第156話 終焉の導き手
フィーネとセレアが同時に両手を掲げると、巨躯の周りの空気がたわむように揺らいだ。踏み出しかけた前脚がわずかに沈み、魔獣の動きが目に見えて鈍っていく。
「すずなさん、今です!」
フィーネの声に応じて、すずなが重ねるように言葉を紡ぐ。
「停止」
すずなの魔力が二人の時空魔法に食い込み、巨躯の動きがぴたりと止まった。立ち昇っていた瘴気までが、宙で固まったように揺らぎを失う。
「長くは持ちません!」
セレアの額に汗が滲む。三人がかりで押さえ込んでも、巨躯の内側で何かがもがいているのが、すずなの手のひらにまで伝わってきた。
「今しかない」
エルフィが低く告げ、バルドに向き直った。
「下がっていろ」
「なに……?」
バルドが一瞬、言葉を失う。エルフィの纏う空気が、これまでとは明らかに違っていた。
「全員、周辺から退避しろ!」
バルドの怒鳴り声に、実力者たちが一斉に後方へと駆け出していく。フィーネとセレアが術を保ったまま後ずさり、紬と心春はすずなの腕を引くようにして距離を取った。
「先輩、エルフィさんは何をするつもりなんですか」
紬の問いに、すずなは答えられなかった。ただ、以前に聞いた終焉の導き手という二つ名が、頭をよぎった。マスターランクのエルフィがそう呼ばれる理由は、ある広域の殲滅魔法にあると聞いていた。実際に目にした者は、マスターランクと一部の高ランクの冒険者しかいないという。
「本当に使うところ、初めて見ます」
心春が緊張した面持ちで呟いた。肩の上のフィンも、心春の髪にしがみついて小さくなっている。ガイルとリンドウも、遠く離れた場所から固唾を呑んで見守っていた。
エルフィが両手を高く掲げる。
「Annihilation End」
短い一言を合図に、エルフィの周りに何十もの魔法陣が同時に展開された。幾重にも重なり合う光の紋様が、亀裂を中心に広がっていく。
視界が一瞬、闇に覆われたかと思うと、その中心にわずかな光が生まれた。光は瞬く間に膨れ上がり、次の瞬間には全てを呑み込む閃光へと変わる。
「うわっ」
誰かの声が、光にかき消されていった。
耳鳴りだけが残り、しばらくは自分の息遣いさえ聞こえなかった。ようやく視界が戻ってきた時、そこにあったはずの巨躯も、亀裂の周りを埋め尽くしていた魔物の群れも、何一つ残っていなかった。地面には焼け焦げたような跡が広がり、鼻の奥を刺すような焦げた匂いが漂っている。その真ん中で、エルフィが崩れ落ちるように膝をついた。
「エルフィさん!」
すずなが真っ先に駆け寄り、紬と心春もすぐ後に続いた。
「大丈夫ですか」
肩を支えると、エルフィの息は荒く、額には玉のような汗が浮かんでいた。
「問題ない」
短く答える声にも、隠しきれない疲労が滲んでいる。バルドが恐る恐る焼け跡に近づき、目を見張った。
「一撃で、全部……」
周りの実力者たちも、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。すずなが顔を上げると、亀裂のあった場所には、まだかすかな闇の裂け目が残っていた。手のひらほどの細い筋が宙に浮かび、時折、黒い息を吐くように揺らいでいる。
「まだ終わらんか」
エルフィが掠れた声で呟いた。
「北だ。奴を呼ぶしかあるまい」
「北の……?」
紬が問い返す間もなく、エルフィは続けた。
「レインも要る」
肩で息をしながら、エルフィは懐から小さな銀色の印を取り出し、何もない空間へ向かって声を張った。
「レイン!」
次の瞬間、目の前に歯車のような形をした魔法陣が浮かび上がった。修行の間、レインの指先で何度も見てきた紋様に、すずなは思わず息を呑む。レインが時の理で結んだ呼び出しの印を、ごく一部の者にだけ預けているという話を、いつか本人から聞いたことがあった。
魔法陣の中心に、映し出されるようにしてレインの姿が浮かぶ。
「なんだい、エルフィ。君の方から呼ぶとはね」
「状況はどうだ」
エルフィが短く問う。
「東の応援に出ていたんだがね。ついさっき、赤い光の粒が降ってきて、蔓はきれいに消えたよ」
レインが飄々とした調子で答えた。すずなと紬が、思わず顔を見合わせる。
「そうか」
エルフィは目を閉じ、短く息をついた。
「北のクリスタと、お前の力が要る。連れてきてくれ」
「クリスタを? あの氷漬けの女王を、わざわざかね」
レインが片眉を上げる。
「エルフィがそこまで言うとは、よほどのことらしい」
「南の裂け目が、まだ塞がりきっていない」
エルフィは目を細め、宙に残る闇の筋を見やった。
「焼き払うだけでは、根が残るということだ」
その言葉に、レインの表情がわずかに引き締まった。
「分かった。すぐに向かおう。君はそれまで、少し休んでいたまえ」
映像が揺らぎ、歯車の魔法陣はほどけるように薄れていった。
エルフィは膝をついたまま、まだ浅い息を繰り返している。すずなは支えていた肩から手を離さず、もう片方の手でそっとエルフィの背をさすった。外套越しに伝わってくる体は思っていたよりずっと細く、小刻みな震えがなかなか止まらなかった。




