第141話 エルフィの記憶
シェイラの庵を訪ねた翌日、心春はエルフィの家の戸を叩いた。
戸を開けたエルフィは、心春の顔を一目見ただけで、何の用件か察したようだった。何も言わずに身を引いて心春を中へ通すと、台所に立って湯を沸かし始める。やがて卓に置かれた湯呑みには、底が見えないほど濃い茶がなみなみと注がれていた。
「飲め」
「いただきます」
口に含むと、舌の奥がきゅっと縮むほどの苦みが広がった。日本の実家で、父とエルフィがこれを挟んで向き合っていた姿が、湯気の向こうに重なって見える。
「正一も、これを好んで飲んでいた」
エルフィは自分の分を両手で包み、向かいの椅子に腰を下ろした。
「シェイラから聞いたか」
「はい。父が、こちらでの記憶の大部分を失ったこと。当時のことは、エルフィさんが一番よく知っているはずだと」
「そうか」
エルフィはしばらく湯呑みの中を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「長い話になる」
「はい。聞かせてください」
心春は膝の上で両手を重ね、背筋を伸ばした。
「正一と出会ったのは、今から三十年余り前だ。まだ私も、今ほど落ち着いてはいなかった頃だな」
エルフィの声には、懐かしむような響きが混じっていた。
「正一は、他の異世界人とは少し違っていた。多くの者は力を求めて試練に挑む。だが正一は、常に一歩引いた場所から物事を見ていた。慎重で、無駄な戦いを避ける男だった」
「父らしいです」
そう漏らした心春の脳裏に、口数の少ない父の横顔が浮かんでくる。
「ヘキサゴンまで上がった頃、正一はこちらで一人の女性と出会った」
口元へ運びかけていた心春の手が止まった。
「この世界に生まれ育った女性だ。正一は彼女と、こちらで生涯を共にすると決めた」
「その人が……」
「お前の母だ」
心春は言葉を失った。湯呑みの中で、濃い茶の表面がかすかに揺れている。
「私は、こちらで生まれたんですか」
「そうだ。お前は、この世界で生を受けた」
エルフィの声はいつになく穏やかだったが、その奥に何かを押し殺すような重さが滲んでいた。
「母は、今……」
心春の問いに、エルフィはすぐには答えなかった。
「三十年前、この地に異次元からの侵攻があったことは知っているな」
「はい」
「私を含む何人かのマスターランクで、それを封じ込めた。だがその戦いで、多くの命が失われた」
エルフィは手の中の茶を卓に置いた。
「お前の母も、その一人だった」
胸の奥に、鈍い痛みが落ちてきた。顔も声も知らない人だった。それでも、自分をこの世に産んでくれた人が、この世界で起きたあの戦いの中で命を落としたのだという事実は、ゆっくりと、重く心春の中に沈んでいった。
「そうだったんですね」
「正一は、生まれたばかりのお前を抱えて、一人残された」
エルフィは視線を伏せた。
「防ぎきれなかった責任は、私にもある」
「エルフィさんの、せいじゃ……」
「いや」
エルフィは心春の言葉を遮った。
「私たちが防ぎきれなかった。その事実は変わらない」
部屋の中に沈黙が落ちた。心春は膝の上で重ねた手を、きつく握りしめることしかできなかった。
「正一は、お前をこの世界から遠く離れた、安全な場所で育てたいと願った」
エルフィが続けた。
「だから私は、正一とお前を日本へ送り届けるために石碑を建て、それを開く鍵を作った」
「石碑……」
心春の頭に、すずなと紬から聞いた話がよみがえった。日本の山の中、苔むした石碑に触れて、二人はこの世界へやってきたのだという。
「それって、すずなさんたちが通ってきた、あの石碑ですか」
「そうだ」
エルフィは短く頷いた。
「お前は、生まれて間もない頃に、あの石碑を通って日本へ渡った。覚えていなくて当然だがな」
心春はしばらく何も言えなかった。すずなと紬がこの世界へ来るきっかけになった場所を、自分はずっと昔、父の腕に抱かれて通っていたのだ。
「父の記憶のことは……」
「正一自身の希望だった」
エルフィの声には、正一の選択への深い理解が滲んでいた。
「こちらでの記憶を抱えたまま、お前を育てることに耐えられなかったのだろう。新しい生活の中で過去に囚われることなく、お前を育てたい。そう願って、自分から手放すことを選んだ」
心春は目を閉じた。若い頃の話になると決まって黙り込んでいた父の姿が、まぶたの裏に浮かんでくる。あれは口下手だったからでも、何かを隠していたからでもなかった。父はただ、娘のために自分で手放したものの重さを、言葉にできないまま抱えていたのかもしれない。
「お前が南の森にいると知った時は、正直、驚いた」
エルフィが茶を一口すすってから続けた。
「この世界の魔力を生まれつき宿していたお前が、もう一度この地に足を踏み入れた。巡り合わせのようなものを、感じずにはいられなかった」
「私は、これからどうすればいいんでしょうか」
心春の問いに、エルフィは少し考えるような間を置いた。
「それは、お前自身が決めることだ。だが」
エルフィはまっすぐに心春を見た。
「正一とお前の母が、この世界で守ろうとしたものは、決して無駄ではなかった。二人の娘であるお前が、今こうして力をつけていること自体が、その証だ」
心春は湯呑みを両手で持ち直し、残っていた濃い茶をゆっくりと口に運んだ。
「ありがとうございます、エルフィさん。全部話してくださって」
「隠しておくべきことでは、なかったからな」
エルフィはそう言うと、わずかに口元を緩めた。
「正一とお前の母の娘なら、知る権利がある。ずっと、そう思っていた」
最後の一口を飲み干すと、強い苦みが舌の上を通り過ぎたあとに、かすかな甘さが残った。父も、この後味を知っていたのだろうか。心春は空になった湯呑みを見つめ、喉の奥に残るその甘さを、しばらくのあいだ確かめていた。
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