第129話 揺らぐ知覚
翌日、すずなは草地に立ち、目を閉じたまま自分の縁をぼやけさせる感覚を何度も確かめていた。昨日よりも、その感覚を呼び起こすまでの時間は短くなっている。境目を滲ませると、体の表面がすうっと周りの空気に溶け込んでいくような、独特の浮遊感があった。
「今日は、それを試す」
エルフィの声に、すずなは目を開けた。
「試す、ですか?」
「私はここに立って、背を向けている。お前は気配を薄めたまま後ろから近づいて、私の背中に触れろ」
「触れれば、いいんですか」
「触れられれば、な。私が気づいた時点で、そこまでだ」
エルフィはそれだけ言うと、すずなに背を向けた。華奢な背中が、草地の真ん中にぽつんと立っている。
すずなは二十歩ほど離れた場所まで下がり、身を屈めた。昨日の感覚を呼び起こし、自分の縁を曖昧にしていく。呼吸を浅くし、足音を立てないようにして、周りの景色に自分を溶け込ませる。
一歩、踏み出した。
足の裏に、草の柔らかな感触が伝わる。湿った土と青い草の匂いが、やけに鮮明だった。
二歩、三歩と進んでも、エルフィの背中は動かない。
十歩を越えたあたりで、すずなの胸に期待が膨らんだ。このまま、届くかもしれない。
残りが五歩になり、四歩になる。
手を伸ばしかけた、その時だった。
「そこだ」
エルフィが振り返りもせずに言った。
「あ……」
すずなは伸ばしかけた手を宙に止めたまま、固まった。エルフィの背中までは、まだ三歩あった。
「三歩手前だな」
ゆっくりと振り返ったエルフィが、すずなの手と自分の背中との距離を目で測った。
「初めてにしては、かなり近くまで来た」
「どうして、分かったんですか。足音も立てていなかったのに」
「お前が、触れようとしたからだ」
当然のように返され、すずなはきょとんとした。
「手を伸ばそうと思った瞬間に、滲ませていた縁が元に戻った。昨日の小鳥と同じだ。驚いても、力んでも、届くと期待しても、気配は戻る。気配を薄めている間は、心まで周りに溶かしておけ。何かをしようと思った時点で、そこに誰かがいると教えているようなものだ」
「心まで……」
言われてみれば、残り数歩になった時、届くかもしれないという思いが一気に膨らんでいた。気が抜けたせいか、全身にじんわりと疲れが広がっていく。
「もう一度だ」
二度目は、十五歩のところで気づかれた。緊張で、最初から体に力が入っていたらしい。三度目は、何も考えないようにと考えすぎて、かえって七歩で見破られた。
四度目、すずなは昨日の小鳥を思い浮かべた。草の種をついばんでいたあの茶色い鳥は、何かを狙うでもなく、ただそこにいた。
自分も、ただここにいるだけだと思いながら、一歩ずつ進む。
気づけば、エルフィの背中は手を伸ばせば届く距離にあった。
すずなはそっと、指先でその背に触れた。
「触れたな」
エルフィが、ゆっくりと振り返った。その目にかすかな驚きの色が浮かんでいるのを、すずなは確かに見た。
「できました」
「ああ。四度目で届くとは思わなかった」
すずなは笑みを浮かべかけて、慌てて引っ込めた。ここで喜べば、また気配が戻ってしまう気がした。
「もう気配は戻していい」
「あ、そうでした」
エルフィは呆れたように鼻を鳴らした。
「気配を薄める感覚は、これでいい。次は、少し違う使い方を教える」
エルフィはすずなを草地の中央へと連れ戻した。
「今度は自分ではなく、相手に働きかける」
「相手に、ですか」
「闇にはもう一つ、大事な使い方がある。相手の感覚を惑わせる力だ。Labyrinth Echoという」
エルフィは腕を軽く持ち上げた。
「見ていろ」
すずなが目を向けると、エルフィの周りの空気が歪んだように見えた。姿がぶれ、一人だったはずのエルフィが二人、三人と重なって見える。
「わ……」
「これが、知覚を惑わす力だ。相手の目や耳に、ささやかな偽りを紛れ込ませる。実際に姿が増えているわけじゃない。お前の知覚そのものが揺らいでいるだけだ」
