第154話 目覚め
瞼がゆっくりと開くと、すぐ目の前に紬の顔があり、唇が触れる寸前の近さに、すずなは思わず瞬きをした。
「え」
「わっ」
紬が弾かれたように飛び退いた。頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「紬さん、何を……?」
「い、いや、その」
紬が両手をわたわたと振り回す。
「眠れる森の美女なら、キスしたら目覚めるかと……試練の名前的にも、それらしいかなって……」
言い訳を並べる声が、どんどん小さくなっていく。周りにいた冒険者たちの間から、こらえきれない笑い声が漏れた。
「本当に目覚めたのは、それより前だったみたいだがな」
エルフィが口元を緩めながら言う。
「エルフィさん!」
紬が真っ赤な顔のまま抗議した。そのやり取りに、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「すずな、起きた! ミハル、すずな起きたよ!」
心春の肩からフィンが飛び出し、すずなの頭の上をくるくると回った。心春は胸の前で両手を握りしめたまま、ほっとしたように長い息を吐く。
「よかった……本当によかったです」
エルフィがすずなの前にしゃがみ込み、目を覗き込んだ。
「大丈夫なのか、すずな」
「もう大丈夫です」
すずなはゆっくりと体を起こしながら答えた。手足に力が戻ってくるのが分かり、頭の中も驚くほどはっきりしている。
「先輩、本当に心配したんですから」
紬が涙目になりながら、すずなの袖をぎゅっと掴んだ。まだ頬の赤みは引いていないのに、目元だけが今にも崩れそうに揺れている。
「心配をおかけしました」
すずなは紬と心春に向けて頭を下げ、それから紬の顔をまっすぐに見た。
「ずっと、呼んでくれていましたよね」
「えっ」
「聞こえていました。その声で、帰り道が分かったんです」
紬は口を開きかけ、何も言えないまま、赤い顔をうつむけた。その様子を見て、バルドが豪快に笑う。
「無事なら何よりだ。だが、まだ片付いちゃいないぞ」
バルドの言葉に、すずなは周りを見渡した。黒い蔓はまだ地を這い、亀裂の方からは魔物の唸り声が途切れずに届いている。
「どれくらい眠っていたんですか」
「半刻ほどだ。だが、その間にもいろいろとあった」
エルフィは東西で起きた異変と、南のギルドを通して応援を募ったことを手短に伝えた。すずなは話を聞くうちに、表情を引き締めていく。
「東と西でも……」
「お前の試練が始まったのと、ほぼ同じ頃だ。無関係とは思えん」
すずなは唇を引き結んだ。眠っている間に何があったのか、まだうまく言葉にはできない。それでも、目を覚ました今の自分が何をすべきかは、不思議なほどはっきりしていた。
その時、胸の奥から一つの名前が浮かび上がってきた。誰に教えられたわけでもないのに、それが自分の内側でひっそりと形を結んでいたもののように感じられる。あの部屋で、もう一人の自分が握っていた手の感触が、まだ指先に残っていた。
「私にできることがあるなら、すぐにやります」
すずなは立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。
「行きます!」
高く掲げた手のひらの先、頭上に巨大な光の魔法陣が浮かび上がる。
「Rose Fall」
その名を口にした瞬間、魔法陣から無数の赤い光の粒が零れ落ち始めた。花びらが舞い散るように、辺り一面へ降り注いでいく。
「なんて綺麗な……」
リエラが息を呑んだ。
赤い光の粒に触れた黒い蔓が、端から音もなく枯れ落ちていく。地面を覆っていた不気味な黒さが、光の降り注ぐ場所から順に消えていった。
「蔓が、消えていきます!」
紬が声を弾ませる。
亀裂の周りを覆っていた蔓も、光を浴びるたびに次々と崩れていった。長い眠りがほどけていくように、辺りの空気そのものが軽くなっていくのが分かる。ガイルとリンドウも、思わず手を止めてその光景に見入っていた。
「すごいもんだな」
「これが、すずなさんの力ですか」
二人が呟く傍らで、フィーネとセレアが顔を見合わせる。
「左翼の先まで、光が届いています」
「蔓の勢いが、目に見えて弱まってきました!」
左翼を守っていた面々からも、次々と報告が飛んでくる。右翼のミナとリナも、降り注ぐ光の粒を見上げていた。
「わたしたちの方まで、綺麗な光が来てます〜」
「なんだか、気持ちまで軽くなる感じがします〜」
二人の声にも、いつもの緩さが戻り始めていた。
エルフィが亀裂の方へ目を向ける。
「綻びから漏れていた気配も、薄くなってきている」
その言葉どおり、亀裂から溢れていた重苦しい気配が少しずつ引いていった。魔物の湧き出す勢いも、目に見えて鈍り始めている。
「奥の方、おとなしくなってきたな」
バルドが目を細めて呟いた。
「まだ油断はできん。だが、流れは変わった」
エルフィの言葉に、周りの緊張がわずかに緩む。心春がすずなの隣に並び、心配そうに顔を覗き込んだ。
「すずなさん、無理はしないでくださいね」
「はい。ありがとうございます、心春さん」
すずなは頷き、降り注ぐ赤い光を見上げた。花びらのような光の粒は、すずなの肩にも、紬の髪にも、心春の手のひらにも分け隔てなく降りてきて、触れたそばから淡く溶けていく。張り詰めていた戦場で、すずなが初めて息をつけた時間だった。




