第137話 綻びの奥
綻びのある一角へ近づくにつれ、空気がさらに変わっていくのを、すずなは肌で感じ取った。
風もないのに、枯れ枝がかさりと鳴る。地面に積もった落ち葉が、誰も踏んでいないのにかすかに擦れ合う。以前この地で心春が語っていた違和感を、今は自分自身の感覚として理解し始めていた。
「気をつけろ。この先は、通常の魔獣とは違うものが出る可能性がある」
エルフィの声に全員の表情が引き締まり、後ろに続くリエラたちとガイルたちも、それぞれ武器を構え直した。
「この森に入るのは、私も久しぶりです」
小さく呟いた心春が、Silent Stepの気配を纏い、先頭に立つエルフィのすぐ後ろへとつく。慎重な足取りには揺るがない決意が滲んでいたが、手の甲と胸元の紋章は、ちりちりと落ち着きなく明滅していた。
「ねえミハル、ここ、やだ」
心春の肩のあたりで、淡い風の輪郭が縮こまるように渦を巻いた。いつもの弾むような声が、今日はひどく心細い。
「なんか、ざらざらする。ずっと誰かに見られてるみたい」
「フィンだけじゃなくて、バーニルも嫌がってます。ここの空気」
「精霊は、こういう歪みに敏感だ。無理に抑えなくていい」
エルフィの言葉に、心春は小さく頷き、肩の上の風をそっと手で包んだ。
進むにつれて、周囲の光景は異様さを増していった。枯れ木の隙間から差し込む光が、水面に映したように揺らめいて瞬き、空間そのものがわずかに歪んでいるように見える。
やがて開けた場所に出ると、すずなの足がひとりでに止まった。
地面の一部が、うっすらと発光している。前に来たときよりも、その光は明らかに強さを増していた。周囲にはいくつもの結界術式が張り巡らされ、綻びを抑え込もうとする痕跡が幾重にも刻まれている。
「これが、封印の綻びだ」
低く告げたエルフィが、光の縁を見据える。
「かつて私と、ほかのマスターランク数名で封じ込めた異次元との境界だ。それが、ここに来て少しずつ緩み始めている」
声はいつもと変わらず淡々としていたが、エルフィの小さな拳は、ローブの陰で固く握られていた。
「大丈夫、なんですか」
緊張した面持ちで尋ねる紬に、エルフィは光から目を離さないまま答えた。
「今のところは抑え込めている。だが、時間が経つほど綻びは広がる。いずれ、完全に破れる日が来るだろう」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
紬の目が、ふと細められる。Lunar Sightの加護が、揺らめく光の中から何かを拾い上げたらしかった。
「先輩……あの光の縁、動いてます。ほんの少しずつですけど、脈を打つみたいに」
紬が指差した先に目を凝らしても、すずなの目には淡い光がぼんやりと滲んで見えるだけだった。
「よく見えたな」
短く評したエルフィの横で、リエラが感心したように紬を見やる。
「わたしたちも、術式の反応でようやく掴んでいる動きです。目で追えるなんて」
補足するように口を開いたリエラが、結界に刻まれた術式の一つを指し示した。
「わたしたちが交代で監視を続けているのも、そのためです。外周は、この数か月で二割を超えて広がりました。結界の維持には、絶えず魔力を注ぎ続ける必要があります。ですが、それもあくまで時間を稼いでいるに過ぎません」
「根本的な解決策は、まだ見つかっていないんですね」
心春の問いに、エルフィは短く答えた。
「そうだ」
すずなは、紬が指差した光の縁をもう一度見つめた。目では何も捉えられない。けれど目を閉じて、自分の縁を滲ませる時の感覚を思い出すと、その光の縁から伝わってくるものに、覚えがあるような気がした。
はっきりとしているはずの境目が、少しずつほどけていく。内と外の区別が、曖昧になっていく。エルフィに教わった、気配を薄める闇の感覚によく似ている。違うのは、自分の時のように戻ってこないことだった。一度ほどけた縁はほどけたまま、じわじわと外へ広がろうとしている。
「エルフィさん」
目を開けたすずなは、光から視線を外さないまま呼びかけた。
「あの縁、闇で気配を薄める時と、少し似ている気がします。境目が、ほどけていくみたいで」
エルフィはしばらく黙って、すずなの横顔に目を向けていた。
「感じ取れたか」
「はっきりとではないです。でも、自分でやる時とは逆で、戻ってこない感じがしました」
「似ている、か」
エルフィは光の縁へ視線を戻して続けた。
「覚えておけ。その感覚は、きっとどこかで役に立つ」
そう言って、エルフィは三人の顔を順に見た。
「だからこそ、お前たちに力をつけてもらう必要があった。時空魔法、属性魔法、精霊魔法、狙撃。それぞれの力は、いずれこの綻びと向き合うときのための備えだ」
淡く光る地面を前に、すずなはこれまでの修行の日々を思い返した。レインに時の理を教わり、エルフィのもとで火と風と闇を一つずつ積み重ねてきた。その力が、初めて具体的な目的と結びついていく。
「私たちに、何ができますか」
真っ直ぐに尋ねたすずなに、エルフィは誤魔化すことなく答えた。
「今はまだ、何もない。綻びを完全に封じる方法は、私たちの間でもまだ結論が出ていない。だが、いずれその時が来る。そのときのために、力をつけておけ」
すずなが小さく頷いたとき、袖の端がそっと引かれた。見れば、紬の指先が遠慮がちに布地をつまんでいる。すずなは何も言わず、その指が離れるまで袖を預けておくことにした。光を見つめたままの紬の横顔からは、さっきまでの張り詰めた色が、少しだけ和らいでいた。
「俺からも一つ」
黙って様子を見守っていたガイルが、珍しく真剣な表情で口を開いた。
「俺たちも、できる限りの監視は続ける。だが正直、いつまで持つか分からない」
「結界の張り直しは、わたしが責任を持って続けます。今度は、エルフィ様に指摘されないように」
きっぱりと言ったリンドウの横で、ガイルが苦笑いを浮かべて頭を掻く。
「わたしたちも、狙撃ならいつでも力になれます〜」
「なれます〜」
相変わらずのぽわぽわとした調子で、けれどしっかりとした声で、ミナとリナが揃って頷いた。
全員の視線が、光を放つ地面へと注がれる。紬の言った通り、光の縁が、呼吸するようにかすかに膨らんでは縮んでいた。
やがて、エルフィが息を一つ吐いて口を開いた。
「今日は、これくらいにしておこう。詳しい方針は、また改めて話す。今はまず、この現状をその目で見ておいてほしかった」
森をあとにする帰り道、すずなは一度だけ振り返った。枯れ木の向こうに滲む淡い光は、遠ざかるほどに小さくなっていく。それなのに、ほどけていく縁のあの感触だけは、いつまでも肌の奥に残っているような気がした。