エルフィの姿が一つに戻ると、すずなは胸に手を当てた。
「今のは、少し怖かったです……」
「実戦では、これを一瞬の隙を作るために使う。相手の判断をほんの一瞬でも遅らせられれば、それだけで戦いの流れは変わる」
相手の目や判断そのものを乱す力は、これまでの試練で身につけてきた力とはまるで向きが違っていた。
「どうやって、身につけるんですか」
「考え方は、気配を薄めるのと同じだ。ただし、向ける先を自分ではなく相手にする」
エルフィはすずなの正面に立った。
「相手の目に映る自分の姿を思い浮かべろ。その姿に、かすかな乱れを重ねる」
「乱れ、ですか」
「二重に、三重に揺らがせる。体を動かす必要はない。相手の知覚に、魔力で働きかける」
言い終えたエルフィの目が、すっと細められた。
「こういう使い方もある」
次の瞬間、すずなの視界が深い闇に覆われた。
「え……」
何も見えない。それだけではない。草の擦れる音も、鳥の声も、すべてが遠のいていく。自分がどちらを向いているのか、立っているのか座っているのか、どちらが地面なのかさえ、分からなくなっていた。
「わっ、わっ……!」
咄嗟に足を踏ん張ろうとしても、その足がどこにあるのかすら掴めない。
「これが、感覚を奪うということだ」
エルフィの声だけが、どこか遠く、それでいてはっきりと届いていた。
「安心しろ。すぐに戻す」
その言葉と同時に、視界が草地の景色を取り戻した。すずなはたまらず、その場に膝をついた。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫か」
「な、何が起きたんですか、今……」
荒い息のまま顔を上げると、全身に冷や汗が滲んでいた。
「目と耳、両方の知覚を同時に奪った。加えて、体の傾きを感じる力にも干渉した」
エルフィは淡々と説明し、それから表情を引き締めた。
「これが闇の本当の恐ろしさだ。姿を隠すだけではない。極めれば、相手から世界そのものを奪える」
すずなは言葉を失った。頭に浮かんでいたのは、Moon Returnの黒い霧だった。あの霧に呑まれた相手も、今の自分と同じように、どちらが上かも分からない闇の中に放り込まれていたのかもしれない。これまで何気なく使ってきた力の重さが、今になって胸にのしかかってくる。
「相手の側に立って、少しは分かったか」
「はい……正直、怖かったです」
「その怖さを覚えておけ。同じことを相手にする力を、お前はこれから身につける。軽々しく使っていい力じゃない」
「分かっています」
まだ震えの残る手を握りしめ、すずなはエルフィの目をまっすぐに見返した。
「では、私を相手に試してみろ」
すずなは正面に立つエルフィの姿を思い浮かべ、そこに揺らぎを重ねようとした。けれど、何も起きなかった。
「難しいです」
「当然だ。相手に働きかける魔法は、自分に使うものよりずっと繊細な加減が要る。今日一日で身につくものじゃない」
エルフィの声に、失望の色はなかった。
「一つだけ言っておく。揺らがせようと力むな。相手の目に映る自分を、ほんの少し滲ませる。さっき、私の背中に触れた時の続きだ」
「さっきの、続き……」
「気配を薄める感覚は、既に掴んでいる。あとはその先に、知覚を揺らがせる感覚を重ねていくだけだ。焦る必要はない」
「はい」
すずなが頷くと、エルフィは草地を見渡した。
「時の理は、レインから。火と風と闇は、私から」
一つずつ数えるように、エルフィは言った。
「どれも、まだ入口に立ったばかりだ。だがお前は、それをその手の中に束ねていく」
「束ねる……」
「南へ行く頃には、そうなっていてもらう」
すずなは自分の手を見下ろした。時を緩め、火を灯し、風に乗り、気配を消す。ばらばらに覚えてきた一つ一つが、この手の中で、いつか一つになる。
「はい」
もう一度、すずなははっきりと答えた。




