第157話 北の魔女
しばらくすると、エルフィからかなり離れた場所に、歯車のような魔法陣が浮かび上がった。
光の中から、まずレインが姿を現す。その隣にもう一人、淡い青の外套を纏った背の高い女性が立っていた。北から呼ばれたクリスタだろう、とすずなが思うより早く、女性は辺りを見回して声を張り上げた。
「エルフィちゃーん!」
その声を聞いた瞬間、すずなの腕の中でエルフィの体がびくりと跳ねた。肩を支えていたはずのエルフィが、驚くほどの素早さですずなの背中側へ這うように回り込んでいく。
「エルフィさん?」
「黙っていろ」
小声で釘を刺され、すずなは紬と心春と顔を見合わせた。さっきまで膝をついて息を切らしていた人とは、とても思えない動きだった。
「あれ?」
女性が首を傾げ、きょろきょろと視線を巡らせる。その目が、すずなたちの背後でぴたりと止まった。
「あ、いたわ」
次の瞬間、女性の姿がふっとぶれた。すずなが瞬きをした時には、もう目の前の光景が変わっていた。すずなたちのすぐ傍らに氷でできた椅子が据えられ、女性がその上に優雅に腰掛けている。膝の上には、なぜかエルフィが抱え上げられて乗せられていた。
「えっ」
「い、今、何が……」
あまりに一瞬の出来事に、すずなも紬も心春も、言葉を失ったまま立ち尽くした。
「あなたたちが、エルフィちゃんの愛弟子ね」
女性はこちらへ向けて、にっこりと微笑んだ。
「私はクリスタ。エルフィちゃんを愛してやまない、水魔法の使い手よ」
「は、初めまして。すずなです」
「紬です」
「心春です」
三人が慌てて頭を下げる間も、膝の上のエルフィは身動きひとつ取れずに固まっていた。
「エルフィ、すまない」
レインが苦笑しながら肩をすくめる。
「なるべく離れた場所に出たんだがね。無駄だったようだ」
「だから呼びたくなかったんだ。下ろせ」
エルフィが低い声で抗議する。
「いやよ」
クリスタは涼しい顔で即答した。
「いつも逃げ回ってばかりなんだもの。話なら聞くわ。このまま話して」
膝の上から降ろす気配は、微塵もなかった。少し離れた場所でその光景を見ていたバルドが、こらえきれずに噴き出す。
「エルフィのあんな姿、初めて見たぞ」
「言うな」
エルフィが恨めしそうに睨みつけたが、バルドは口元を手で覆い、顔を背けたまま笑いを噛み殺していた。
クリスタの腕の中で、エルフィはしばらく身じろぎして抜け出そうとしていた。けれど、その腕を押し返す力は弱く、やがて諦めたようにげんなりと息を吐く。
その様子に、クリスタの笑みがほんの一瞬だけ消えた。抱えた腕越しに、エルフィの体の震えが伝わったのかもしれない。クリスタは何も言わず、エルフィの背に回した腕の位置をそっと直した。
「南の綻びに、Thorn bound Fateが重なった」
抱え上げられたまま、エルフィが渋々といった様子で説明を始める。
「巨躯の魔物と、大量の黒い蔓が出た。蔓はすずなが払い、魔物は私が殲滅した。だが、裂け目そのものはまだ塞がっていない」
「あら、そんな大事だったの」
クリスタは軽い調子で相槌を打ちながらも、視線だけはわずかに鋭くなっていた。
「東と西でも、同じ頃に異変が起きている」
「それで、私に何をさせたいの?」
「裂け目の封鎖だ。私の力では焼き払えても、閉じることまではできない」
「あなたが更地にした後を、私に片付けさせようってわけね」
クリスタがくすりと笑う。
「いつものことじゃない」
「文句があるなら、断ってもいい」
「言ってないでしょう」
クリスタは立ち上がると同時に、ようやくエルフィを地面に降ろした。降ろされたエルフィはふらつく足を踏ん張り、居心地悪そうに外套の裾を整える。すずながそっと隣に寄り添うと、エルフィは何も言わずにその肩へ半分だけ体を預けた。
「レイン、あなたも手伝ってくれるわよね」
「もちろん。そのために連れてきたんだからね」
レインが軽く頷き、クリスタと並んで亀裂へ向き直る。
「久しぶりに、二人でやるとしようか」
「そうね。合わせてちょうだい」
レインが手を掲げると、周りの空気がわずかに歪んだ。クリスタもまた、両手をまっすぐ前へ伸ばす。
「氷界停滞」
二人の声が重なった瞬間、亀裂を中心に、地面から真っ白な霜が一気に広がっていった。焼け跡も、残っていた蔓の燃えかすも、霜に覆われて白く塗り替えられていく。吐く息が白く濁り、鼻の奥がつんと痛んだ。
「時間が……」
紬が呟いたとおり、亀裂から漏れ出す闇の流れが目に見えて緩やかになっていく。足元の草の葉先までが、霜をまとったまま動きを止めていた。
心春が両腕をさすりながら、白い息を吐く。
「すごい寒さです……」
「あれだけの範囲を一度に凍らせるなんて、想像もつきません」
紬も驚いた様子で、亀裂の方を見つめていた。真っ白に凍りついた景色の中で、宙に残った闇の筋だけが、かすかに脈打つように蠢いている。
「これで、しばらくは持つ」
レインが額の汗を拭いながら言った。クリスタは凍った亀裂を一瞥し、それからくるりと振り返る。
「あとは、あなたの仕事よ。エルフィちゃん」
その目はもう笑っておらず、すずなの肩にもたれたままのエルフィを、まっすぐに見据えていた。




