第151話 目覚めぬ人
紬は地面に膝をつき、すずなの体を腕の中に抱き起こしていた。倒れる間際に握った手も、まだ離せずにいる。
「すずな。すずな、聞こえますか」
呼びかけても規則正しい寝息が返ってくるだけで、頬に触れても肩を揺すっても、すずなの瞼はぴくりとも動かなかった。
「エルフィさん」
振り返った紬の目には、抑えきれない焦りが浮かんでいた。
「今すぐ何とかできないんですか」
「落ち着け」
エルフィはすずなの傍らにしゃがみ込み、手首を取って脈を確かめた。続けて首筋に指を当て、胸の上下をしばらく見つめる。
「命に別状はない。呼吸も脈も乱れていない」
「それなら」
「だが、起こし方が分からない」
短い答えに、紬の表情が強張った。腕の中のすずなは苦しそうな様子もなく、ただ眠っているようにしか見えない。それがかえって紬の胸を締めつけていく。
その時、地面を這っていた黒い蔓が一段と勢いを増した。周りの草に絡みついたかと思うと、絡まれた先から色が抜け、みるみるうちに枯れていく。
「紬、すずなを連れて下がれ。蔓に触れるな」
「はい」
紬はすずなを抱え直し、心春の手を借りて蔓の届かないところまで後ずさった。力の抜けたすずなの体はずしりと重く、紬の腕に預けられたまま身じろぎひとつしない。
「バルド、状況は」
エルフィの問いに、亀裂の方を見張っていたバルドが険しい顔で振り返る。
「蔓の勢いが増している。亀裂から出てくる魔物の数も減っちゃいない」
「試練の影響か」
「おそらくな。すずなが倒れたのと同時に湧き出しやがった」
「エルフィ様」
リエラが息を切らして駆け寄ってきた。
「左翼の先まで蔓が伸びています。フィーネとセレアが時の流れを遅らせて食い止めていますが、長くは持ちません」
「外周の綻びも広がっています」
リンドウが続けて報告する。
「さっきまでより、明らかに勢いが強くなりました。すずなさんが眠ったことと無関係とは思えません」
その場にいた者たちの目が、紬の腕の中のすずなへ向けられた。ガイルが亀裂の方を睨みつける。
「このままだと、南の綻び全体が試練に呑まれちまうんじゃないか」
「悪い方に考えるな」
バルドがそう釘を刺したが、その声にも余裕はなかった。
エルフィはしばらく亀裂を見据えていたが、やがてリエラに向き直った。
「すずなが運ぶはずだった東と西への応援要請は、南のギルドから出させる。足の速い者を一人、馬で向かわせろ」
「承知しました」
リエラが踵を返し、後方へ駆けていく。すずなの転移なら一瞬で済んだ道のりも、馬では往復するだけで時間がかかる。紬はその背中を見送りながら、すずなの抜けた穴の大きさを噛みしめていた。
「心春。精霊に診させられるか」
「やってみます」
心春はすずなの傍らに膝をつき、両手を掲げた。
「フィン、バーニル」
風が渦を巻いて淡い輪郭を結び、その隣に小さな炎が灯る。二体の精霊が姿を現すと、周りで見守っていた冒険者たちから小さなどよめきが起きた。
「すずなさんの中で何が起きているのか、見てほしいんです」
フィンがすずなの周りをゆっくりと巡り始め、バーニルの炎もすずなの額の上へそっと近づいていった。誰もが固唾を呑んで見守るなか、やがてフィンが心春の肩に戻ってくる。
「ミハル、なんか変だよ。すずなの奥の方で、何かがぐるぐる巻きついてるの」
「巻きついてる……?」
「うん。無理やり眠らされてるんじゃなくて、どこかに引っぱられてる感じ。僕、ああいうの嫌いだもん」
フィンはすずなの頬のそばまで降りてきて、首を傾げた。
「すずな、起きないの?」
その声は周りにも届いていた。紬が息を呑み、すずなを抱く腕に力がこもる。
心春の胸の内には、バーニルの不機嫌そうな声が響いていた。奥まで火が届かねえ、根が深すぎる、と吐き捨てるような言い方で、それきり黙り込んでしまう。
「バーニルは、何て言ってるんですか」
紬が焦れたように尋ねた。
「フィンと同じものを感じているそうです。ただ、奥が深すぎて火が届かないと」
心春は悔しそうに唇を噛んだ。
「何かの力が、すずなさんを眠りの底へ引き込んでいる。分かるのはそこまでです。精霊にも正体が見えないほど、根の深い力です」
「試練そのものが、力の出どころというわけか」
エルフィが亀裂の方へ目を向けた。
「だとすれば、外から解く方法があるとは限らない」
バルドが腕を組み、低く唸る。
「なら、どうする。手をこまねいていたら、悪くなる一方だぞ」
「分かっている」
エルフィは険しい表情のまま答えた。
「だが闇雲に手を出して、すずなの眠りをさらに深くするわけにもいかない」
「そんな……」
紬はすずなの顔を覗き込んだ。乱れた前髪の下で瞼は穏やかに閉じたままで、さっきまで剣を振るっていた人とは思えないほど安らかな寝顔をしている。
紬の耳には、眠りに落ちる直前のすずなの声がまだ残っていた。『紬、さん……私……』と言いかけたまま、その先は聞けていない。
「先輩、聞こえてますか。お願いだから、目を覚ましてください」
声をかけても、すずなの寝息は少しも乱れなかった。心春がそっと紬の肩に手を置く。
「紬さん、すずなさんはちゃんと息をしています。まずは、できることを一つずつ探しましょう」
「……はい」
紬は小さく頷いたものの、すずなから目を離そうとはしなかった。
エルフィが立ち上がり、周りを見渡す。
「すずなは後方へ移す。紬、心春、二人で付いていろ」
手を貸そうと近づいてきたガイルに、紬はきっぱりと首を振った。
「先輩は、わたしが運びます」
ガイルは一瞬目を丸くしたが、やがて黙って一歩下がった。紬はすずなを抱き上げ、背後で蔓が草を枯らしていく乾いた音を聞きながら、一歩ずつ後方へ歩き出した。




