第146話 急報
あの夜から、数日が経っていた。
夕食を終え、すずなが台所で後片付けをしていると、居間の長椅子から紬の声が飛んできた。
「ねえ、すずな。このお店、良さそうじゃない?」
振り返ると、紬がスマホの画面をこちらへ向けていた。日本へ行った時に保存しておいたらしい店の写真が、ずらりと並んでいる。
「池袋のお店?」
「うん。エルフィさんが行ったところの近く。心春さんに似合いそうなのも、いっぱいあるの」
「いつにしようか。エルフィさん、近いうちにって言ってたし」
「明後日とか、どうかな。心春さんにも聞いて……」
言いかけた紬の声を遮るように、玄関の戸が激しく叩かれた。
すずなが布巾を手にしたまま戸を開けると、エルフィが立っていた。いつもの落ち着いた雰囲気は消え、その顔には焦りが滲んでいる。
「エルフィさん? どうしたんですか、こんな時間に」
「南で動きがあった」
その一言で、すずなの背筋が伸びた。居間の紬も、スマホを持ったまま立ち上がる。
「メイルから、ギルド間の通信で知らせが届いた。南の森の綻びに、変化が出たそうだ」
「メイルさん……南のギルド長の」
「そうだ。詳しいことはまだ分からん。だが、のんびりしている時間はない。まずはギルドへ行く」
有無を言わせぬ声だった。紬はスマホを懐にしまい、壁に立てかけてあった魔銃を手に取った。
「すぐ支度します」
「私は、心春さんに知らせてきます。エルフィさんと紬さんは、先にギルドへ」
すずなは布巾を卓に置き、ローブを羽織った。
「無理しないでくださいね、先輩」
「はい。すぐに追いつきます」
言い終わるより早く、すずなは家を飛び出していた。
心春の家までは、走れば数分の距離だった。息を切らしながら扉を叩くと、すぐに心春が顔を出す。
「すずなさん、こんな時間にどうしたんですか」
「心春さん、緊急です。南で動きがあったって、エルフィさんが」
心春の顔から、すっと表情が消えた。
「南、ですか……」
その声には、母を奪った三十年前の侵攻を思い浮かべたような、硬い響きが滲んでいた。肩のあたりで、淡い風の輪郭が小さく縮こまる。
「ミハル、南、こわいよ。あそこ、やだ」
「大丈夫。一緒にいるから」
心春は肩の上の風をそっと手で包み、それから顔を上げた。
「すぐ行きます」
上着を羽織った心春と並んで、すずなはギルドへの道を駆けた。
ギルドの扉を開けた瞬間、いつもとは違う張り詰めた空気が肌を刺した。受付の奥では職員たちが慌ただしく行き交い、先に着いていたエルフィと紬が、卓の前で報告書を囲んでいる。
「お待たせしました」
息を切らして駆け寄るすずなと心春に、紬が小さく頷いた。エルフィは報告書から顔を上げると、近くにいた職員を呼び止めた。
「この内容を、至急王都ギルドにも伝えろ」
「はい、直ちに」
職員が奥へ駆けていくのを見届けてから、エルフィは報告書を折り畳んで懐にしまった。
「エルフィさん。どれくらい深刻なんですか」
紬が尋ねると、エルフィは短く首を振った。
「詳しいことは、まだ言えん。だが、悠長に構えていられる状況でないのは確かだ」
「具体的には、どんな変化があったんですか」
心春の問いに、エルフィは一瞬、言葉を選ぶように黙った。
「地脈の乱れが、この数日で急に広がったらしい。メイルの報告では、監視の者たちが異様な気配をいくつも感じ取ったそうだ」
「いくつも、ですか……」
心春の声が、わずかに震えた。
「今の段階では、確かなことは何も言えない。だからこそ、自分の目で確かめる」
エルフィの言葉に、紬が魔銃の負い紐を握り締めた。
「わたしたちは、何をすれば」
「現地へ行く。百聞は一見に如かず、だ」
エルフィの視線が、すずなに向けられた。
「すずな。南まで運べるか。着いてすぐに動けるよう、私は力を残しておきたい」
「分かりました」
すずなは頷いて、皆の輪の中心に立った。紬と心春がそれぞれの得物に手をかけ、エルフィがすずなの隣に並び立つ。
「準備はいいですか」
「はい、いつでも」
「大丈夫です」
「行くぞ」
エルフィの短い号令と同時に、すずなの足元から黒い霧が立ち上った。霧は瞬く間に四人を包み込み、ギルドの喧騒が遠のいていく。
次に吸い込んだ空気は、喉の奥がかすかにひりつくほど乾いていた。枯れ草を踏む音が、足元でかさりと小さく鳴る。




