第152話 伝令
白み始めた空は、次第に薄明るさを増し始める。すずなを後方へ移してからも、前線では戦いが続いていた。様子を確かめに戻ってきたエルフィがすずなの傍らに膝をついた時、遠くから馬の蹄の音が近づいてきた。
「伝令です!」
南のギルドから駆けてきた馬が、砂埃を上げて一団の前で止まる。息を切らした伝令が、飛び降りるようにして馬から下り、エルフィのもとへ駆け寄ってきた。
「エルフィ様! 東西の状況をお伝えします!」
「話せ」
「東の荒地と西の森の奥で、大きな魔力の渦のようなものが発生しております! 他のマスターランクの方々は、既にそれぞれ東と西へ向かわれたとのことです」
その場の空気が一段と張り詰めた。
「途中で、リエラ様の使いの方とすれ違いました。東と西への要請はギルドへ伝わりますが……」
伝令は言いにくそうに言葉を濁した。
「王都からの援軍は」
エルフィが短く問う。
「王都、東、西、いずれの拠点からも、これ以上の応援は難しいとのことです」
答える伝令の声が、わずかに震えた。
「南のギルドでは緊急招集をかけております。昨晩ギルドにいなかった者たちも呼び戻しておりますが、ペンタゴン以上は、まもなく着く者を含めても二十名いるかどうか、というところで……」
バルドが低く舌打ちする。
「三方同時か。厄介なことになったな」
「くそったれな話だな」
ガイルが吐き捨てるように呟いた。
エルフィはしばし目を閉じていたが、やがて瞼を開き、伝令に向き直った。
「トライアングル以上で、後ろを支えられそうな者も送れ。動けるなら、ダブルサークルの者でも構わん」
伝令が一瞬息を呑む。
「ダブルサークルまで、ですか」
「これは総力戦だ。選んでいる余裕はない」
有無を言わせぬ響きに、伝令は背筋を伸ばした。
「かしこまりました。すぐに伝えてまいります」
伝令は深く頭を下げると、すぐさま馬に飛び乗り、来た道を引き返していった。蹄の音が遠ざかるのを待って、心春がエルフィを見上げる。
「東と西の異変も、すずなさんの試練と関係があるんでしょうか」
「無関係ではないだろう。だが、今はそれ以上のことは言えん」
エルフィの目が、紬の腕の中で眠り続けるすずなへ移る。紬は何も言わず、すずなの頭を自分の肩にもたせかけ直した。
それから間もなく、南のギルドから続々と応援が到着し始めた。昨晩は街を離れていたペンタゴンの冒険者たちが、装備もそこそこに駆けつけてくる。
「まだまだ来るぞ!」
ガイルの声で、疲れきっていた部隊にわずかな活気が戻った。
しばらくすると、緊急招集に応じたトライアングルからヘキサゴンの冒険者たちも次々と隊列に加わり、後方支援にはダブルサークルの者も数名が付いた。ミナとリナが新しく来た者たちを手際よく三班へ振り分けていき、亀裂から溢れる魔物の勢いも少しずつ抑え込まれていく。地を這う黒い蔓の広がりも、心なしか鈍ってきたように見えた。
「持ち直してきたか」
バルドが額の汗を拭いながら呟く。
「ああ。だが、これで片付いたわけではない」
エルフィの視線は、依然としてすずなに向けられたままだった。
紬はさっきから、すずなの寝息を数えていた。百を過ぎたあたりで分からなくなり、また一から数え直す。数えている間だけは、目を覚まさない理由を考えずに済んだ。
「エルフィさん」
紬が掠れた声で呼びかける。
「何か方法はないんですか」
エルフィはすぐには答えなかった。すずなの寝顔をしばらく見つめ、それから紬に向き直る。
「Fable Unboundは、すずな自身の内側にある力だ」
「内側……」
「これまでの試練も、すずなはいつも自分の手で越えてきた。外から誰かが解いてやれるものではない」
その言葉に、紬の表情が曇った。
「じゃあ、待つしかないってことですか」
「今はまだ、そうとしか言えん」
エルフィの声には珍しく、もどかしさが滲んでいた。心春がそっと紬の隣に腰を下ろす。
「紬さん。待つだけなら、私たちにもできます」
紬は小さく頷き、すずなの顔を見下ろして、乱れた前髪を指先で直した。
「それなら、呼び続けます。先輩が戻ってくる道が分かるように」
「そうしてやれ」
エルフィはそれだけ言うと、再び前線の方へ目を向けた。
◇
すずなの意識は、深い闇の中を漂っていた。
物音ひとつ届かず、上も下も分からないまま、体だけが頼りなく浮かんでいる。どれだけの時間が経ったのかも分からなかった。
やがて闇の奥に、ぼんやりとした光が灯った。小さな光は少しずつ大きくなり、人の形をとり始める。顔はまだ見えないのに、なぜか懐かしい気配がした。
声をかけようとしても、喉から言葉が出てこない。光の中の人影がこちらへ手を伸ばしてくると、すずなも知らず知らずのうちに、その手へ自分の手を伸ばしていた。




