第153話 もう一人のわたし
伸ばした指先が人影の手に触れた瞬間、闇がほどけるように消え、足の裏に畳の感触が戻ってきた。
古い畳の匂いが鼻をくすぐる。壁際には小さな卓袱台があり、その向こうには二人並べば肩がぶつかりそうな狭い台所が続いている。流しの横には洗ったまま伏せられた茶碗が二つ並んでいたが、片方はもう使われることがないと、すずなは知っていた。
高校を卒業する前の冬まで、母と二人で暮らしていたアパートの一室だった。母がいなくなった後も、すずなはこの部屋で一人の毎日を送ってきた。
「ここは」
呟いた声が、思っていたよりも幼く響いた。慌てて自分の手を見下ろすと、袖口から覗く手首は細く、着ているのは高校の制服だった。
背後で畳の軋む音がして振り返ると、もう一人の自分がそこに立っていた。顔立ちも背格好も、鏡で見慣れた今の自分と変わらない。ただ、こちらを見つめる目だけが、すずなの知らない色をしていた。
「やっと来た」
もう一人のすずなが、小さく息をついた。
「待ちくたびれちゃった。呼んでも、なかなか来ないんだもの」
「あなたは、誰なんですか」
「私は、あなた。それ以上の説明、いる?」
柔らかい声なのに、どこか突き放すような響きがあった。もう一人のすずなはすずなの顔をまじまじと眺め、それから少しだけ口の端を上げる。
「自分にまで、そんなに丁寧に話すんだね」
「それは、癖なので」
「知ってる。私の癖でもあるから」
もう一人のすずなは卓袱台の前に腰を下ろし、向かいを指さした。すずなは言われるままに座り、膝の上で手を揃える。
「ここがどこか、分かるよね」
「母と暮らしていた部屋です」
「そう。それで、あなたが一番怖かった頃の部屋」
もう一人のすずなは、伏せられた二つの茶碗へ目を向けた。
「お母さんがいなくなって、茶碗を一つしか使わなくなった頃。あなた、もう一つを片付けられなかったでしょう」
胸の奥がずきりと痛んだ。母の茶碗を食器棚の奥へしまえるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。しまってしまえば、本当にいなくなったと認めるような気がしていた。
「今のあなたは、たくさんのものを持ってる」
もう一人のすずなが、指を折りながら数えていく。
「紬さん。エルフィさん。心春さん。ギルドの人たち。帰る家に、明日の約束」
「はい」
「だから聞きたいの」
真っ直ぐな視線が、すずなを射抜いた。
「失うのが、怖くない?」
すぐには答えられなかった。怖くないと言えば嘘になる。けれど怖いと口にしてしまえば、今の毎日が足元から崩れてしまいそうな気がした。
「試練はね、その人の一番深いところにあるものを映すんだって」
もう一人のすずなは膝を抱え、ぽつりと続けた。
「お母さん、最後は眠るみたいに穏やかな顔をしてたよね。あの後、この部屋で一人になって、このまま私も眠り続けて、目を覚まさなければ何も感じなくて済むのに、って。そう思ったこと、一度もない?」
否定しようとして、できなかった。誰もいない部屋に帰り、一人分だけ作ったはずのご飯を半分残す。声をかけてくれる人のいない夜に、布団の中で目を閉じる。あの頃、明日が来なければいいと思った夜が、確かにあった。
「……あった、と思います」
小さく認めると、もう一人のすずなは責めるでもなく頷いた。
「それでいいの。怖いのは、当たり前だから」
「当たり前、ですか」
「だって、あなたは一度、全部なくしてるんだもの」
もう一人のすずなは、卓袱台の木目を指でなぞった。
「じゃあ、次の質問」
声の調子が、わずかに変わる。
「もし、また誰かを失うとしたら。紬さんか、ほかのみんなか、どちらかしか守れないとしたら。あなたなら、どうするの?」
息が止まり、すずなは膝の上で手を握りしめた。
「そんなこと」
「起きないって言える? 今、外で何が起きてるか、あなたも分かってるでしょう」
すずなは唇を噛んだ。眠りに落ちる直前、亀裂から溢れ出す魔物と、地を這う黒い蔓を見た。自分を呼ぶ紬の声も聞いた。あの場所には紬も心春もエルフィも、名前を覚えたばかりの冒険者たちもいる。
「両方、守ります」
「どうやって?」
「それは、これから考えます」
