第149話 夜明け前
闇の奥で蠢いていたものが、少しずつ輪郭を持ち始めた。亀裂の縁から、黒く濁った体表を持つ獣の姿をした魔物が這い出してくる。続けて二体、三体と、影は次々に数を増やしていった。
「来る……!」
誰かが叫んだ。
「落ち着け。数を数えろ」
エルフィの声が、動揺を打ち消すように響いた。紬が魔銃を構え、Lunar Sightで亀裂の縁を捉える。
「先頭五体。まだ増えます」
「右側にも三体います」
心春が短く報告した。すでに腰の双剣の柄に手を添えている。
「リエラ、足を止めろ」
「承知しました」
リエラが両手を広げると、先頭の魔物たちの周りに淡い光の膜が張られた。その動きが、目に見えて鈍っていく。
「今のうちだ!」
ガイルが真っ先に地を蹴った。土の魔力を纏った剣が唸りを上げ、鈍った一体を斬り伏せる。それを合図に、集められた冒険者たちが一斉に動き出した。
すずなも剣を握り直し、前へ出た。体の奥にはまだ転移の反動が残っていて、魔力を練ろうとすると指先がかすかに痺れる。今は剣だけで凌ぐしかない。迫ってきた一体の爪を刃で受け流し、返す一撃で脚を払う。修行の合間にも続けてきた剣の型が、考えるより先に体を動かしていた。
その少し後ろで、紬の魔銃が乾いた音を響かせた。闇の中を駆けてくる魔物の眉間を、光の弾が正確に撃ち抜いていく。一発ごとに一体が地に伏し、すずなの横を抜けようとする影は、届く前に倒れていった。
「ミハル、右、来るよ!」
フィンの声と同時に、心春の姿がふっと掻き消えた。Silent Stepで気配を断った心春は、魔物の背後に回り込んで双剣を閃かせる。振り返ろうとした別の一体を、心春の肩から放たれた風の刃が切り裂いた。
『左だ。焼き払え』
胸の奥で響いたバーニルの声に従って、心春が左手を振る。吹き上がった炎が、群れの一角をまとめて呑み込んだ。
エルフィだけは動かず、亀裂そのものを見据えていた。魔物の数よりも、その奥にある何かを見極めようとしているようだった。
「まだだ」
低い呟きは、戦いの喧騒にかき消されていった。
どれほど斬り結んだだろうか。倒しても倒しても、亀裂の縁からは新たな影が這い出してくる。冒険者たちの中にも傷を負う者が出始めた頃、エルフィが片手を上げた。
「一旦退け!」
鋭い声が響き渡り、戦っていた者たちが素早く後退した。負傷した仲間に肩を貸しながら退く者もいたが、命に関わる傷を負った者はいないようだった。
息を切らしたリエラが、エルフィのもとへ駆け寄った。
「エルフィ様、このままでは押し切られます。数が多すぎます」
「ああ。散らばったままでは、一人ずつ削られていく」
エルフィは即座に頷いた。
「三つに分ける。リエラ、フィーネ、セレアは左を。ガイル、リンドウ、ミナ、リナは右を。残りは私とすずなたちで、中央を抑える」
「承知しました」
「了解だ」
それぞれが手早く隊列を組み直していく。
その時、後方から角笛の音が響いた。
「あれは……」
紬が振り返った。森の入口の方から、旗を掲げた一団が駆けてくる。先頭を切るのは、丸太のように太い腕に、その背丈に見合う巨大な剣を担いだ大柄な男だった。ただそこに立っているだけで、周囲の空気が一段と重くなったように感じられる。
「遅れてすまん、エルフィ」
「バルド」
エルフィが応じたその名に、すずなははっとした。破砕の剣王と呼ばれるマスターランクの一人で、三十年前の侵攻では最前線に立っていたと、以前聞いたことがある。
「王都ギルドからの応援だ。事態が急変したと聞いて、すぐに動ける者を集めてきたぞ!」
「いいところに来た」
バルドの後ろには、王都から駆けつけた実力者たちが続いていた。
「状況は」
「見ての通りだ。まだ全容は掴めていない」
エルフィが亀裂を指差すと、バルドはそちらへ目を向けて低く唸った。
「なるほど、こいつは厄介だ」
大剣の柄を握り直しながら、その口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「なら、暴れ甲斐がありそうだな」
それからバルドは、すずなたち三人の方へ視線を移した。
「お前らが噂の三人か」
値踏みするような目に、すずなたちは自然と姿勢を正した。
「エルフィが目をかけていると聞いてたが……なるほど、良い面構えをしてるな!」
豪快な笑い声が、張り詰めた空気にわずかな緩みをもたらした。
「押し込め!」
バルドの大剣が風を切り、魔物の群れを薙ぎ払った。一振りごとに数体がまとめて吹き飛び、これまでとは明らかに違う勢いで戦線が押し上がっていく。
「左、押しています!」
リエラの声が飛ぶ。フィーネとセレアがその両脇を固め、時を鈍らされた魔物を次々と仕留めていった。
「右も、なんとか持ち堪えてます〜」
ミナののんびりとした報告の後ろで、ガイルとリンドウが前衛と後衛で息を合わせ、着実に数を減らしていた。
中央では、すずなたち三人がエルフィとともに、亀裂の最前列を守り続けていた。
剣を振るううちに、指先の痺れが少しずつ引いていくのが分かった。すずなは息を整え、足元へ風を集める。地面を蹴ると同時に体が前へ滑り出し、魔物との間合いが一瞬で詰まった。剣を握る右手の先に、鍋の熱を思い浮かべて火を灯す。白く燃える炎を纏った刃が、群れの先頭をまとめて焼き払った。
「先輩、さすがです!」
紬の声が背中に届く。その魔銃は休むことなく乾いた音を響かせ、すずなの死角に回り込もうとする影を、一体残らず撃ち落としていた。
じりじりと、けれど確かに戦線は押し戻されていった。それでも、亀裂そのものから溢れ出す魔物は途切れることがなかった。
「まだ湧いてくる……」
紬が肩で息をしながら呟いた。振るい続けた腕は重く、引き金にかけた指も、少しずつ感覚が鈍り始めている。
「おい、もうすぐ夜が明けるぞ」
誰かが叫んだ声に、すずなは周りを見回した。いつの間にか、隣で戦う仲間たちの顔が、灯りがなくてもはっきりと見えるようになっていた。
「もう、そんな時間か」
エルフィの声にも、これまでにない疲れの色が滲んでいた。
誰もが荒い息をつき、傷を抱えながらも踏みとどまっている。押し込むことには成功していたが、決して楽な戦いではなかった。
「亀裂の勢いは、明らかに弱まっている」
バルドが大剣を地面に突き立て、杖代わりに体を預けた。
「だが、これで終わりとは思えん」
その言葉に、反論する者は誰もいなかった。疲れ切った者たちは、それでも構えを解かないまま、亀裂を睨み続けていた。




