第140話 父の軌跡
三人で過ごした夕方から数日後、心春のもとにシェイラからの手紙が届いた。
『お話ししておきたいことがあります。一人で、私の庵まで来ていただけますか』
短い文面だったが、丁寧な筆跡の奥に、いつもと違う響きがあるように感じられた。心春は手紙を畳んで懐にしまい、翌朝、一人で王都の東の外れにある森へ向かった。
木々の間を抜けた先の庵の前で、シェイラが待っていた。足元には苔むした石がいくつも並び、その陰で、フィンやバーニルとは違う気配の精霊たちがひっそりと息をひそめている。
「来てくださって、ありがとうございます」
「いえ。お手紙、読みました」
庵の中に通され、木の卓を挟んで腰を下ろす。シェイラが淹れてくれた薬草のお茶から、すっとした香りが立ちのぼった。
心春は湯気の向こうのシェイラを見つめ、少し迷ってから口を開いた。
「父のこと、ですよね」
「察していましたか」
「はい。この前ここで父の話を伺った時、まだ何か言わずにいらっしゃるように見えたので」
初めてシェイラに会った日のことも、心春は覚えていた。中村心春です、と名乗った時、シェイラはほんの一瞬だけ言葉を失い、確かめるように「中村……」と繰り返していた。あの時の声の揺れは、この庵で父の話を聞いた後も、心春の耳の奥に残り続けていた。
「この前ここで、父がこの世界でどう過ごしていたかを教えていただきました」
「ええ。初級の精霊と契約して、地道にヘキサゴンまで上がった人だと」
シェイラは湯呑みを卓に置き、まっすぐに心春を見た。
「今日は、その先のことをお話しします」
心春は膝の上で両手を重ね、背筋を伸ばした。
「お父さんは、元の世界へ帰る時に、こちらでの記憶の大部分を失ったと聞いています」
「記憶を……?」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「父は、こちらでのことを、何も覚えていないんですか」
「大部分は、です。全てではないと思います」
「どうして、そんなことに」
「理由は、私も知らされていません」
シェイラは小さく首を振った。
「ただ、お父さんが帰る前後のことは、エルフィが一番よく知っているはずです」
「エルフィさんが……」
心春の頭に、日本の実家で濃い茶を挟んで向き合っていた、父とエルフィの姿が浮かんだ。
言葉少なに湯呑みを傾け合う二人の間には、初めて会った者同士とは思えない、不思議な落ち着きがあった。あの時は、エルフィが誰に対してもああいう態度なのだと思っていた。けれど今思い返すと、父の方も、目の前の小さな相手をどこか懐かしむように見ていた気がする。
「全部を忘れたわけじゃ、ないのかもしれません」
心春がぽつりと呟くと、シェイラはゆっくりと頷いた。
「私も、そう思います」
父は昔から、自分の若い頃の話をほとんどしない人だった。何を尋ねても、はぐらかすように話を逸らし、最後には決まって黙り込んでしまう。心春はそれを、ただの口下手だと思っていた。
けれど本当は、話したくても話せなかったのかもしれない。自分の中で何かが抜け落ちていることだけは分かっていて、その空白に触れられるのを、どこかで避けていたのかもしれない。
「父は、ずっと一人で、それを抱えていたんでしょうか」
「どうでしょう。ただ、あなたを育てた時間は、間違いなくお父さん自身のものです。そこには、何の空白もありません」
シェイラは少し間を置いてから、目元をわずかに和らげた。
「それに、あなたはお父さんによく似ています」
「私が、ですか」
「決めたら迷わないところも、慎重なところも、口数が少ないところも。初めて会った頃のお父さんを見ているようです」
心春は返す言葉を探したが、何も出てこなかった。代わりに胸の奥で、小さな炎がぱちりと爆ぜる気配がした。
『シェイラの言う通りだ。お前は、頑固なところまで父親譲りなのだろう』
バーニルの声が、胸の内側に低く響く。
「バーニル……」
「ミハル、頑固じゃないよ。ちょっとだけだよ」
肩のあたりで、フィンがくるりと渦を巻いた。シェイラの前だからか、いつもより声を潜めている。
心春は小さく笑い、湯呑みに残ったお茶を飲み干した。
「エルフィさんに、聞いてみます。父のこと」
「ええ。話してくれるかどうかは、エルフィ次第ですが」
「それでも、聞いてみたいんです」
心春の答えに、シェイラは満足そうに頷いた。
庵を辞して森の道を戻りながら、心春は懐から手紙を取り出した。シェイラの丁寧な筆跡を指先でなぞると、濃い茶を前に父と向き合っていた、エルフィの小さな横顔が目に浮かぶ。あの日、言葉の少ない卓で、二人は何を確かめ合っていたのだろう。
「今度は、私が向き合う番ですね」
呟いた心春の頬を、フィンの風が応えるように一度だけ、そっと撫でていった。