「答えになってない」
もう一人のすずなが、ふっと笑った。意地の悪い笑い方ではなく、ずっと前から答えを知っている人が、困った顔の相手を眺めるような笑みだった。
「いいよ。それは、今すぐ答えられなくても」
「え」
「本当に聞きたいのは、こっち」
もう一人のすずなは卓袱台に両手をつき、身を乗り出した。
「あなたは、どうしたいの?」
短い問いだった。それなのに、すずなはさっきよりもずっと深く言葉に詰まった。
「どうしたい、というのは」
「そのまま。あなた自身が、どうしたいのか」
「皆さんの役に立てるなら、私は」
「ほら、また」
もう一人のすずなが、すずなの言葉を遮った。
「皆さんの役に立てるなら。紬さんが行くなら、ご一緒します。迷惑をかけないように、頼まれたことはきちんと。あなた、いつもそう」
石碑の前で紬に尋ねられた日のことが、ふいに蘇った。来週も来てくれますか、と細い声で聞いた紬に、すずなは紬さんが行くなら、と答えた。紬は一瞬何か言いたそうに唇を動かし、それからすぐに笑顔を作っていた。
「紬さん、言ってたよね。どうしたいのって、聞かれたことは一度もないって」
紬の部屋の長椅子で、膝を抱えて話してくれた夜の声が耳の奥に残っている。あの時、すずなは紬のために胸を痛めた。けれど自分自身に同じことを聞いたことが、一度でもあっただろうか。
「あなたも同じだよ。誰にも聞かれなかったし、自分でも聞かなかった。欲しがらなければ、誰にも迷惑をかけずに済むから」
「でも、それは」
「悪いことじゃない。お母さんを困らせたくなかったんだもの。私だって、そうだった」
もう一人のすずなの声が、少しだけ柔らかくなる。
「でもね。眠る前に、言いかけたでしょう。紬、さん……私……って」
すずなは目を見開いた。紬の顔を見上げながら口にしかけた言葉の続きを、すずな自身もまだ知らずにいた。
「何て言おうとしたの?」
「分かりません」
「本当に?」
もう一人のすずなが、すずなの手をそっと取った。自分と同じ大きさの、自分と同じ形をした手だった。
「目を閉じて。考えるんじゃなくて、思い出して」
言われるままに目を閉じると、瞼の裏に紬の顔が次々と浮かんできた。入学式の朝に半べそで路地に立っていた顔も、初めて訪れた異世界で手にした焼き菓子を半分こにして、包みに丸い字を添えてくれたことも、卒業式の日にリボンを直した腕へ泣き笑いでしがみついてきた顔も、帰れなくなればいいと願っていた本音を暴かれて震えていた顔も、どれも紬だった。
両親を見送ってから、ずっと一人で立っていなければいけないと思っていた。誰かに寄りかかることも、何かを欲しがることも、自分には許されていないような気がしていた。それなのに紬は、すずなが何ひとつ欲しがらないうちから、当たり前のように隣にいてくれた。
「帰りたい」
気づけば、口からこぼれていた。丁寧な言葉は、どこかへ置き忘れてしまったようだった。
「紬のところに、帰りたい。もう、一人の部屋には戻りたくない」
声にした途端、胸の奥でずっとつかえていたものがほどけていく。
「やっと言えた」
目を開けると、もう一人のすずなが泣き出しそうな顔で笑っていた。
「それが、あなたのどうしたい、だよ」
「でも、さっきの質問には、まだ」
「うん。そっちの答えは、まだ聞いてない」
もう一人のすずなは、すずなの手を握ったまま、ほんの少しだけ目を伏せた。
「だから、また来るね」
その時、遠くから声が聞こえた。
「先輩」
水の底から響くような、かすかな声だった。それでも確かに、こちらへ向かって呼びかけている。
「先輩。先輩、聞こえますか」
声は途切れることなく、何度もすずなを呼び続けていた。
「ずっと呼んでるよ。あの子、一度も休んでない」
もう一人のすずなが、握っていた手をゆっくりと離した。
「行って。帰り道は、あの声が教えてくれる」
「あなたは」
「ここにいる。あなたの中に、ずっと」
その姿が、光に溶けるように薄れていく。
「待ってください」
伸ばした手は空を切った。視界が白く染まり、体がふわりと浮き上がる。畳の匂いが遠ざかり、代わりに土と草の匂いが近づいてきた。
「すずな!」
紬の声が、今度ははっきりと届いた。すずなの瞼が、ゆっくりと開き始める。




