何をしていたんですか」
「依頼をこなしたり、色々です。あと」
言葉が、そこで切れた。
「先輩に会わせたい人がいます」
「私にですか」
「はい。多分これからお世話になる人なので」
口調がいつもよりわずかに硬い。その硬さの理由は、まだ知らなかった。ただ、いつになく真剣な顔をしていることだけは分かった。
「分かりました。紬さんについて行きます」
丁寧に頭を下げる。
「よろしくお願いします」
その言葉に思わず噴き出した。
「先輩、そこは頭下げるところじゃないですよ」
「あ、そうですよね、すみません」
二つの太陽のない空の下、二人は見知らぬ道を歩き始めた。帰りの鍵が残っていないことを、すずなはまだ知らない。




