第134話 三つの理を束ねて
翌朝、すずなが台所で朝食の支度をしていると、居間の方から引きずるような足音が近づいてきた。
「おはよう……」
振り返ると、寝癖で髪をあちこちに跳ねさせた紬が、まだ半分閉じた目をこすっていた。
「おはよう、紬。よく眠れた?」
「うん。自分のベッド、すごかった。クレアさんのところのより、ずっと柔らかい」
紬は台所の椅子に腰を下ろし、卓に頬杖をついた。鍋の中で煮立つ汁の匂いを、目を閉じたまま胸いっぱいに吸い込んでいる。
「すずなのご飯の匂いも、久しぶり」
「大したものじゃないよ」
「それがいいの」
椀に汁をよそって差し出すと、紬はそれを受け取りながら、ちらりとすずなの方を見上げた。
「昨日の、すごくよかった」
「朝から言わないで」
「次はいつ着てくれる?」
「次はないから」
すずなが即座に言い返すと、紬は残念そうに唇を尖らせたが、その目はまだ笑っていた。
そこへ、戸を叩く音が響いた。
戸を開けると、普段の青いローブ姿のエルフィが立っていた。その視線はすずなの肩越しに台所へと抜け、寝間着のまま椀を抱えている紬のところで止まる。
「なんだ、今日はあの装束ではないのか」
「寝る時まで着てるわけないじゃないですか……!」
紬の抗議に、エルフィの口の端がわずかに上がった。けれどそれもすぐに引っ込み、すずなへ向けられた目には、いつもの朝とは違う硬さがあった。
「食べ終わったら、草地へ来い。今日は、これまでの総仕上げをする」
「総仕上げ、ですか?」
「火、風、闇。三つの属性を、それぞれ単体では使えるようになった。次は、それを組み合わせる」
それだけを告げてエルフィが戸を閉めると、台所には少しの間、言葉が途切れた。
「すずな、頑張って。わたしは今日、ギルドに戻ったって報告してくる」
「うん。いってきます」
草地に着くと、エルフィはすでに中ほどに立って待っていた。
「実戦形式で試す。私も攻める。お前は、これまで学んだ全てを使って応じろ」
「エルフィさんが、直接……?」
すずなは目を見開いた。マスターランクであるエルフィと打ち合うのは、これが初めてになる。
「安心しろ。手加減はする。だが、お前は本気で来い」
そう言って距離を取ったエルフィが、短く告げる。
「いつでもいい。始めろ」
すずなは深く呼吸を整え、これまで積み重ねてきた三つの感覚を一つずつ確かめていった。鍋の熱を思い浮かべて灯す火も、筋を辿って借りる風も、縁を滲ませて薄める闇も、もう自分の中に根付いている。そう胸の内でなぞってから、すずなは一歩を踏み出した。
風を纏う感覚を呼び起こすと、足元から軽やかな加速感が広がり、エルフィとの距離が瞬く間に縮まっていく。
「速いな」
小さく呟いたエルフィが、すずなの接近に合わせてわずかに体をずらした。右手に灯した密度の高い白い炎を狙い通りの軌道で放っても、エルフィは最小限の動きでそれをかわしてしまう。
「次は、こちらからいくぞ」
言うが早いか、エルフィが軽く振った腕の先から、目に見えない何かが草を薙ぎながら迫ってきた。風の刃だと気づいた瞬間、すずなは足元へ風を集めて地面を蹴っていた。体がふわりと持ち上がり、つい先ほどまで立っていた場所の草が、音を立てて刈り取られていく。
「跳躍は、身についたようだな」
着地と同時に、すずなは自分の縁をそっと滲ませた。風による加速と組み合わさったことで、姿がぶれるような独特の動きが生まれる。
「ほう」
エルフィの目が、すっと細まった。すずなの動きを目で追いながらも、その軌道を読みきれずにいるようだった。
その隙をついて間合いを詰める。風で加速し、闇で気配を薄め、最後に火で決める。三つの理を途切れさせることなく繋ぎ、炎を纏った手がエルフィへと迫った。
