第139話 もう一着の衣装
測定を終えたその日の夕方、心春が焼き菓子の包みを抱えて、すずな達の家を訪ねてきた。
「お疲れさまでした。今日は、色々ありましたから」
居間の卓に包みを広げると、香ばしい匂いがふわりと立ちのぼった。紬が台所から果実水を運んできて、三人分の杯に注いでいく。
「心春さん、ありがとうございます。いただきます」
「紬さんも、お疲れさまでした。その、加護のこと……」
「言わないでください。今日一日で、もう一生分笑われました」
紬は焼き菓子を一つ口に放り込み、長椅子の背にもたれてため息をこぼした。
すずなが果実水を口に運んでいると、心春がそっと杯を置いた。
「それで、すずなさん」
「はい」
「この前のお店で私が言ったこと、覚えていますか」
改まった声に嫌な予感を覚え、すずなは杯を握り直した。
「見てみたかったです、って言いました。それから、ずるいです、とも」
「覚えて、います……」
「紬さんは見たんですよね」
「はい。見ました」
紬が背もたれから身を起こし、なぜか胸を張って答えた。
「だったら、私にも見る権利があると思うんです」
「権利、ですか……」
「わたしも、もう一回見たいです」
すかさず紬が心春の側についた。
「紬さんはもう見たじゃないですか」
「一回見たら、二回目も見たくなるものなんです」
「そういうものじゃないと思います……!」
すずなの抗議は、二人の視線の前であっさりと勢いを失った。心春は両手を膝の上で揃え、期待を隠しきれない目でこちらを見つめている。紬は紬で、焼き菓子をもう一つ手に取りながら、勝ちを確信したような顔をしていた。
「私だけ見られるのは不公平です。紬さんの装いは、もう街中の人が見ているのに」
「わたしのは事故みたいなものです。先輩のは、ちゃんと用意された衣装なんですよね」
「うぐ……」
すずなは言葉に詰まり、天井を仰いだ。逃げ道は、どこにも残っていない。
「心春さんに見せるだけですからね。紬さんは、見なくていいです」
「それは無理です。同じ部屋にいるので」
ため息を一つ残して、すずなは自分の部屋へ引っ込んだ。
箱を開け、袖を通し、背中の紐を結んでいく。前にも着たのだから少しは手早くなっているはずなのに、二人が待っていると思うと、結び目がなかなか決まらない。扉越しに、紬が心春へ何やら得意げに説明している声が聞こえてきた。
「リボンが、こう、大きくて……裾がふわっとしてて……」
「紬さん、言わないでください……!」
そう抗議してから、すずなは深呼吸を一つして扉を開けた。
「お待たせ、しました」
居間に足を踏み入れた途端、心春が両手を口元に当てたまま動かなくなった。
「わぁ……」
黒地に赤いレースと刺繍をあしらった衣装の裾が、すずなが歩くたびにふわりと揺れる。心春の視線がゆっくりと上から下へ降りていき、また上へ戻ってきた。
「すごく、素敵です。すずなさん」
「あ、ありがとうございます……」
「お人形さんみたいです。本当に」
まっすぐな称賛に、すずなの顔がみるみる熱くなる。その横で、紬が腕を組んで頷いた。
「この前より、似合ってますね」
「どうして紬さんが得意げなんですか」
「一度見ているので、見る目が肥えたんです」
すずなが睨むと、紬はけろりとした顔で焼き菓子をかじった。心春がくすくすと笑い声をこぼす。
卓の前に腰を下ろすと、裾が椅子の上いっぱいに広がった。どう整えればいいのか分からないまま、すずなは膝の上で手を重ねる。
「でも、エルフィさんはどうしてこれをすずなさんに着せたんでしょう」
心春が首を傾げた。
「クレアさんの流儀だっていうのは、違ったんですよね」
「クレアさんは、名前を勝手に使われたって言っていたそうです。ミナさんたちが話していました」
紬の言葉に、すずなはしばらく考え込んだ。それから、あの日のことを一つずつ辿るように口を開く。
「修行の合間に、闇の装いの話になったことがあるんです。その時、エルフィさんが何か言いかけて。『すずな、わたしもあの服装を……』って。その先は、聞かせてもらえませんでした」
「あの服装、ですか」
「その後で、私がゴスロリの話をしたら、エルフィさんは『なんだそれは』って。名前も知らなかったんです」
紬が焼き菓子を持つ手を止めた。
「名前も知らないのに、こんなにちゃんとした一着を用意できたんですか」
「そう、なりますね……」
紬と心春が、ゆっくりと顔を見合わせた。
「わたしも、あの服装を……」
「着てみたい、の続きですよね、それ」
心春が小声で続きを補うと、紬が卓の上に身を乗り出した。
「つまり、本当にあの服を着たかったのは」
「エルフィさん自身、ってことですか」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。名前も知らないまま、どこかで目にしたこの服をずっと覚えていて、わざわざ一着用意してきたエルフィの姿が、すずなの頭の中で「クレアの記憶違いだ」と言い切った横顔と、一本の線で繋がっていく。
「確かめてみたいですね」
紬の口の端が、じわじわと上がっていく。
「あの無表情が、どんな顔をするのか。ちょっと見てみたいです」
心春も、遠慮がちにではあったが、はっきりと頷いた。
「あの、そろそろ着替えても……」
「あ、待ってください」
紬が懐から、日本から持ってきたスマホを取り出した。
「記念に、一枚だけ」
「だめです……!」
「心春さんも、欲しいですよね」
「はい。欲しいです」
心春が控えめに、けれど迷いなく答えた。二対一になったことを悟り、すずなは裾を握りしめたまま肩を落とした。
「本当に、一枚だけですからね」
「はい。一枚だけです」
紬がスマホを構えると、小さな電子音が居間に響いた。画面を覗き込んだ心春が、嬉しそうに目を細める。
「すずなさん、目を閉じかけてます」
「えっ」
「じゃあ、もう一枚」
「一枚だけって言いました……!」
抗議もむなしく二枚目の電子音が鳴り、紬は満足げに画面を眺めてから、今度は心春の方へ視線を向けた。
「次は、心春さんの番ですね」
「えっ、私ですか……?」
「先輩の衣装、予備がもう一着あるんです。エルフィさんが預かってるって」
「いいと思います。デザインも違うらしいので、心春さんにもきっと似合います」
自分から矛先が逸れる好機を逃すまいと、すずなはすかさず紬の側に回った。
「すずなさんまで……! そ、そういうのは、ちょっと……」
心春がおろおろと視線を泳がせる。その肩のあたりで、淡い風の輪郭がくるりと楽しげに渦を巻いた。
「ミハルが着るとこ、僕も見たいなあ」
「フィン……!」
さっきまで攻める側にいた心春が、今度は真っ赤になって肩の上の風をたしなめている。すずなは広がった裾をそっと整えながら、ようやく自分の番が終わったことに、こっそり胸を撫で下ろした。




