第133話 二人の夜
エルフィと店の前で別れ、心春が戻ったらそこで揃って食事をしようと約束を交わしてから、すずなと紬は久しぶりに二人だけで家へ向かった。
道中の話は、これといって特別なものではなかった。レインの研究室に積まれた本の高さや、クレアの拠点で食べた料理の味、エルフィが修行の合間に菓子をつまむ回数について、他愛のない話を一つ交わすたびに、離れていた間の空白が少しずつ埋まっていく。紬は相変わらず人目を気にしてすずなの陰に隠れようとしていたが、家の戸が見えてきた途端、その足取りが目に見えて速くなった。
家に入るなり、紬は荷物を戸口に置いて自分の部屋へ駆け込んだ。
「着替えてくる! もう一秒もこの格好でいたくない!」
扉の向こうから、慌ただしく装束を脱ぐ音が聞こえてくる。すずなは小さく笑いながら台所に立ち、湯を沸かした。久しぶりに二つ並べた湯呑みが、棚の奥で少しだけ埃をかぶっていた。
やがて居間に戻ってきた紬は、見慣れた私服姿になっていた。眼帯を外したばかりの右目を、何度も瞬かせているのがなんだかおかしい。
「おかえり、紬」
「ただいま、すずな」
街の道で交わした挨拶と同じ言葉なのに、名前だけで呼び合うと、響きがまるで違って聞こえた。紬は居間をぐるりと見回し、ほっとしたように肩の力を抜く。
「変わってないね」
「変わってないよ。紬の部屋も、そのままにしてある」
すずなが淹れたお茶を受け取って、紬は長椅子に腰を下ろした。湯呑みを両手で包み込み、ゆっくりと息を吐く。
「やっと帰ってきた感じがする」
「さっきまで、ずっと緊張してたもんね」
「誰のせいだと思う?」
「クレアさん?」
「クレアさんと、エルフィさん」
憮然とした顔でお茶をすすった紬は、湯呑みを卓に置くと、改まった様子ですずなの方へ向き直った。
「それで、約束、覚えてる?」
すずなは湯呑みを持つ手を止めた。
「なんのこと?」
「見せてくれるって言った」
「言ってない。紬が言っただけ」
「すずなは返事しなかったけど、断りもしなかったよね」
紬は身を乗り出し、すずなの目をまっすぐに覗き込んだ。
「エルフィさんは見たのに、わたしは見てない。ずるいと思わない?」
「それは、エルフィさんが勝手に持ってきたからで……」
「じゃあ、わたしも勝手に頼む。お願い、すずな」
両手を合わせて見上げてくる紬に、すずなは返す言葉を失った。数か月ぶりに帰ってきたばかりの相手に、こんな顔で頼まれて断れるはずがない。
「少しだけだからね」
「うん!」
自分の部屋で箱を開けると、黒地に赤いレースをあしらった衣装が、あの日のまま畳まれていた。袖を通し、背中の紐を手探りで結んでいく。幾重にも重なった裾が膝のあたりでふわりと広がり、胸元の大きなリボンが顎の下で揺れた。前にも着たはずなのに、紬が待っていると思うだけで、指先がうまく動いてくれない。
居間へ続く扉の前で一度深呼吸をしてから、すずなはそっと顔だけを覗かせた。
「着た、けど」
「入ってきて」
促されるまま居間へ足を踏み入れると、長椅子に座っていた紬が、湯呑みを口元へ運びかけた姿勢のまま動かなくなった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。紬の視線が、すずなの頭の先から裾の端までゆっくりと降りていく。その視線が通り過ぎたところから順に、肌が火照っていくような気がした。
「何か言って」
「待って。今、ちゃんと見てるから」
「見なくていいから、何か言って」
紬は湯呑みを卓に置き、長い息を一つ吐いた。
「似合ってる」
「からかってない?」
「からかってない。すごく可愛い」
真顔のまま言い切られて、すずなは裾を握りしめた。昼間、街の道で自分が紬に向けた言葉と、ほとんど同じやり取りになっている。反撃しようにも、先に同じことを言ってしまったのは自分の方だった。
「ずるいよ、それ」
「何が?」
「昼間の私の台詞、そのまま返すの」
「だって、本当にそう思ったから」
紬はすずなの袖を軽く引いて、長椅子の隣へ座らせた。ふわりと広がった裾が、紬の膝にまでかかる。紬はその裾を少しよけてから、すずなの肩にそっと頭を預けた。肩に乗った重みと、髪から立ちのぼる知らない石鹸の香りに、紬がしばらく別の場所で暮らしていたことを思い知らされる。
「クレアさんとの修行、大変だった?」
「うん、色々あった。片目は塞がれるし、左手は封じられるし。あの格好のことも」
紬は苦笑して、それ以上は続けなかった。話し始めれば、きっといくらでも出てくるのだろう。
「でも、それよりすずなに会えない方が、ずっと大変だった」
すずなの胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「私も同じ。紬からの手紙、端が擦り切れるくらい読み返してた」
「本当に?」
「本当」
紬が顔を上げ、すずなをまっすぐに見つめた。
「すずな」
「うん」
「会いたかった」
囁くような声に、すずなは小さく頷いた。
「私も」
紬はもう一度すずなの肩に頭を戻すと、胸元のリボンの端を指先でつまみ、くるくると弄び始めた。
「でも、やっぱり悔しい」
「何が?」
「エルフィさんより先に、わたしが見たかった」
拗ねたような声の割に、リボンをつまむ指先はやけに楽しそうで、すずなはもうしばらくこの衣装のままでいようと、こっそり心に決めた。