だがその瞬間、エルフィの周囲の空気がわずかに歪んだ。
「な……」
視界がぶれ、エルフィの姿が二重に見える。先日教わったばかりのLabyrinth Echoが、目の前で形になっていた。
「油断するな」
声までもが、複数の方向から聞こえてくる。足を止めて意識を集めても、どちらが本物か見分けがつかない。焦れば焦るほど自分の気配が戻っていくのが分かり、すずなは歯を食いしばって息を細く吐いた。驚いても、力んでも、気配は戻る。エルフィの背中に忍び寄ろうとして、何度もそう言われたばかりだった。
気持ちを鎮めると、目の前の揺らぎとは別のものが見えてきた。姿は欺けても、そこに立つ体の重みまでは消せない。二つの影の足元に目を凝らした次の瞬間、片方の足元でだけ、踏まれた草の葉先がかすかに沈んだ。
「そこ……!」
その方向へ放った小さな炎が、本物のエルフィのすぐ脇を掠めていく。
重なっていた輪郭がすうっと一つに戻り、揺らぎが解けていった。大きく息を吐き出したすずなはその場に片膝をつき、全身から汗が噴き出していることに、今になって気がついた。
「初見でこれを見破った者は、そう多くない」
歩み寄ってきたエルフィの声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。
「本当ですか……」
「ああ。三属性を途切れなく繋げたうえに、Labyrinth Echoまで見破るとはな。何を見た」
「足元の草です。姿は二つあっても、草を踏んでいるのは片方だけでした」
「力めば気配が戻ると教えたのは私だが、力まずにいた分、余計なものまで見えたか」
呆れたような口ぶりとは裏腹に、エルフィの口元はほんのりと緩んでいた。
「相手に働きかける方は、まだだな」
「はい。まだ、形にもなっていません」
「それでいい。実戦の中で、いずれ手が覚える」
すずなの前にしゃがみ込んだエルフィが、その目をまっすぐに見据える。
「これで、基礎は終わりだ。今日からお前は、火・風・闇の三つを実戦で使える魔法使いだ」
「ありがとうございます」
深く頭を下げたすずなの息がようやく整い始めた頃、遠くから懐かしい声が響いてきた。
「すずなさん……!」
顔を上げると、草地の入り口に立つ人影が、大きく手を振っていた。
「心春さん……?」
すずなが立ち上がるより早く、心春が小走りで駆けてくる。その肩のあたりで、淡く透き通った風の輪郭がくるりと渦を巻いた。
「わあ、君がすずな? ミハルから、いっぱい聞いてるよ」
「フィン、まずはご挨拶でしょう」
肩の上の風をたしなめてから、心春はすずなに向き直った。
「戻ってきました。修行、無事に終えて」
笑顔で告げる心春の手の甲には、淡い光を放つ紋章が浮かんでいた。襟元からも、もう一つの紋章の光がかすかに覗いている。
「すずなさん、すごい汗……もしかして、今まで修行していたんですか?」
「ちょうど仕上がったところだ」
すずなの代わりに答えたエルフィが、心春の紋章に目を留めて小さく頷く。
「お前も、ものにしてきたようだな」
「はい。シェイラさんに、たくさん鍛えてもらいました」
胸を張る心春に、すずなは笑いかけた。
「おかえりなさい、心春さん。紬さんも、昨日戻ってきたんですよ」
「紬さんも……! じゃあ、本当にみんな揃ったんですね」
心春が声を弾ませると、胸元の紋章がひときわ明るく灯った。心春はくすりと笑って、胸のあたりにそっと視線を落とす。
「バーニルが、騒がしい奴らの集まりだな、って」
「バーニルにだけは言われたくないよ!」
すかさず言い返したフィンの声に、心春とすずなは顔を見合わせて笑った。少し離れてそのやり取りを眺めていたエルフィが、腕を組んで小さく鼻を鳴らす。
「店の予約が、無駄にならずに済んだな」




