第1話 鈴を鳴らす前に
帰りの鍵は、もう残っていない。
正確には紬の手のひらにある一本が最後だった。うっすらと光を帯びたこの鍵が使えるのはあと一回きりだ。これを石碑にはめ込めば向こう側へ渡れる代わりに、こちらへ戻ってくるための分はどこにも残らない。
木々に囲まれた小さな広場の真ん中に、その石碑はぽつんと立っている。読めない文字が円を描くように刻まれ、中央に空いた鍵の形の窪みが手の中の一本を待っているように見えた。
熊除けにとリュックに付けた小さな鈴は、ここまでの山道で一歩ごとに控えめな音を立てていた。足を止めた今は黙っているはずのそれが、風のない場所でかすかに鳴る。
「紬さん?」
隣を見るとすずながこちらを覗き込んでいた。長い山道を登ってきたばかりなのに息ひとつ乱していない。空いた方の手でハンカチを額に当てる仕草まで丁寧だった。
「さっきから少し、顔色が優れないように見えるんですけど」
「平気です。ちょっと緊張してるだけなので」
平気ではなかった。
旅行に誘ったとき紬は嘘をついた。「ちょっと変わった場所に連れて行きたいんです」と言っただけで、行き先がどこなのかは一言も話していない。すずなは何も聞かずに頷き、休日の予定を空け、地図にも載っていない山道を文句ひとつ言わずについてきてくれた。社会人になっても変わらない。高校で出会った頃からずっと、自分のことより先に誰かの心配をしてしまう人だ。
最後の坂にさしかかったところで、紬はすずなの手を取った。
「危ないので。ここから足元悪いですから」
「そうなんですか。ありがとうございます」
すずなは疑わない。手を繋ぐ理由をいつも素直に受け取ってしまう。それが狡いと分かっていても、紬はその手を離せないままここまで来てしまった。
だからこそ何も言えなかった。
石碑の文字に誘われるように、すずなが一歩前に出る。繋いだ手が引かれ、紬はとっさに握り返して引き止めていた。
「すずな先輩」
「はい」
「これから話すこと、多分信じてもらえないと思うんですけど」
すずなは指先をほどこうともせず黙って続きを待っている。紬は鍵を握る指に力を込め、一度だけ唾を飲み込んだ。
「わたし、この石碑の向こうに何度も行ったことがあるんです」
「向こう、というのは」
「異世界です」
口にしてしまうと拍子抜けするほどあっさりした響きだった。何度も頭の中で練習した言葉なのに、声に出せばたった五文字で終わってしまう。すずなは二度まばたきをしたきり、笑いもせず呆れもせず紬の顔から目を逸らさなかった。
「その、冗談というわけではなく?」
「本当です。偶然ここを見つけて、それから一人で何度も通ってました。信じてもらえなくてもいいので」
鍵を石碑の窪みに合わせると、刻まれた文字がかすかに明滅した。風もないのに木々がざわめき、足元の草がわずかに揺れる。すずなはその光をしばらく見つめ、それから紬へと視線を戻した。
「紬さんが、危ない目に遭っていたかもしれないということですよね」
最初に出てきたのがそれだった。異世界という言葉への驚きより、自分がこれからどうなるかより先に紬の身を案じている。胸の奥がじんわりと温かくなる。こういうところがたまらなく好きなのだ。
「大丈夫でした。ちゃんと毎回、無事に戻ってきてたので」
「……そうですか」
すずなは小さく息を吐き、繋がれたままの手に視線を落とした。やがて顔を上げたとき、その目にはもう迷いの色がなかった。
「連れて行ってもらっても、いいですか」
「先輩」
「紬さんがそんなに大事そうに話すことなら、きっと私にも知る資格があると思うので」
その言い方がどうしようもなくすずならしくて、紬の喉の奥が熱くなった。
(これが最後の一回分だと知っても、先輩は同じことを言ってくれるだろうか)
鍵を奥へ押し込む手がほんの一瞬だけ止まる。答えを確かめる勇気はどこを探しても出てこなかった。
「行きましょう、先輩」
鍵が窪みの底に届いた瞬間、紬は息を呑んだ。
一人で通っていた頃は刻まれた文字の端から淡い光が滲み、足元から白く包まれて終わりだった。今は違う。円を描く文字がひとつずつ順に灯っていき、まるで誰かが古い本の頁を一枚ずつめくっているように見える。光は二人を等しく包もうとはせず、すずなの方へ吸い寄せられるように伸びていった。
すずなは光る文字を見つめたまま小さく首を傾げた。
「今、少しだけ読めた気がしたんですけど」
紬は耳を疑った。何度ここに通っても、あの文字は一文字だって読めたことがない。
聞き返す暇はなかった。光が二人を呑み込み、リュックの鈴がそれまでとはまるで違う澄んだ音をひとつ鳴らす。
足の裏に伝わる感触が変わっていた。
山道の硬い土ではなく柔らかく沈む草を踏んでいる。吸い込んだ空気には日本では嗅げない甘い匂いが混じり、鳥はこちらの世界の節回しで鳴いている。遠くの丘の向こうには城の尖塔が覗いていた。何度来ても、この最初の一呼吸だけは慣れない。
隣ですずなの足が一拍遅れて草を踏み、体がふらりと傾いた。紬はとっさにその腕を支える。すずなはしばらく声を出せずにいた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。少し、状況の整理に時間をいただければ」
異世界の地を踏んでもその丁寧さだけは変わらないらしい。紬は緩みそうになる口元を引き締め、繋いでいた手をそっと離し、すずなに向き直った。
「先輩に会わせたい人がいます」
「私に、ですか」
「はい。多分、これからすごくお世話になる人なので」
自分でも口調が硬くなっているのが分かった。すずなは少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も聞かずにこちらを見つめ返してくる。
「分かりました。紬さんについて行きます」
すずなは姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
誰もいない一本道に向かって。
紬はとうとう堪えきれずに噴き出した。
「先輩、そこは頭下げるところじゃないですよ。まだ誰もいないので」
「あ、そうですよね。すみません」
顔を上げたすずなは耳の先をほんのり赤くして視線を彷徨わせる。
歩き出したその背中を追いながら、紬は空になった手のひらを握り込んだ。
(ごめんなさい、先輩。帰り道のことは、まだ言えそうにないです)
リュックの鈴は、もう鳴らなかった。
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